Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

リエクサ と ピエリネン博物館

2022-07-31 01:42:45 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

 

どこの町にもある教会とその裏に整然と並ぶ戦没者の墓地。

 

 

オウルヤルビ湖からロシアの国境に近い北カレリア地方(North Karelia)に南下しました。ピエリネン湖の畔リエクサの町外れにキャンプサイトが有ります。この地方も写真のごとく湖は真っ黒です。湖は海のように大きく対岸は見えませんが、小島が点在し夜景がとってもきれいでした。

 

 

キャンプサイトから歩いて15分ほどのところに一番の見所ピエリネン博物館があります。この博物館は約100軒近くにのぼるカレリア様式の木造建築を集めたもので,数時間楽しめました。

 

丸太と丸太の間には隙間風を防ぐためにこのような地衣類をはさんであります。

 

この原始的なはしご、以前ボルネオで見たのと同じ作りだった。

 

 

これらの木造建築は18世紀から20世紀の農家や森林で働く人たちのログキャビンなどでこの地方の人々の生活がしのばれます。

野営で使われる簡単なキッチンや仕事に使われる道具類、丸木で作ったいかだ類、雑魚寝のような蚕棚のベッド、そして何処の家やキャビンにも見られるサウナなど興味深々でした。気がついたのは何処にもお風呂がないことです。彼らは仕事の終わりにサウナに入り、火照った体を雪の上に転がったり、あの真っ黒の湖に入って汚れを落とすのです。

丸太を組み合わせて作った3階建ての建物など内部まで丸太の柱に丸太の壁でこのダイナミックさには大いに感激しました。

 

これらの船は丸太の中をくりぬいただけで、非常に原始的。

 

この壁は丸太を半分に切って当地のカンナ?で削ったようだ。

リエクサは19世紀まで小さな村でしたが、木材の売買の中心地として急激に発展してきたものです。

オウルヤルビ湖から南には森林ばかりでなく、牧草地帯も見られ、写真はこの地方の牧草の乾し方です。そしてこの干草はこのような荷車に山積みにされて運ばれるのです

 

 

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トルコ旅行ーイスタンブル

2022-07-30 19:29:54 | トルコ旅行

英国人一般のホリデーといえば、どこかの国の海岸線の高級ホテルで、昼は海岸で日向ぼっこ、夜はバーでまたはプールサイドでアルコール漬けがほとんど。

私達にはそれができない。トルコは1989年から1990年代5回も行ったが、89年のホテルホリデー以外はいつもバックパックで安い飛行機を予約して、ホテルは行ってから、ポールが探してきた。

 

1994年の5月から2週間トルコのバス旅行。まずはイスタンブルに到着、長距離バスを利用してトルコの中央部から、西側を旅して廻った。

 

 

イスタンブルでは何といってもこのブルーモスクは見逃がせない。天井の高いモスクの中は土足禁止。窓は素晴らしいトルコ模様のステンドグラス、床は色とりどりのカーペットがひかれている。これこそまさに異国、異文化、ヨーロッパでは決してみられない。回教では人物画は壁にも紙にも描かれない、それが特に神とか始祖モハメッドなら。人物像もしかり、だからモスクの中には写真も絵も銅像一つ立っていない。その中で回教徒はメッカの方向を向いてカーッペットに頭を付けてお祈りする。

 

数年前回教寺院に改宗されたアヤソヒアは、天井近くにキリスト像とマリアが赤ん坊のキリストを抱く

絵が描かれている。今ではこれらの絵がどうなっただろうか?イスタンブルはキリスト教と回教の攻防の長い歴史がある。

 

トルコ特有のタイル。繊細かつカラフルな模様が素晴らしい。

 

 

 

トプカピパレスの宝物展、贅を尽くしたものばかり。 このトプカピパレスにはハーレムがあり、スルタンのコンキュパイン(愛妾)が100人以上も生活していた。そしてこのハーレムで働いて居た男性はすべて宦官だった。

ガイドツアーでこのハーレムを回った時、一緒に回ったグループの英国婦人にコンキュパインって何か?と聞いた時の彼女の困惑ぶり、今思い出してもおかしくなる。

 

 

このイスタンブルの大都市のど真ん中の地下には、6世紀ローマ人によってつくられた地下水道がある。コンスタンチノープルはローマ人のクリスチャンによってつくられた街を、1459年回教徒のスルタンモハメド・ザ・コンクアラーに征服されイスタンブルに改名された。

 

巨大な柱の下には水中に頭が下や横になった人頭が並べられて異様な雰囲気、いったいどんな意味があるのか判らない。その頭の上に巨大な柱が立っている。この水道は1459年回教徒によって発見され、その水はトプカピパレスの庭を潤していたという。

 

 

このイスタンブルのスークは巨大で狭い道路が縦横に走っていて、お土産を買うには最適。ありとあらゆるものがひしめいている。

 

 

 

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パーテリ   エヴァ・リューナネンのアトリエ

2022-07-30 06:00:31 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

地球の歩き方北欧版に、リエクサから10Km程行ったパーテリはフィンランドを代表する女流彫刻家 エウ”ァ・リューナネン(Eva Ryynanen)のアトリエがあるというのでヨエンスー(Joensuu)へ行く途中だから立ち寄りましょうと、キャンプサイトを出発しました。

 

10Km行っても案内さえも見当たらず、途中から枝分かれした道路をあちこち走り回り、どうしても見つからず諦めてヨエンスー(Joensuu)へ行くことにしました。すると20Km以上走ったところで道路わきに案内があり、たどり着いたところがこのカフェのある駐車場です。

リエクサから28Kmの地点でした。

このカフェは2001年に86歳で他界されたエウ”ァ・リューナネンの最後の作品で、彼女の設計により建てられドアや内装・家具などすべて彼女の作品です。カフェで入場料を払って松林の坂道を登ると、彼女のアトリエや、作業場、住居、そしてユニークな教会が現れました。

 

 

上の木彫りの作品はフィンランドのアレクシス・キーウ”ィの小説"悪魔の岩で叫ぶ7人の兄弟"(直訳)から作られたもので、彼女の出世作品です。1944年に農家の奥さんになりそれ以来、家業の合間に500にのぼる作品を世に出し、1998年にはプロフェッサーに冠せられました。

上の写真は彼女の設計による小さな教会で、カレリア地方の建築様式を受け継いだ丸太をそのまま使っています。

丸太と丸太の間にはウール(だと思います)をはさんで隙間風を防いだ大変シンプルな壁や、丸太を削っただけのベンチ、木の年輪を利用した床タイルなど素晴らしい芸術に触れてとっても感激しました。

教会を見て帰りかけに若い女性が変った楽器を持って入り口に現れました。12時からこの伝統楽器カンテレの演奏をするとのことで、キャンパーに戻りお茶を飲んでゆっくりし、12時の演奏会に参加しました。

楽器はハープや琴のようでコントロールするキーが多く、見ていてなんと難しそうだと思いましたが、子守唄などやさしい音色でした。

次の多くの写真は彼女の作業場やアトリエに展示されていたもので、ぜひご覧いただきたいと思います。

 

 

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ヨエンスー 北カレリヤ フィンランド

2022-07-29 20:26:26 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

ヨエンスー(Joensuu)は北カレリア地方の中心都市で、19世紀ロシアのニコライ皇帝によって建設され、当時から木材の運搬を主とした通商都市として発達しました。

 

フィンランドの北から田舎町を廻ってきた私たちの目には、碁盤の目のように企画整備されたこの町は、北欧での近代都市とはなんと素晴らしいものだと感銘を受けるに充分でした。

通りの両側の歩道には白樺並木が続き、街中にはギリシャ正教会とヨエンスー・ルーテル教会が有ります。旧市街に当たる中心地はほとんどの建物がフラット(アパート)で何処のフラットの前にも自転車が並べられています。

お店のショウウインドーにこれらの日本人形が飾られていました。一体買う人がいるのか疑問です。

八百屋のストールの真ん中に見えるグリーンピースですが、この北欧の人たちはこの皮を剥いてそのまま食べます。まるでお菓子や飴のかわりです。

 

中心のスクエアーには露天が並び、お土産品や花・野菜・果物などを売っていますが、日曜日も月曜日も混雑するような人出はなく、ゆったりとした町でした。

大きさ15cm位の魚を丸ごとフライにしている露天の店には人だかりがしていて、私は味見だけと思い2匹だけ買いたいと頼むと、ただでくれました。この町を囲む湖で取れた新鮮な魚です。ここの湖ももちろん水は真っ黒です。でも鉄分の多い水ならばこの地方には貧血の人が少ないのではないかと思うのですが・・・・・・水道の水は全く普通です。北欧では何処でも水道水がそのまま飲めて、ボトル入りの飲料水を買う必要はいっさいありません。

キャンプサイトは町の中心から歩いて1Km位で幅広の歩道を歩いていると、歩行器に頼って散歩している年寄りや、車椅子の人たちが多いことに驚かされます。

 

市庁舎の前のメタルのパネルの絵が原始的な絵で、このあたりにもこんな絵が描かれた遺跡があるのかしらとおもいました。 

 

 

市庁舎のすぐ後ろは船が上下できるような運河がありピエリス河口あたりから湖のクスーズ船がでています。

 

 

ヨエンスー美術館を訪れましたが月曜日は休館でがっかりし、町外れの植物園へ行きましたら3時半で閉まるとのこと、散歩で町を一回りしました。

スポーツ好きの国民らしく、サイクリングやローラースケートの若者たちがいたるところで見られました。

白樺並木を歩いていると大きな目でこちらを見つめているらしい木。枝を払った後の木の幹が目玉見たいで面白い。

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サヴォンリンナ

2022-07-29 04:37:10 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

 

北カレリア地方から南一帯は広大な湖水地帯で、湖に散らばる島々を橋でつなぎ道路を通した様なものです。サウ”ォンリンナ(Savonlinna)は大サイマー湖を形作る多数の湖にはさまれた小さな町ですが、フィンランド第一のリゾート地でも有ります。サウ”ォンリンナ(Savonlinna)地方の面積の半分は湖だそうです。

 

 

1985年日本の天皇、皇后陛下がサイマー湖の観光船で、プンカハリュー(Pankaharju)からサウ”ォンリンナ(Savonlinna)までの航路を楽しまれました。町のシンボルはフィンランドの3大古城のひとつといわれるオラウ”ィ城で500年前当時フィンランドを支配していたスエーデンによって建築されたものです。

 

オラウ”ィ城の観光で若い日本人男性2人に出会いました。彼らはアムステルダムに住んでいて、2週間の休暇をノルウェーの北へ飛行機で、そしてレンタカーでノールカップへ行きフィンランドに南下してきたとのことでした。お城の一室は小さな教会でフィンランドで一番小さなパイプオルガンがありました。今でもミサの時に使用しているそうです

 

お城の中庭はコンサートホールに改造され、夏の夜はオペラが上演されるそうです。

 

お城の観光の後、サウ”ォンリンナ周辺の周遊観光船に乗り、森と無数の島と黒い水が流れる湖の景色を堪能しました。

 

キャンプサイトは町から7−8Kmも離れた島のひとつで30.6ヘクタールもある広大なものです。キッチンやトイレ、シャワーの設備も完全で、湖の近くにあるサウナが毎朝7時から9時まで無料とのことでした。

 

サウ”ォンリンナを去る朝、7時半にサウナに行って見ますと、たくさんの男性が次から次と湖へ泳ぎに行っています。サウナは男女別で一室に10人が座ればいっぱいでした。私も20分ほどフィンランドの老若一緒くたの女性の中で汗を搾り、次に水着を着て湖へ泳ぎに行きました。

火照った体に湖の冷たさはとっても気持ちよく、水は濃い茶色ですが自分の足が見えるほど澄んでいます。空を見上げてぽっかり浮かんで "私はなんと素晴らしい経験をしているのだろう" と思っていました。

サウナは入っている人が変わり番に泳ぎに行くのでうまく回転していて約20人の女性が出たり入ったりしています。

私も又サウナと泳ぎを繰り返し、一時間ほどで切り上げましたがこの日一日気持ちよく、フィンランドの人たちがうらやましくなりました。

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ラッペンランタ

2022-07-28 20:22:19 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

サウ”ォンリンナから限りなくロシアの国境に近い国道を南下しました。あたりは南カレリア地方と呼ばれる大サイマー湖のある湖水地帯です。途中のイマトラ(Imatra)でロシアの国境まで行ってみようと話し合ったのですが、道路標識が判らなくて通り過ぎてしまいました。

 

 

サイマー湖畔の町ラッペーンランタの町はずれに大きなキャンプサイトがあり、午前中にはサイトに落ち着いてしまったので、午後は散歩がてら町まで観光に行きました。町まで歩いて30分、大変きれいな町で、湖に突き出た半島は城砦になっておりこの町の観光アトラクションです。

18世紀の木造建築が並んでおりほとんどがお土産店や博物館、観光案内所に改造されていました。

 

城砦の突端に遊園地があり素晴らしい砂の芸術がみられます。雨も降るだろうによく崩れ落ちないで持っているものだと感心しました。ポールはセメントで固めてあるのではと触ってみると、崩れるのです。

 

 

この町はロシアのセント・ピーターズウ”ァーグ(旧名レニングラード)に一番近く観光案内所でもロシアへのツアーなどを取り扱っていました。

日帰りか一泊どまりでセント・ピーターズウ”ァーグまで行けるなら行きたいと思い、聞くとビザを取るのに1−2週間かかると言われ諦めました。

 

この町からロシアへ向かって列車もあるし、イマトラの運河を通って観光船がロシアのウ”ァイボルグ(Vyborg)へ行けるので、港の税関の看板がロシア語で書かれています。

港の観光船やレストランにはフィンランド人かロシア人かの観光客がたくさん見られました。サイマー湖を周遊する観光船もこの町から多く出航しています。

 

 

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トルコ旅行ーカッパドキア(Cappadocia)

2022-07-28 01:46:21 | トルコ旅行

1994年はポールと2人でバックパック、1997年は日本から従姉も参加して3人でバックパックでカッパドキアへ行った。

初めての94年の時は、イスタンブルから直接カッパドキアへ行くには夜行長距離バスしかないと言われて、しぶしぶ夕方のバスに乗った。トルコの男性はほとんどがタバコを吸う。バスの中ではタバコを吸う人は後ろの座席と決まっていたが、やっぱり車の中に煙が回って非常に不愉快だった。

バスは余りリクライニングが効かなくて、眠りづらい。時々お店かタベルナの辺りで停まってトイレブレイク。

ほとんど眠れないまま明け方4時過ぎ、カッパドキアの周辺の丘に達した。

カッパドキアは周辺を山に囲まれた広大な盆地で、夜明け前のブルーの明かりの中にあちこちお家の明かりやキノコ岩にともる明かりがこの世とは思えないメルヘンの世界だった。今でもあの景色は私の記憶に刷り込まれている。

バスは途中からローカルの子供たちが乗ってくる通学バスに早変わりし、カッパドキアの大きな町(名前を憶えていない)に着いたときは、バスは超満員だった。するとトルコの生徒たちが皆で私とポールのリュックをもって降ろしてくれたり、皆が英語で話しかけてくれたり、まるでVIP の待遇。

バスドライバーまで私の結婚指輪を見てから急に愛想が良くなり、にこにこしていた。

 

予習をしないで出かけたから、こんな異様の風景にびっくり、そして早速周辺を歩いて回るガイドツアーをとった。

 

 

 

 

こんな面白い岩があちこちにできたのは地球の創成期、2か所の火山からの灰が交互に堆積して、それらが風雨によって削られてこんな面白い風景になったものだという。

すべてが火山灰だから、岩は柔らかく、このようなキノコ岩を掘って部屋を作り階段を作って2階、3階と登り窓や入口を作っていた。だから一家は一つのキノコ岩で何世代も生活していたという。

 

 

村は群と言うほうが良いような、一塊づつになって生活している。

 

 

 

 

ツアーはこのような谷間(Ihlara Valley)を歩きまわり、岩壁に隠れキリシタンの小さな教会を見せてもらった。

 

どんなに小さな教会でもこうしてデコレーションがされている。

 

 

石灰岩だから数千年の間に雨に侵食されて、壁が崩れ落ちてしまう。

私達が泊まった民宿も、岩を掘りぬいてできたベッドルームでとっても感激した。

 

ここは地下都市の入り口、1963年 お百姓さんが自分の農地の巨大な石をどかしたところ、大きな穴が開いていてここが地下都市の入り口だった。今では最高のドル箱になっている。

地下都市は85メーター深い井戸の周りに何層にもなった部屋が作られ、井戸は水をくむだけでなく空気穴でもあった。その昔モンゴールや回教徒の襲撃に備え、この地下都市では食料が蓄えられ、家畜まで収容する人口2万人が生活できる大都市だった。地上から2階下フロアーには大広間があり、学校があったという。5階下には教会があった。どの部屋にも2か所の出入り口があったが、ただ一つの部屋だけは1つの入り口だけ。それは死体置き場で、その小さな部屋に入った時、もしここで地震でも起きて入り口がふさがったらと瞬間思ってゾ~とした。

 

上2枚の写真は絵ハガキで中では撮影禁止だった。トンネル内には巨大な丸石が備えられてもし外敵が襲ってきたときは、中から丸石を転がして入り口をふさいでも絶対外から開けられない仕組みになっているという。

生きるためには人々はあらゆる知恵を絞ったものであろう。ここはトルコが回教徒の国になりこの地下都市で隠れキリシタンたちが生活していたが、1923年には完全に見捨てられ塞がれ忘れ去られていた。

川で洗濯する女性たち、

牛やロバを世話する男の子。

5月下旬エーギアス山(Mt. Aergius)には雪が残っている。

 

 

トルコ人のおばちゃんが子羊を抱いていたので写真を撮ったら、私にも抱いて写真をと抱かせてくれた。

カッパドキアでは数日のんびり見て回り、マーケットで蜂蜜を買ったり果物を買ったり楽しかった。有る時二人でキノコ岩の近くを散策して歩いていたら、向こうにいたおじさんが何か言っている。いったい何を言ってるのかとニコニコしながら二人で行って見たら・・・ここを歩くな!!! と言っていた。あとで二人で苦笑い。火山灰のふわふわの土ではいったい何が植えられるかと思った。

 

 

 

ローカルの女性たちは農閑期にこんな素晴らしいカーペットを織る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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7月の英国

2022-07-27 21:13:12 | 英国内のこの頃

7月11日はポールの2年目の命日だった。それで5月ごろから7月10日の日曜日に彼の遺灰を子供の頃から悪ガキで遊びまわったホーヴの海へ撒きに行こうと決めていた。

ところがその命日の7月11日はパトリックの父親の誕生日で、コロナの規制激しい過去2年はロンドンへこれなかったご両親が、パトリック宅へ北アイルランドのベルファーストから遊びに来るという。それも9日から11日まで。

これで困った娘は遺灰を撒くのを翌週の17日にしてくれと言ったから、ポールの幼馴染や、仲良かった友達夫婦にも1週間遅らせる旨通達。

すると数日前になってパトリックの母親がコロナ感染、ロンドンへは来れない。

17日に決めたのをまた変更するのもとそのままにした。・・・・・・ところが、7月8日から英国も本格的な夏になってきた。

もう2か月以上もほとんど雨が降らないから、地面はカラカラ、道端も野原も庭の芝生も黄色く枯れて、野菜を植えるのに地面を掘っても完全に乾いている。

7月17日日曜日遺灰を持って、娘の家族と朝8時過ぎからホーヴへ向かった。毎日晴天が続いて、日曜日にブライトンの海へ行く人たちが多いと知っていたから車の渋滞に巻き込まれないよう、早めに出かけた。ホーヴはブライトンの隣町で、ロンドンから車で1時間15分、11時に皆が集まるところは、ホーヴの海岸のはずれで、メインロードから分かれた狭い道路を堤防へ向かって走る(昔は)さびれた道路。

 

この写真は月曜日の新聞でブライトンの海岸を写したもの。

 

ここホーヴは昔結婚した初めの頃は、ポールは毎朝早く起きてこの辺りでスノークリングでカレイをとってきてくれた。人通りは全くなくて、たまにヌーデストの男性数人が日向ぼっこをしていたくらいだった。この日はあまり早く着いたから、娘はジュードと海辺で遊び、パトリックと2人で息子を迎えに行った。

もう50年も経ってこの辺りがすべて変わって驚いた。道路は駐車禁止、2か所ある駐車場は日曜日でも有料。10時頃には駐車場は満員で、どんどん来る車が駐車できなくてウロウロしている。

誰もいないはずの海岸はどこも海水浴客でいっぱいで、こんなところに遺灰を撒けない。堤防の最先端に釣り人が居て堤防の途中で鉄格子があり、聞くと釣り人オンリー、こんなところで灰を撒いたら魚が食べるだろうからダメと断られた。

とうとう諦めて、12時に予約していた、隣町のパブレストランで皆でお食事。

遺灰はこの秋から冬にかけて誰もいなくなったときにもう一度行くことにした。でも久しぶりに友達夫妻やポールの幼馴染の年寄り夫婦に会えて楽しかった。

この日も太陽ギラギラで、帽子なしで歩けなかったが、海辺は風がさわやかで、パブ内は冷房など無いが窓やドアが全開で寒いほどだった。

 

そしてその2日後火曜日は英国初の気温40度になると以前から予報されていた通り、暑かった。しかし英国は日本ほど湿度が高くないから、冷房装置が無くても大丈夫。早朝から窓もカーテンも閉め切り、太陽光線が入らないようにして室内温度28度、静かに1日を終えた。裏庭のドアを開けた途端に感じた灼熱で、急いで寒暖計をドアの外に掛けて10分、温度計は46度まで上がった。

この日の新聞の切り抜き写真、バッキング宮殿の衛兵も脱水症状を防ぐのに給水しているところ、思わず笑ってしまった。

この火曜日の夕がたから、局地降雨があったらしい。友達と電話で話していたら、今雨が降り出したという。こちらは空は黒雲が出てきたけれど、雨は一粒も降らなかった。

そして翌日水曜日、昨日の暑さが嘘みたいに、最高気温27度、窓を開けて寝ていると寒くて閉めてしまった。それ以来気温30度に満たない毎日、今日17日の気温21度朝夕17度。もう夏は終わってしまった。

 

 

 

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ストックホルム2日目

2022-07-27 08:04:05 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

キャンプサイトから歩いて行ける旧市街ガムラ・スタンは、狭い通りにお店が並んでいて、ウインドーショッピングをして歩くだけでも楽しいのですが、見ものもたくさんあります。王宮へ行く途中で高い尖塔を持つドイツ教会へ寄りました。ステンドグラスがとてもきれいな教会で17世紀から何度も改築されたそうです。

ここはストックホルム・オペラハウスです。日中は玄関先しか入れません。オペラ配役の衣装がたくさん飾られていました。

 

王宮の近くにノーベル博物館があります。中は歴代のノーベル賞受賞者の紹介や、ミスターノーベルがいかにしてノーベル賞設立にいたったかのいきさつなど展示したり、ビデオ紹介などがされています。

ガムラ・スタンのメインはなんと言っても王宮です。

王宮の中も居室や宝物の間も見て廻りましたが、過去に見たヨーロッパの王宮と取り立てて変ったものはなく、そんなものだと割りと醒めた目で見てきました。

ちょうどお昼に王宮前で衛兵交代の式典があり、観光客でいっぱいでしたが、それとても英国の衛兵交代に集まる観光客の半分以下でした。

 

現王室は子供たちにふさわしい環境をと1982年にドロットニングホルム宮殿へ移られました。

王室に付属する博物館では、グスタフ3世のアンティーク博物館が小さいながらも面白く、王の収集品が展示されています。特にローマの皇帝の胸像が多くて、オゥガスタスやアントニウス・ピウスなど何処でも見受けられるものは、その昔肖像画の代わりに胸像をたくさん作って各地に送ったものだと言うのが良く判ります。

ドロットニングホルム宮殿は現国王と家族の居城になっていますが、2階3階の一角は観光客に解放されていて、個人でも案内なしで一回り見学できます。私はガイドツアーで詳しく説明を聞きながら1時間以上も歩き回り、宮廷劇場の見学時間を見逃しました。

裏庭のバロック庭園の奥にガードテントが有り、中も見物できますがテントの様に見える木製の建物です。その近くに中国の城Kina Slott があります。中には中国の陶器などが飾られています。

宮廷劇場はこの夕はオペラを上演するそうで、内部見物は1時で締め切りでした。

ここの宮殿、中国の城、宮廷劇場はユネスコの世界遺産に登録されています。

写真はストックホルムの町角で借り出せる自転車です。北欧は自転車人口が多く借り出しも,返車も便利になっているそうです。最近の英国ではこの貸自転車が流行っていますが、このブログの2007年当時はこのシステムは採用されていませんでした。

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ヘルシンキ

2022-07-27 00:17:08 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

 

南カレリア地方から首都ヘルシンキへ向かうにつれ、道路に木材を運ぶトラックが多くなり、道端には今まで見られなかった麦畑が現れました。

ヘルシンキへ行く前に海辺の町ロビッサ(Loviisa)で一泊し,翌日午前中にはヘルシンキ郊外のキャンプサイトに落ち着きました。ロビッサからヘルシンキまではフィンランドで初めての高速道路でした。

 

キャンプサイトは非常に整備されキャンパーやキャラバンがぎっしり駐車しています。テントを張っているキャンプ場も広く7月末からの夏休みに入ったせいもあり、若い人たちがたくさんキャンプしていました。

キャンプサイトのすぐ外にヘルシンキ市内へ行く地下鉄の駅があり、ツーリストチケットが安くて便利だとの情報で3日券を買いました。この券で市内の交通(バス、地下鉄、路面電車、スオメンリンナ島へのフェリー)が全部有効です。

ヘルシンキの中央駅から路面電車で港へ向かっている途中見えたのが真っ白の大聖堂です。元老院広場の真ん中にロシア皇帝アレクサンドル2世の銅像があり、広場から大階段の真上に聳えるのがヘルシンキ大聖堂です。

 

訪れた日は土曜日で結婚式が行われていて中には入れませんでした。そしてこの大聖堂の近く、マーケット広場は港の周辺でお土産や食べ物の露天が並んでいて、私たちも昼食のパエリヤと小魚のフライを食べました。

 

マーケット広場から見える赤レンガ造りの教会は北欧最大のロシア正教のウスペンスキー教会で内部は今まで見た西洋の教会とは全く違います。

大聖堂、マーケット広場、ウスベンスキー教会がヘルシンキで一番観光客が集まるところだと判りました。

 

ヘルシンキの2日目には港からフェリーで約15分のスオメンリンナ島へ渡りました。あいにくこの日はにわか雨が何度も降って寒い日でした。

この島はフィンランドの南を守る要塞として、防御壁がめぐらされています。昔実際に使われていたという潜水艦も展示されていました。この島はユネスコの世界遺産に指定されています。

中央駅の近くにフィンランド最大のアテネウム美術館があり、2時間我を忘れて楽しみました。ここにはフィンランドを代表する画家の絵がそろっており、特に気に入ったのがアクセリ・ガッレンーカッレラのカラフルな作品です。フィンランドを代表する抒情詩カレワラを題材にした興味をそそる絵がありました。それで大きな本屋に入り英語版の抒情詩カレワラを買ったのです。

 

 

3日目に興味深い岩窟の教会へ行きました。ここは岩を自然な形で保とうと、デザイン競技会で優勝した作品で設計され、1969年に完成したものです。観光バスが何台も乗り付けてくるような有様で観光客がワンサといました。このテンペリアウキオ教会は別名ロックチャーチと呼ばれ、外観は決して教会とは見分けられません。

 

そのロックチャーチからゆっくりと歩いてたどり着いたのが、フィンランドの代表的作曲家シベリウスのモニュメントのある公園です

 

この日も寒くて小雨がふりだし、早々に路面電車でデザインミュージアムヘ行き、1時間半感嘆しながら見て廻り、写真が撮れたらどんなにいいだろうと残念に思いました。

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フィンランドからスエーデンへ

2022-07-26 21:17:59 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

ヘルシンキの町でストックホルムへ行くフェリーをさがし、フィンランドの西海岸、スエーデンに近いトゥルクから出るシリア・ラインを予約しました。

ヘルシンキのキャンプサイトを去った朝は暗くて雨が降り続いていました。

道路際の風景も大して変らず、湖の代わりに入り江の海が見えるくらいで森林と麦畑が交互に現れます。麦畑はまだグリーンのと黄色になって取入れを待っている様なのとで、多分小麦やライ麦など種類が違いためだろうと思われました。

トゥルクはスエーデンによって建設された町で地図にもトゥルク(フィンランド語)とオーボ(Abo)の名前が載っています。オーボはスエーデン語です。

キャンプサイトが町から17Km離れた島で、島とは気づかないくらい深い森の中でした。キャンプサイトに落ち着いた午後も雨が降っていて何処へ行く気にもならず、キャンパーで昼寝や読書をしていると、フィンランドの夫婦がキャンパーのドアをノックして"イギリスから来たのか?私も一度行ったことがある。フィンランドのコーヒーを御馳走するから私たちのキャンパーへ来て欲しい”と言うのです。

北欧ではイギリスマーク(GB)のキャンパーにはほとんど出会うことがなかったので、この田舎から来たらしいフィンランド人には英国人は珍しかったのでしょう。

彼らのキャンパーは脱いだ服がテーブルに山済みになっていて、座る場所もないくらい乱雑でした。

 

運転席と助手席を回転させて私たちを座らせ、旦那様はコーヒーを沸かして立っていました。奥さんは一言も英語が話せず、旦那様の翻訳でわたしたちとお互い大変苦労しつつおしゃべりしました。

コーヒーのおつまみにと出されたのが生の鞘つきのグリーンピーで恐る恐る食べてみるとその甘さに驚きました。ヘルシンキのマーケットでも屋台でグリーンピーを売っていましたが、こうして食べるものだとは知りませんでした。

 

見違えるほど晴れた翌朝、キャンプサイトのキッチンで冷凍庫に入っている野菜や、トナカイのバーガーなどを全部クッキングし冷凍庫を空にしました。フェリーは夜9時20分出発で翌朝7時にストックホルムに着くまで、キャンパーのガスを全部停めなければなりません。

スタバンガーまでの一晩どまりのフェリーでは余り厳しいことは言われなかったのですが、ここフィンランドでは何年か前にフェリーが沈んで多くの人命を失ったことがあり、規則が厳しいのです。車のバッテリーで冷凍庫が何時間使えるかわからなかったので、初めから空にしておいたわけです。

 

 

 

 

シリア・ラインは大変豪華な船で、中国人の団体客がワンサと居て何処へ行ってもいたる処でグループ写真を撮っていました。

 

このフェリーのキャビンは窓無しの二段ベッドで寝苦しく大変でしたが、英国・ノルウェー間のフェリー料金の半額以下では文句も言えませんでした。

 

 

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トルコ旅行ーコンヤ(Konya)からシデ(Side)

2022-07-26 19:13:15 | トルコ旅行

 

コンヤと言う町はトルコの回教徒にとっては総本山で大変戒律厳しいところ。私にとっては余りいい思い出がない。

カッパドキアからバスで数時間降りて歩き回ったけど、女性のショートパンツは受け入れてくれない。5月末の暑い時期、2時間ほどでシデへ行く長距離バスに乗った。

コンヤからシデへの道は険しい山道を通って南下するか、いったん国道をアンタリアへ向けそこから地中海沿岸道路をシデにむかうか?

私達何も知らずに直接南下する方のバスに乗った。

途中の山道ですれ違う車の量も多いが、バスの進行方向右側は切り立った崖で、がけ下100メーター以上もある下方には落ちて錆びた車が数台見える。

これだけで震え上がったのに、前方からトラックやバスなどの大型車がすれ違うと、道幅がない。バスの車掌はバスの前にしゃがんで、タイヤが崖へ落ちないよう手指で誘導している。せめて乗客を降ろしてやってくれたらいいのに。その間まるで生きた心地もしなかった。

後で聞いたところによると、やっぱりバスが落ちて大事故になり、以来この道路はバスが通行禁止になったという。

シデは海辺のホリデー観光地で、この街の周辺にたくさんのローマの遺跡があった。

 

 

 

広大な廃墟の中暑いのに歩き回った。何しろローマの遺跡に巡り合ったのは1989年クシャダシのホリデーで行ったエフェシスが初めだった。

それまでこんな遺跡があることも知らなかったし、学校で習った世界史など、ローマがヨーロッパを征服して滅んだことくらいしか習った覚えがない。こうしてトルコの無名の遺跡を巡り歩いて、ローマ人の偉大さに触れた思い。

 

 

 

 

広大なアンプシアターなどいったい何千人の奴隷が汗水流して作り上げたものだろう。

 

 

 

シデの考古博物館も一日ゆっくり見て回った。こんな子供たちが遊ぶ石棺はローマ人の偉い人の子息の死であったに違いない。

 

年中咲いているワイルド朝顔が真っ盛り。この花もこの時初めて見た。

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ストックホルム

2022-07-25 18:09:59 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

朝7時にストックホルムの港に着きました。何の検査も受けずに上陸し、そのままキャンパーを走らせてキャンプサイトに向かいました。目的のキャンプサイトは探し回ってやっと見つけたものの、電気がないと言うことであきらめました。

南のキャンプサイトを探して走り回り、途中で何度も迷ってやっとたどり着いたのが、長い橋の下のキャンプ場でした。

ここは狭いところにぎっしりとキャンパーが並んでおり、キャンピングカーのみのサイトです。トイレ、シャワーの設備もヘルシンキのサイトとは雲泥の差、首都のキャンプサイトがこれでいいのかと怒りたくなるくらいお粗末で、料金は高いのです。

朝9時過ぎに着いたので、その日午前中に出発するキャンパーが出ないと入れないくらい満員盛況でした。キャンパーを停めてまずはスェーディシュ・クローナーを引き出さねばなりません。歩いて10分ほどの街角のキャシュマシーンでお金を引きおろしました。

ストックホルムは大小合わせて14の島から成っていてこの島々が橋で結ばれています。交通機関も地下鉄、路面電車、市バス、郊外電車などがあります。島の間はフィヨルドや湖でキャンプサイトからストックホルムの中心地区が見渡せます。

 

そしてフィヨルドの畔の道を歩いて20−25分ほどで王宮のある旧市街ガムラ・スタンにたどり着きます。

 

 

この日は個別の観光は明日に回して、地図を頼りに中央駅から市庁舎を廻って写真の長い橋を渡るフィヨルドを一周してきました。

 

市庁舎は20世紀初めに建てられた赤レンガの立派な建築物で、ハイライトは1900万枚の金箔で飾られた黄金の間です。ここはノーベル賞受賞パーティの舞踏会場として使われます。又大広間は毎年ノーベル賞受賞祝賀晩餐会が催される有名な場所なのです。ここの巨大なパイプオルガンは修理中で英国へ送られているとの説明でした。この市庁舎の見学は45分のガイドツアーで一回りできます。

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トルコ旅行ーアンタリア(Antalya)と周辺

2022-07-25 03:21:36 | トルコ旅行

 

アンタリアはこの南西の地方では一番大きな町で、モスクが多い。夕方のお祈り時間の5時から6時頃はあたり一面でいろいろな声のお祈りの音でまるで雑音にしか聞こえない。

 

この街は古くから開けた町で周辺にはたくさんのローマの遺跡や、私がこのトルコの旅で書いたフェシエのギリシャの墓地なども見どころはたくさんある。

 

アンタリアの民宿でとってもお世話になり親しくなったこのカップル。この民宿を中心に2-3泊の旅に出ては帰ってまた泊まったりしていたが、まるで親戚の様にバーベキューなどしたりしてもてなしてくれた。

1996年10月にも地中海沿岸をシリア近くまで旅した時に行って見たら、民宿を売って田舎へ引っ越したとのことでガッカリした。

 

 

ペルジ(Perge)は紀元前12-13世紀においてはこの地方で一番重要な都市だった。当時はリデイァンとペルシアンの支配下で繁栄し、紀元前334年アレクサンダー大王の支配下にあった。

 

このペルジが一番繁栄したのは紀元前2-3世紀ローマ人による大都市。1947年からトルコの考古学者による発掘が進められ、素晴らしい銅像が発見された。これらはアンタリアの博物館に展示されている。

2000年以上になると石器文明もこれほど破壊を受ける。多分度重なる地震のせいだっただろう。ここは巨大なスタジアムだった。

 

遺跡の一角でこのかわいい女生徒たちが音楽の練習をしていて、写真を撮った。あまり素敵だったから1996年またアンタリアに来た時に、写真のコピーを持ってきて、この制服を着ている女学生たちに、この写真の子がいるかを聞いたところまだ一人いるとのことで、写真のコピーを渡してくれるよう頼んだ。どんなに驚き喜んだことだろうか。

 

 

5-6月でも暑い国だから綿が実り、道端に積み上げられた綿が集積運搬されるのを待っている。

 

 

セラレシ(Selalesi)の滝こんな乾燥した国なのに水量の多さには感嘆。ここは有名な観光地だった。

 

民宿で聞いて一日遊んだ山間の谷川、きれいな澄んだ水で暑い日の水浴は天国!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ストックホルム 野外博物館スカンセン

2022-07-24 01:52:33 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

この博物館のすぐ近くに建つ宮殿風の建物は北方民族博物館です。16世紀から現代までのスエーデンの発達歴史が学べます。

 

野外博物館スカンセンは、急激な近代工業化によって古い伝統を失って行くことを恐れた創設者のハッセリウスによって、スエーデン中から150棟の文化・歴史的建物が移築され1891年にオープンしたものです。

 

小さな工房には陶芸、ガラスメーカー、印刷所、金物屋など人々の生活、仕事などを実際に見ることが出来ます。

 

機を織っていた若い女性2人にリネンの材料は何かと聞いたところ、リンシードを採る植物フラックスを見せられました。リンシードはパンやケーキの中に入っていて健康食品のひとつになっていますが、その茎までがリネンの材料として利用されているとは知りませんでした。

ここでも昔からの人間の英知に感激しました。

 

シンプルなステージのある一角で、スエーデンの各地方の伝統民族衣装に身を包んだ男女が、バイオリンとアコーデオンの音楽に合わせて、フォークダンスを披露してくれました。暑い日差しの下で観客も、ダンサーも汗にまみれて楽しみました。

珍しい魚がいた水族館

 

 

 

スエーデンの建築物も以前フィンランドで見た木造建築とほとんど代わりが無い様に見えます。又屋根に草花がいっぱい生えている小屋などは、ノルウェーの田舎で多く見られた建物です。

 

 

動物園も充実していて、北欧の動物、狼やトナカイ、鹿などのほかに、リーマの檻の中に入って写真を撮ることも出来、猿やマントヒヒの檻等丸一日楽しめるところでした。

 

 

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