Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

2010年 スペインの旅 (1) 出発 ポーツマスからサンタンデル

2010-11-30 01:07:34 | キャンパーヨーロッパ 2010年




アイルランドのキャンプ旅行から帰ってすぐ、今冬はスペイン、ポルトガルで越冬しようと決めた。
今年の夏は日本の猛暑と正反対で、8月に夏らしい天気がなかった。英国生活38年にもなる私にとって、今だ8月は汗をかく位の暑さがほしい。
夏の来ないままに、10月末の冬時間がやってくるのは耐え難い。一番最低なのは冬時間と同時に夜の来るのが早くなり、天気の悪い日には夜明けが8 時過ぎ、夕暮れは3時過ぎになってしまう。

11月5日のフェリーでポーツマスからスペイン北部のサンタンデルへ行くことにした。

11月4日ポーツマスに一番近いキャンプ場に一泊した。設備の整った大変きれいなキャンプ場で、11月にもかかわらず、キャンパーがぎっしりと駐 車していた。こんな時期にこんなにたくさんの車、皆この辺りで越冬するのかしら。 ポーツマスから出たフェリーにはたった5台の キャンパーが積み込まれただけ。





サンタンデルは今から20数年前にフランスを通ってキャンプ旅行に行ったことがあった。その頃セカンダリースクール(中学、高校にあたる)に入っ て一年目の娘が、習いはじめたばかりのスペイン語で、私のマーケットでの買い物に通訳として十分役立ってくれ、感心したものだ。
その時にサンタンデルのどこのキャンプ場に泊まったかなど、全然覚えていないが、唯一つ忘れられない思い出がある。
キャンパーを停めた港の堤防にたくさんの釣り人が立っていた。一体何が釣れるのかと近寄ってみてびっくり仰天。 処理されていない真っ黒の下水の 水が噴出しているところに、大きさ2-30センチの魚が群れになって泳いでいて、それを釣って、彼らはどうするのか?あの後、しばらく魚が気持ち 悪く て食べられなかった。




ポーツマスからサンタンデルまで24時間もかかる。そして世界でも有名な荒海ビスケイ湾を渡ってゆく。今まで何度も船酔いで苦しめられたわが身 は、乗船と同時にベッドに釘付け、24時間の長ーい時間を耐えに耐えた。
私を気の毒に思った海の神様ポセイドンがいたかどうかは知らないが、この夜は意外なほど海が凪いで、昔は海の男だった亭主が驚いていた。





薄日の差す穏やかな朝、フェリーから眺めるサンタンデルの町は美しい。町外れに建つ白い宮殿、いくつも宮殿風に見えるホテルや、周辺の岡の上まで びっしりと立ち並ぶ高層住宅、金曜日の早朝からセーリングしている人々。フェリーを降りるとすぐこの町を出るのにあせりまくって、やっぱり道に 迷って,郊外26kmのキャンプ場に落ちついたのはまだ午後早い時間だった。



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スペインの旅(2) サンティジャーナル・デル・マル

2010-11-29 01:23:57 | キャンパーヨーロッパ 2010年



Santillane Del Mar

午後1時前にはキャンプサイトに落ち着き、この日の午後は近くの村へ散歩に出かけた。気候は穏やかでTシャツで歩けるくらい暖かかった。キャンプサイトから2kmに在るという村を目指して長い坂道を登り、丘の頂上から4方が見渡せる。なだらかな丘と牧場が連なり、あちこちにかたまったテラコッタ色の屋根と明るい緑が絶妙のコントラストをなしている。首に大きな鈴をつけた牛が動く度にガラガラ音を立てていて、"よくも発狂しないものだ "と二人で笑いながら通り過ぎた。

坂道を下ってゆくと観光バスが数台停まった村はずれ、まず目についたのが高い塀に囲まれた教会らしいもの、まるで監獄みたいだと思いながらただ一つ見える鉄格子のドアでここが尼僧院だと判った。
それにしてもこの村の石畳の素敵なこと、すべての石が磨かれ輝いているようだ。






全然期待していなかったここは、中世から歴史的由緒のある村で2階、3階建ての立派な建物が多く、観光客が多かった。初日にしてこんな素敵な村に来れて、まるで宝くじに当たったような気がした。ほとんどの建物が16-18世紀のものだそうだ。





土産屋さんの店先に出してある絵葉書に教会の手前で黄色い日傘を差して絵を描いている画家が写っていて、まったく同じ場所で同じように教会の絵を描いている画家を見つけた。
もしかしてこの画家は毎年、毎日同じ絵を描いているのかも知れない。観光協会からお給料が支払われているのかも知れない。道の真ん中には中世の共同洗濯場がありあまりきれいとは言いがたい水があふれていた。





村の最奥に古い王宮があった。何の変哲もない宮殿でこの日は閉まっていたが、ここも歴史やいわくを知れば興味がわくかもしれない。教会広場の一角はジーザス・オテロという面白い名前の彫刻家の美術館が占め、庭や屋内に野生動物の顔を彫刻したものが展示されていた。たぶんスペインでは有名人だろうと思う。



村の中心はなんと言っても12世紀建立のロマネスク教会、教会内部は撮影禁止だったがすばらしい石造りの回廊は許可されていて,石柱の上を飾る細かい彫刻にはいたく感激した。
この彫刻には物語があるらしく、スピーカーから流れるスペイン語に耳を傾けた観光客がやたらと写真を撮っていた。このサンタ・ジュリアナ・コリゲイト教会はカンタブリア州で最大のロマネスク教会であるという。
あちこちの大きな石造りの家の玄関には家紋が彫刻され、この村がただの田舎の村でないことが判る。






夕方すっかり寒くなってきた2kmの道を歩いてキャンプサイトに戻り、持ってきた天本英世著スペイン巡礼を開いてみた。この著者は今から30年以前に、バスや汽車で全スペインを回り、もちろんこの村にも意図して立ち寄っている。彼の訪れた頃と今も全然変わっていないはずだ。

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スペインの旅 (3) アルタミーラ洞窟

2010-11-28 23:34:52 | キャンパーヨーロッパ 2010年


Altamira

サンテジャーナ・デル・マルの村から帰った夜は激しい雨が降り続いた。翌朝真っ暗な空と横殴りの雨の中、次のコミージャスへ向かう前に村から2kmはなれた岡の上にあるアルタミーラ博物館へ行こうと亭主が言った。
雨の降りしきる日曜日の朝というのに、駐車場はたくさんの車で埋まっている。ここが世界に有名な洞窟だとは博物館へ入るまで知らなかった。
このモダンな博物館は2001年にオープンして、世界中から観光客が集まってくるという。

日曜日は入場無料で11時5分の整理券をもらって入場した。 ”その時間まで館内を見てください。5分前にここへきてください”と指示を受け、館内に展示された石器時代の生活や世界中に点在する壁画などの写真を見て回った。
整理券で受付前に集まった20人くらいの人たちと、壁だと思っていた大きなドアの中に送り込まれ、洞窟の成り立ちや、発見されたいきさつを映画でみた。

次の通路は直接洞窟につながっていて、考古学者が掘り起こした骨だらけの床や、一部に設置されたスクリーンで石器時代の人々が火をおこしたり、動物の皮をはいだりしているのが見える。
洞窟の奥深い岩天井にいろいろな姿のバイソンや馬の絵が描かれている。想像したよりも大きく、そして線画に黒と茶色で彩色された絵を見ていたら涙腺が緩んでしまった。数年前ノルウエーとスエーデンで氷河で磨かれた岩の上に線で描いた動物や、人々、船などの絵を見たが、単純な線だけで、これほどすばらしい技術をもった現代にも通用しそうな絵は見たことがない。1万6千500年前にも天才画家がいたのだと思う。スペインにピカソやダリが生まれたのが判るようなきがする。

これを見て、きっとピカソはここへ来たに違いないと確信した。
今日インターネットで調べてみたら、やっぱりピカソはこの洞窟に言及していて、”アルタミーラ以降の絵画は皆堕落だ ”と。

この洞窟は現在ユネスコに指定されている。1879年にアマチュアの考古学者と彼の9歳の娘によって発見されたこの洞窟は、世界中に旋風を巻き起こした。当時このような高等な手法で描かれた石器時代壁画はなかったから、誰にも信じがたいことだったらしい。
1902年に初めて認められて、以来多くの訪問者によって洞窟内が損傷され、長い間閉鎖されていた。2001年この博物館がオープンして、私が見てきた洞窟はコピーだという。
コピーでもあれだけ感激したのだもの、来てよかった。

博物館内は撮影禁止でこのブログに写真を載せることが出来ない。帰国したときに、この博物館で買った絵葉書をスキャンして載せることにしよう。





博物館から16km西にあるコミージャスへ向かった。通り過ぎてゆく村に立派なきれいな教会があり、併設された大きな建物は一体なんであろうか。

 

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スペインの旅 (4) コミージャス

2010-11-27 00:50:49 | キャンパーヨーロッパ 2010年



サンテジャーナ・デル・マルのみやげ物店で見かけた絵葉書に、ガウディの建築があるのを見つけ、洞窟のあとコミージャスへ向かった。

海岸通に駐車して、通りかかった人に聞くとここをまっすぐ500メーターくらいといわれ、歩いてゆくことにした。この町も奥へ行けば行くほど、重厚な落ち着いた町並みで、ガウディのカプリーチョのサインを見つける前にパラシオ・コミージャス・公爵邸の門を見つけた。

パレスは閉まっていると書いてあったが、一応外観を見ようと長く曲がった門中を歩いて行くと、なんと目の前にカプリーチョが出現。
一応塀で仕切られ、カプリーチョの敷地への入り口がない。コミージャス邸は坂道を上がったところにあり古くて、立派な建築物だった。

この公爵がガウディの初めてのパトロンであり、このカプリーチョを依頼したものだ。だからこのカプリーチョはガウディのまったく初期の作品なのだ。

 

公爵邸の門を出て、ぐるっと一回りした町の一角にカプリーチョのサインを見つけ、一人5ユーロづつを払って入館した。
この建物は公爵邸に向かったほうが正面玄関で、料金を払った門はたぶん昔は使用人用の裏門に当たるらしい。今では敷地が区切られているが、昔は伯爵邸の屋敷の一部だったらしい。

 

 


邸宅内は外観の派手派手とは反対に簡素化され、天井に彩色されたパネルが見えるだけで、落ち着いた雰囲気だ。


 

外観の壁はひまわりの浮き彫りタイルで飾らされ、庭の石門までが装飾されている。

 

この公爵邸やカプリーチョと向かい合う岡の上にある明るく巨大な建築物は、ガウディの師であるワン・マルトレールの設計でガウディのクラスメート・クリストバール・カスカンテが施工した大学だという。ガイディは後世にすばらしい美術品を残しただけでなく、後世の人たちの為に教育の必要性を進言して、この大学が建設されたものだという。

 


コミージャスの町はやはり磨かれた石畳と古い高層建築物からなり、ゆっくり見て歩けばいろいろ面白いものに出会いそうだ。でも数分おきに降り出す雨の中では早くキャンプサイトに落ち着きたくなるのは止むを得ない。


 

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スペインの旅 (5) ルアカ ( Luarca )

2010-11-26 23:19:35 | キャンパーヨーロッパ 2010年



ガウディのカプリーチョを見てから今日で4日も経ってしまった。コミージャスでも数分おきの激しいにわか雨にたたられ、高速道路を西に行くうち何度も虹を見るようになった。
今まで虹を見たときは、ラッキーなどと叫んでいたが、そのたび西の空が真っ暗で雨が叩きつけるから、最後は ”またぁ 虹!”とイヤーな気持ちになった。道筋の2箇所でキャンプサイトを見つけ2泊後2日前の午後このルアカ(Luarca)のキャンプサイトにたどり着いた。

ここは海に突き出た岬の高台にありまわりは松林と花の終わったアジサイの巨木に囲まれたキャンプ場。この日は雷、稲光の暴風雨になりインターネットも雷のため早くに使用禁止になってしまった。

 

サイトから見る海は荒れに荒れて、海鳴りが重く防音の利いたキャンパーの中まで聞こえてくる。嵐の去った翌日は、このブログを書くのに忙しくどこへも行けなかった。というのも2日間で4ユーロの使用量を払ったから、この日しかない。

松林の中の地面には大きな腐ったきのこが生えていた。もう一ヶ月早ければ、大喜びできたかもしれない。今は紫色のクロッカスが芝生の中に生えて踏まずにキャンパーに行くのは至難の技。

 


今日は強風だけど、雨が少ないからキャンプサイトから2kmの町へ行ってみることにした。岬に見える白い灯台の向こうがLuarcaの町で、キャンプサイトは高台にあるから、長い坂道を降りて町の中心地へやってきた。


 

 

町の中心を流れる大きな川は流れが速く、あれほどたくさん降った雨にもかかわらず、水は澄んでいた。河の石原に鷺と見たこともない鳥たちがたむろしている。七面鳥みたいに醜くそして水かきがあるから七面鳥じゃない。”あんた一体何よ ”と話しかけたがもちろん返事してくれない。


 

港は堤防が2重になっていてどんな嵐にも耐えられそうだ。港を取り巻く家は、今までのスペイン色のテラコッタ色がないからそれほどきれいとはは思えないが、どんな隙間にも階段のように家が密集しているのは見事だ。
街中の銀行のキャシュマシーンでユーロを引き落とした。今日はユーロが弱くなったとのニュースで、ニヤリとしている。


 


灯台へ行く途中に大きな墓地がある。スペインはカソリックの国だから遺体は埋葬するのかと思っていたが、昨今の土地不足、ここの墓地でも戸棚式のパネルが張ってあったから、火葬になりつつ在るのだろう。


  

夏に来ればすばらしいホリディが楽しめそうなこの町や、キャンプサイトだけれど、明日からまた大西洋に低気圧が張り出し、スペインから英国を覆って数日間は雨という。急いでポルトガルへ南下しようと話し合っている。

 

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スペインの旅 (6) サンティアゴ・デ・コンポシテーラ

2010-11-25 21:43:23 | キャンパーヨーロッパ 2010年



9月を過ぎるとキャンプサイトもほとんどが閉まり、年中開いているサイトは北スペインではまばらにしかない。ルアカのサイトを出た日はすばらしい晴天で、これでは天気予報は当たらなかったかと思って西へ60Km行ったところのフォズ(Foz)へキャンプサイトを探して行った。
ところがここは閉まっていて、次に開いているところは100Km以上はなれたカーバロ(Carbaro)。そこを目指して走り出してまもなく、雨が降り出し風も強くなってきた。

やっぱり大西洋に発生した低気圧は嘘じゃなかったらしい。途中で気が変わって南のサンティアゴ・デ・コンポシテーラへ行くことに決めた。風雨は次第に強さを増し、町から1Km離れたキャンプサイトにたどり着いたときは嵐だった。

サイトにはオランダのキャンパーが1台が停まっていて、彼らはこの日町の見物に出かけていて夕方遅くまで帰ってこなかった。こんな嵐ではどこへも行けないと、この日の午後はキャンパーの中で、たまたま映ったスペインのテレビを見て過ごした。もちろんスペイン語はわからないから、スポーツ番組ばかり見ていた。


 

嵐は一晩中吹きまくり、白樺林の中のキャンプ場は枯葉がキャンパーの横にべったりくっついて汚らしい。この嵐は30時間も吹き荒れた。
この朝出会ったオランダ人は、”サンティアゴの町はすばらしいが天気が悪いからポルトガルへ行く”と言っていた。せっかくだからこの町を見ないで出てゆくわけには行かないと、雨合羽を着込んで雨の中を旧市街へ向かった。

ちょうど1週間前、サンタンディアへついた日にバチカンからローマ法王がここを訪れていた。どんなにすばらしい町であろうかと、期待していった。チャンプサイトでもらった地図ではこの旧市街には、大聖堂やあらゆるクリスチャンの教会が集まっている。
雨は横殴りに吹きつけ、旧市街に着いたときには亭主の防水ズボンが全然利いていないことが判明。ズボンも靴もグッショリ。



 

とにかく雨を避けるために、てじかに入った大教会は、奥に宝物殿があり4階まであらゆる宝物を展示していた。この教会サン・マーティン修道院は11世紀から16世紀に建立されたこのサンティアゴの主要教会の一つで非常に大きな建築物だった。


 


過去のローマ法王レオ13世の素敵な肖像画には心引かれてこの写真を撮った。

 


中世には教会は貧者の救済所だったばかりでなく、病院の役目もしていたらしく、ここのは薬剤保管、調合の大きな2室があった。


 



サンティアゴ大聖堂の前の大広場は一週間前のローマー法王訪問に際して作られた架設ステージを取り払う途中で、暴風雨の中作業はあまりはかどっていない様子だった。このような天候でも、大聖堂へ入場するための観光客が長い列を作っていて、一目見てあっさりあきらめた。さすがスペインは旧教徒の国だ。

 


街角のくず入れに突風で折れた傘が無数に突っ込まれて、今日のこの天気に出かけるのが、狂気の沙汰だと思うが、私たちもその中の一組、まったく救われない。


 


 

ほとんどの町を見ない前にあきらめてキャンプサイトに帰ってきたが、私の雨合羽は通気性ゼロのため合羽の内側は汗と水蒸気の凝縮で、頭から靴下まで水浸し状態だった。

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スペインの旅 (7) ポートシン(Portsin )

2010-11-23 14:48:32 | キャンパーヨーロッパ 2010年



嵐の翌朝はほとんど奇跡と思えるほど晴れ渡り、うろこ雲が散らばっている秋空。サンティアゴから西の海岸線へ向かった。

あれほど澄み渡った青空が西へ向かうにつれ曇ってきて、ポートシンのキャンプサイトについたときは土砂降りの雨だった。この辺りはガリシア地方と呼ばれるスペインでも一番風光明媚な所、真夏ならば観光客でごった返しているだろう。あいにくキャンパーは私たちのが一台だけ。
このキャンプサイトにもキャラバンを設置して、住み込んでいるローカルの人たちがいる。日中は車で仕事に出かけキャンプサイトから通勤しているらしい。確かに自宅を持つよりずっと安上がりになる。電気代や水道代などはキャンプサイトの滞在費に組み込まれているし、長期滞在すれば一日の料金が割引されてずいぶん安くなる。


 


キャンプサイトにインターネットが在ったので雨の午後、キャンパーの中でサンティアゴのブログを書き送った。この夕方はまた雷の激しいあられが降る暴風雨になり、まだ2週間も経ってないのに3回も嵐にあうとは・・・・と嘆息。
翌朝キャンパーの中から朝日が昇るのが見えて、もう一日このサイトで過ごして近くの漁村へ散歩にと決めた。青空にきれいな半円の虹がかかり、青空といえども水蒸気が立ち上っているのだろうかといぶかった。


 


キャンプサイトから近くの漁村までゆっくり歩いて30分、サイト横の松林にはピクニック用のテーブル・ベンチが設置されている。誰もいない砂浜の一角で鵜が羽を広げて日向ぼっこ、この一角だけかもめも鵜も仲良く集って何かを協議しているのだろうか?


 

夕べの激しいあられでこの日一日インターネットが不通。テレビニュースによれば、北ガリシア地方は雪が降ったと言う。この地方も冬に入りつつあるのに、ブーゲンビリヤや名も知らぬピンクの花が咲いていた。あちこちの庭に大きなオレンジの木が生えていて、やっと黄色みのついた大きなオレンジが鈴なりだった。


 

港は漁船とヨットハーバーに分かれていて、漁師が網をつくろっていたり、陸揚げしたヨットを整備している人たちなど皆忙しそう。私たちのようにのんびり歩いている人たちはいない。皆親切で、道路掃除のお兄さんに切手を売っている店を聞いたところ、仕事をそっちのけで、お店まで連れて行ってくれた。



 

庭付きのおうちには必ずといってよいほど犬がいて、小さなトイドッグほどきゃんきゃんとうるさい。私たちが庭を通り過ぎて見えなくなるまでなきわめいているが、ある一軒のお屋敷には2頭のアルセーションがいてこれが一声も吠えなかった。なんだか悲しそうな顔をしていて写真を見るとおかしくなる。

 

下の写真はキャンプサイトのバーで生ビールをくみ上げるポンプの飾りだった。


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スペインの旅 (8) リアス海岸 (Rias)

2010-11-22 17:35:27 | キャンパーヨーロッパ 2010年



北西スペインの海岸はリアス式海岸で日本でも使うリアスはこの海岸(スペイン語)から出た言葉だそうだ。ノルゥエーならばフヨールドと呼ばれている。ポートシンの海岸もリアス式海岸の一部で、周囲に大小の島が散らばっていて海は内海のように至極穏やかな様子を示す。ポートシンのキャンプサイトから海岸に平行して走る道を南下して、Pobra do Caraminal の町外れにキャンプサイトを探した。岬の突端に探し当てたサイトは来年の4月まで閉まっていた。キャンプサイトの周囲の海は整然といかだが組まれ、穏やかな海一面に、小船に乗った漁師が長くしなる棒の先につけた鉄製のざるで海底をさらって何かを採っていた。たぶん貝だろうと思うが、あんなにたくさんの船で毎日たくさんの漁師がさらって収穫が在るのだろうかといらぬ心配をしてしまう。


 

このサイトの周辺の海は穏やかで平和そのもの、サイトが開いていれば数日ゆっくりしたいものだが、後ろ髪惹かれる思いでここを後にした。

 

海岸に沿って立ち並ぶ住宅地の前庭や横に、コンクリート造りの高床式、納屋?か神社?のようなものが何度も目に付いた。誰にも聞けずいまだに ”アレハナンダ ”と疑問が渦巻いている。この夜は南の半島の先端近くでキャンプした。スペインへきてやっと2週間近く、この夜初めて衛星中継でスカイニュースを見ることが出来た。大喜びしたのもつかの間、この日英国のウイリアム王子の婚約発表で、スカイニュースにはそれ以外にニュースを流す気持ちは一切なかったようで、ほとほと飽きて、テレビを消してしまった。この日も夕から一晩中雨が降り続いた。
今朝もすっきり晴れて、雨などなかったような青空だった。南下する前に岬の最先端にくっついている小さな島を見てゆこうと、海岸沿いの道を走った。


 


島へ着く前の長い砂浜は遠浅の潟を形成し、何万羽もの海鳥がえさをついばんでいる。バードウオッチングが趣味の人ならばここは垂涎の的であろう。
深く入り組んだリアスの海に浮かぶいかだは牡蠣やマッスルを養殖しているのだと、オ・グローヴの港へ来て初めて判った。船から陸揚げしている大きな袋にびっしりと詰め込まれている、マッスルや牡蠣特に牡蠣貝の大きさには驚いた。今まであんなに大きな牡蠣は見たことがない。
辺り一面の海に養殖されているおびただしい量の牡蠣は、この地域の経済振興を大いに助けるにちがいない。

 



 



 


このリアス式海岸はポルトガルへ入国する手前まで複雑にいりこみ、かつすばらしい景観と海で暮らす人々へ豊富な生活の糧をあえてくれている。

 

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2010年ポルトガルの旅 (1) カミンハ(Caminha)

2010-11-21 17:49:32 | キャンパーヨーロッパ 2010年

 

昨日のお昼スペインの高速道路を南下し、ポルトガルの国境を越えた。今回初めて国境線には多くの警察車が待機していて、何台かの車が検問に引っかかっていたが、私たちはパスポートも見せずにまっすぐ通過した。そのままポルトガルの海岸線を走り、最初に開いているキャンプサイトがカミンハ(Caminha)に在った。
このサイトは町の中心から2kmほど離れた海水湖のほとりの松林の中で、スペインの半額の料金で、フリーインターネットがある。サイトのシャワーはまるで温泉に入っているほど湯の量が豊かで、施設はすばらしく清潔だ。ただここがポルトガルだと痛感したのが、トイレにシートがないこと。そしてトイレットペーパーがないこと。6年前に南ポルトガルに来たときにやっぱりトイレのシートがなくて、買ったのをいつもキャンパーに積み込んであった。これが又6年ぶりで役に立つ。


 

カミンハの町を通り過ぎてキャンプサイトへ行く途中に町の駐車場で大きな青空市が立っているのを見つけた。まずはキャンプサイトに落ち着いてから行こうと通り過ぎたが、午後湖のほとりの遊歩道を町へ向かっている間に、激しいにわか雨になりとうとうあきらめた。
今朝も時々来るにわか雨のため、準備万端整えてカミンハの町へ出かけた。湖岸の遊歩道から町へのメイン道路を通って行ったが、青空市は毎週水曜日だけらしい。町の中心スクエアは大きな立派な教会と放射線状に走る石畳の通りからなる。
中世の町らしく狭い石畳の路地が多くこれがしっとりとしたいい雰囲気をかもしだしている。



  

 

ここは湖と横から流れ込むカオラ河に囲まれた河口の町で、湖の向かい側はスペイン、そこにもテラコッタ屋根の町が広がっている。下の写真の教会は尼寺で、そっとドアを開けたら年取った尼さんが無心に編み物をしていて一度も顔を上げなかった。またそーっとドアを閉めて出てきた。

 


 

キャンプサイトへの道の行き止まりは数軒のレストランやバーとその後ろに長いワイルドな砂浜が延びている。この辺りは夏の海水浴時はどんなにすばらしいだろうか?来年夏の為に今からキャンプサイトの予約をしておこうかなどと夢みたいなことを考えてしまった。砂浜と平行して長く岩礁が延びているので、大西洋の荒波は直接砂浜に打ち上げてこない。
それでも嵐の時には塩水が浜に自生する潅木に当たるため、多くの木が枯れて流木の一部になっていた。岩礁の先の小島には石垣をめぐらした城砦が見える。

 


ポルトガルまで来るとスペインではまだグリーンのオレンジが実ってたわわになっている。今まで見たことのないきれいな紫色の花が住宅の小さな庭に咲いていた。


 



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ポルトガルの旅 (2) ヴィアナ・ド・カステロ(Viana do Castlo)

2010-11-20 20:10:00 | キャンパーヨーロッパ 2010年



カミンハのキャンプサイトがすばらしくよかったので後一泊はしたいと思ったが、朝から豪雨で、又一日キャンパーに閉じ込められてはたまらないと 南に16kmいったところのヴィアナ・ド・カストロへ向かった。途中から雨は小止みになったが、バケツをひっくり返したようなにわか雨が一日に何回もやってきた。ここのキャンプ場も後ろを長い砂浜が延びて、観光見所の旧市街地まで2km、長い橋を渡ってゆく。
この日の夕暮れ時、雨の晴れ間にサイトの裏の浜辺へ散歩に行った。夕日が沈む直前、強風の中で若い人たちがカイトサーフィンをやっていた。風に乗って舞い上がったり、波間を一直線に滑走したりで見ていて飽きなかった。11月の半ば過ぎでもそれほど寒さを感じなかった。

 

きれいな石畳の路地が多い旧市外は、クリスマスデコレーションがなされ、ショッピングセンターの中はもう完全にクリスマスの雰囲気。


 

この町で一番感心したのが、このまっすぐなメイン道路、カステロ駅からまっすぐ河へ向かう緩やかな坂道で、この大通りの下がまったく同じ長さの駐車場になっている。これを考えた人はなんと頭のいい人だとすっかり感じ行ってしまった。

 


14世紀からなるこの町外れには大きくていまだほころびのない城砦が在る。港の近くだからかもめの声や起重機の音、波の打ち寄せる音や、車のうなり、町のざわめきが聞こえてくる。城砦の壁の上を一周してみたが、誰一人にも出会わなかった。城砦のすぐ後ろに金色の海の女神像が立っている。腰巻が風になびいて、彼女は小さな帆船を手にしていた。

駅やショッピングセンターへ向かう上り坂には、ケーブルカーの乗降口が在り往復しても一人3ユーロ、これで標高249メーターのサンタ・ルシア山へ登った。




 


 


頂上にはネオ・ビザンチン様式のサンタ・ルジア教会が建っている。ここは町のほとんどから見上げることが出来る。ここから見下ろす旧市街も、左手に広がる巨大な新市街もテラコッタ色に白壁でとっても美しい町だ。教会の中もシンプルかつ色彩がきれいで、スペインのカソリック教会とはまったく違った雰囲気だった。

 


  


 

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ポルトガルの旅 (3) ギマランイス (Guimaraes)

2010-11-19 17:31:24 | キャンパーヨーロッパ 2010年



ギマランイスはヴィアナ・ド・カステロから南東・内陸にあり、たどり着くまでの道筋はほとんどがブドウ畑。この周辺で作られたぶどうは、収穫後海岸線の町ポルトへ運ばれかの有名なポートワインとなる。
ギマランイスは旧市街地全体が世界遺産になっている。朝から相も変わらず土砂降りの雨の中、10時過ぎに町の通りの道端に駐車できた。雨の日曜日の朝では観光地といえどもそれほど車も駐車していなくて、おまけに駐車料金も只だった。雨合羽に身を固め、旧市街の中心教会にたどり着くが早いか、またもやバケツをひっくり返したような雨。



 


 


ポルトガルの国を築いた初代国王アフォンソ・エンリケスがここのギマラインス城で生まれている。この城は10世紀に建造され、国王アフォンソは1110年にここで生まれた。今現在では廃墟になっていて、高さ28メータの塔の上まで階段を上ってゆくことが出来る。この塔の上から近くに見える宮殿は現在博物館になっていて、中世の貴族の生活を忍ばせる。
このブラガンサ公爵邸の中の一部にすばらしい小さな教会が在り、そのステンドグラスが入り口から上を見あげると宝石のように輝いていた。



 



 


 


 


ポルトガルの日曜観光でただ一つよいことは、博物館や宮殿の入場料が全部只になることだ。あちこち建物を見て堪能するような天気でなかったから、雨を避けるための美術館や博物館が只なのはありがたい。公爵館を出た後にも又、豪雨で飛び込んだのがアルベルト・サンパイオ美術館、ここは昔の修道院を美術館に改造したのでほとんどが宗教画や聖人像が展示されている。私は宗教画はあまり好きでないが、一枚のフレスコ画に興味を引かれた。左下の絵は16世紀に英国人画家によって描かれた サロメ 。


  

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ポルトガルの旅 (4) ポルト(Porto)

2010-11-18 17:35:24 | キャンパーヨーロッパ 2010年



ギマランイスにはキャンプサイトがなくて、この夜はポルトから北11kmにあるキャンプサイトへ行くことにした。この旅に出かける前に、”早めのクリスマスプレゼントだけど ”と娘からカーナビをもらった。スペインからあちこちで使ってみているが、キャンプサイトの住所を受け付けてくれなくて、いつもサイト近くで道に迷った。この日は夕方雨が止んで夕日が真正面から照りつけ、雨にぬれた道路に反射して前方が見えない。道路標識が出ていなかったり、工事中で何度も迂回させられたりで6回も人に聞いた挙句やっとたどり着いた。
このキャンプ場はポルトガルに着いた初めてのサイトと同じ系列で、必ず海辺の林の中、料金も安く、保安管理が行き届いている。おまけに2泊以上するとポート・ワインを一本プレゼントしてくれる。ポルトガルの全部のキャンプ場リストをもらったから、安心してゆくことが出来た。



 


ポルトはリスボンの北方300kmにあり、ドロウ河の北岸の起伏の多いポルトガル第2の町だ。元はといえばローマ時代にこの土地はポート(港)として栄え、名前がそのままポルトの町の語源に成った。。又ポルトガルの国名もこのポルトが語源であり、昔からポルトガル一の重要地として栄えている。川岸には主要なポートワインの会社の倉庫が立ち並び、旧市街の歴史地区や川岸のワイン倉庫などは世界遺産に指定されている。


 

このところ2週間以上も雨の降らない日がなかったのに、とうとう晴天に恵まれた。朝からバスで片道1時間以上もかけてポルトの町へ繰り出した。バスの終点は、旧市街へ入る岡のてっぺん。ここには18世紀に建てられたグレゴリス教会が在る。76メーターの尖塔が青空を突き刺している。どこへ行くにも坂道を降りなければいけない。急な坂道を50メーターほど下りると立派な建物が立ち並ぶリベルダーデ広場に出た。この広場を一回りして写真を取り捲ったが、歩いていてはこの町全体を見ることは出来ない。
オープンデッキの観光バスが走り回っている。赤いバスと黄色のバスで違う2社が営業している。24時間13ユーロで3つの違うコースを行くとの事、黄色のバスで12時過ぎから出かけた。

 


川岸の大きな建物は過去にはワイン醸造所から今現在ではワイン博物館になっているとの説明。左岸から見るこの町は又格別、本当に世界遺産にして当然のすばらしさだった。特にこの日のように晴天のこの町はどこを見てもただ感激!!!


 


右下はサン・ベント駅、元修道院の跡地に建てられ、あまり駅という感じがしない。駅ホールの壁にはこのポルトガル一体で見かけるブルーのタイル画(アズレージョという)でポルトにまつわる歴史が描かれていた。



 


左下のアズレージョは大きな教会(名前は知らない)の外壁でこのようなタイルの壁はいたるところにある多くの教会で見られる。左岸のワイン貯蔵庫は今では観光客用の試飲室になっているという。右下は大きな屋根がずらっと並んでいるワイナリー。


 



 


翌日朝から乗った観光バスでは、郊外や海岸線の城砦とモダンポルトを見て回り、お化けくらげのような通りのオブジェや前衛的な音楽ホールなど一応全部見て回り、充実した2日間だった。


 


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ポルトガルの旅 (5) フィギュイラ・ダ・フォズ(Figueira Da Foz)

2010-11-16 16:16:55 | キャンパーヨーロッパ 2010年




月曜日から毎日晴天が続いている。今までの悪天候はまるで悪夢のようだった。朝9時過ぎにキャンプサイトを出た。昨日水曜日はポルトガルのジェネラル・ストライキだそうで、近くの村のガソリンスタンドだけが開いているからと、サイトの管理人に勧められた。給油といえばスペインのほうがポルトガルより安く、ディーゼル1Lで95ペンスくらい、ポルトガルになると1L で1ポンド5ペンスくらいになる。それでも英国の1ポンド25ペンス位とは雲泥の差で、満杯のタンクで10ポンドくらいの差が出てしまう。英国は交通費やガソリン代などがヨーロッパ一高い。



 

地球の歩き方のポルトガル版に ポルトの南の海岸沿いの町アヴェイロ(Aveiro)が見所と書いてあった。この土地はまったく平坦で、町の中心には運河が走り、昔は海草を取って耕作地の肥料にするための色とりどりのボートが観光用に浮かんでいるという。ポルトガルのベニスと呼ばれているとか。ぜひ見たいと高速道路を降り、またもや乗り継いで行って見たが、町の中心へ行けない。無理して入って駐車できなくて、あきらめて南のミラ(Mira)のキャンプサイトをめがけて走った。

ミラまで行く途中でも何回か道に迷って、上2枚の写真はアヴェイロではないが、このような平坦できれいな町だろうと思われる。残念ながらミラのキャンプサイトは閉まっていたため、フィグエイラ・ダ・フォズのサイトまで南下しなければならなかった。


 


散々道に迷い、やっとキャンプサイトにたどり着いたときは、本当に疲れ果てた。せっかくの晴天、お昼ごろにつけばゆっくり散歩して、日向ぼっこも出来るものをと亭主の愚痴ること。この系列のキャンプサイトは大きくて、安くて、海辺に在る。松林に囲まれたこのサイトも夏用ホリディヴィラやキャラバンパークまで一諸になっていて、フリーインターネットもある。
ただインターネットはオフィイスの隣のテレビ室まで出張しなければならない。

 

今日木曜日は一日ゆっくり休みにして、海岸へ散歩に行った。サイトの周りの松林はすらりと高いまっすぐな松が生えているが、海に近くなるほど曲がりくねって苦悶状態をそのままにしたような木々が多い。

 

近くの村まで足を伸ばし、海岸の広場に飾られていたカラフルな船がこの一帯で昔から使われている漁船だと知った。


 

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ポルトガルの旅 (6) サオ・ペドロ・デ・モエル(Sao Pedro de Moel)

2010-11-15 16:22:20 | キャンパーヨーロッパ 2010年



ポルトガルに入国して以来、泊まっているキャンプ場はオービター(Orbitur)という系列キャンプサイトで、これで5箇所のオービターサイトを周ってきている。私たちと同じように同じサイトで泊まり、ほとんど同じようにゆっくり南下しているヨーロッパ人がいる。一昨日のサイトでおしゃべりしたスイス人夫妻は、その前のサイトでも一緒だった。昨日着いたサオ・ペドロ・デ・モエルのサイトで大喜びで手を振ってくれたフランス人夫妻は、ミラのサイトを探している時に出会った。いずれも来年春まで南ポルトガルで越冬する予定で、ゆっくり観光しながら南へ移動している。

昨日の朝スイス人夫妻とわかれ、南へ35Kmのレイリア(Leiria)の町へやってきた。町の中心にはどこからでも目に入る高い丘の上に、レイリア城が睥睨している。この城は1135年にポルトガルの初代王アフォンソ・エンリケスがイスラム教徒から奪取したもので、14世紀には王室の居城となり、現在の建築物は16世紀に改修されたものだとの事。城へ登る余裕がなく、インフォメーションを探して町を歩き回ったが、諦めて、20km西海岸のキャンプサイトへ行くことにした。レイリアの駐車場のすぐ近くにはやたらとカラフルなスポーツ・スタジアムが在り、この色彩感覚はこの国の特徴かもしれないと思った。


 

サオ・ペドロ・デ・モエルはほとんど新しいホリディタウンでキャンプサイトから歩いて20分もすれば一周できる。町の北端には灯台が建っていて、夜にはキャンプサイトの松林の間を灯台の光が通り抜ける。
高い崖から見下ろすとこの海岸の岩場は奇岩が連なり、ポルトガルの観光バスが団体客を降ろしていた。日本の観光案内には決して載らないところだろう。シーズンオフのこのごろでは、町の通りに人影を見るのもまれで、スーパーも小さいのが一軒開いていた。



 

土曜日の朝、澄み切った青空に朝日が輝き、キャンプサイトの松林の中は光が踊っているようだ。今日一日この近くを散歩しようと決めた。町の遊園地付近に、廃棄された共同洗濯場が目に付き、きれいな水に手を入れてみると暖かい。この上流に温泉が湧いているらしい。海岸を次の村まで歩いてみようと砂丘をぬける。肉厚の雑草が赤く紅葉して砂丘を飾っている。ピンクや白のヘザー(ヒース)の花が咲いている。



  


  

きれいな砂浜は果てしなく長く、犬とその連れの足跡がどこまでも伸びている。岩場へ来るとその形や色彩の変化に興味をそそられる。何層にも堆積された岩がほとんど同じような形に裂けて自然の妙には感嘆する。


   

右下の平らな床のような岩は,一見すれば人工のクレージー・ペーヴメントのようだが、自然は思いがけないことをするものだ。この岩は砂のついた靴で歩くと、滑ってとても危ない。

   

誰もいない閉まったままの小さな村の壁に見つけたアズレージョを見て、ポルトガルの土産はあんな絵が欲しいと言ったら,亭主はやたらと恐れていた。この無人の村の雑草がこんなにきれいな花を咲かせていた。

  

灯台までの海岸線には観光客用の木製遊歩道が連なる。これはこの土地だけでなく、今まで通ってきたポルトガルの砂浜にはいたる所で見かけるもので、よく計画され整備されているといつも感心している。


  




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ポルトガルの旅 (7) アルコバサ(Alcobaca)

2010-11-15 10:00:28 | キャンパーヨーロッパ 2010年



アルコバサはアルコウ河とバサ河の交わった川辺の古い町でこの小さな町は世界遺産のサンタ・マリア修道院で世に知られる。
この修道院を訪れた日曜日の朝は、まだ人出もあまりなくて、二人で20ポンドはする入場料が日曜日は只。左下の写真で見るとわかるようにこの修道院の奥行きの長いこと。横幅もこれくらいあるから、これほど巨大な教会や修道院は今まで見たことがない。
日本語の案内書によればこの修道院は1153年、初代国王アフォンソ・エンリケスによって建設され、1222-1223年に白衣の僧たちが居住するようななったとの事。カソリックでも厳格なシトー派の戒律で,僧たちは付属教会と寝室の建設、土地の開墾と栽培、苦行と唱歌祈り、労働など、外部との一切の接触を断ち絶対静粛の集団生活を送っていた。

 

教会内部は質素、シンプルで時代に適応して内部も改築改修され、1834年に宗派解体によって修行僧たちが去るまで、最盛期には1000人もの僧たちが居住していたという。

 

祭壇の両脇に14世紀を代表する棺彫刻の傑作であるドン・ペドロ一世とイネス・デ・カストロのすばらしい石棺が置かれている。この二人の悲恋物語は有名だと、日本語の説明書も地球の歩き方も書いているが、内容を一切書いていないから判らなくて残念。

 

王たちの広間には壁に青のアズレージョが貼られ、上部には粘土細工の歴代の王の姿が飾られている。修道院の中庭を囲むドンディニスの回廊は、オレンジとレモンが豊作で緑の芝生に黄色の斑点を散らしていた。


 

千人もの僧たちを賄った厨房の中心の煙突には驚かされる。高さも20メータは在るだろう。この煙突の下で一体どんな大鋸まで食事を作っていたものだろうか?厨房の横には大広間の食堂が在るが家具一切が取り払われているので、案内書を見なければ食堂だとは判らない。食堂横の壁に作られた階段の上で、食事中も経典の朗読がなされた朗読壇はこの建築物中最も美しい建築箇所だそう。


 

回廊は二階建てになっており、二階の屋根から雨水を吐き出すガーゴイルは、ヨーロッパの中世の教会や宮殿でも普通に見られるが、ここのガーゴイルはいろいろな動物の姿で、豚のガーゴイルは初めて見た。

 


 


私たちが今現在見学できる場所は、この修道院のほんの一部だろうが、もう百年以上も人の住み着いていない居住地区は一体どうなっているのだろうとちょっと心配になる。でもここは世界遺産に指定されるだけの価値は十分に在ると心から思った。永久に後世に残して欲しいものだ。











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