Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

亭主逝く

2020-07-15 11:00:29 | 日記

木曜日の夜10時過ぎ、マリー・キューリー(Marie Curie) から送られたナイトナースがやってきた。彼女は朝7時まで亭主の横で眠らず見てくれる。

娘がセント・クリストファー・ホスピスに頼んだもので、そこからマリー・キューリーのナイトナースの要請が入ったもの。このサービスも無料で英国の終末ケアの奥深さを知らしめてくれる。

この国で伴侶や義父母を送った日本人の友達はみな一様にNHSを絶賛する。

この恩恵に与ったことのない人は、医者にかかるのに時間がかかりすぎると文句を言う。お金を払ってもいいから健康診断をしてほしい。だけどこの国には医者が少ない。お金を払ってもいったいどれほどの医者に時間的余裕があるだろうか?

この国にも人種差別は大いにある。今まで何度も来てくれているディストリック・ナースは全部アフリカ系の黒人だし、セント・クリストファー・ホスピスからのナースも白人女性はただ2人だけだった。私の地域はアフリカ系の黒人が多いが、ロンドン北部ではアジア系、フィリッピンや中国系のナースが多いという。

NHS で働くナースやドクターから外国人をのぞいたらいったい何パーセントの英国人が働いているだろうか。このコロナでもなくなった100数十人の医療関係者のうちのほとんどがアフリカ系の黒人かインド人だった。

英国のEU離脱を望んだ人たちは、外国人(特に黒人とアジア人)の入国永住を拒否した人たちが多かった。戦後すぐ英国にはポーランド人とユダヤ人の移民があふれた。1980年代ユガンダに移民していたインド人が,独裁者イデ・アミンの政策で強制退去され、英国が彼らを引き取った。だから英国には過去の植民地政策のしっぺ返しが来ている。

話が横道にそれてしまったが、この夜世話をしてくれたナースは亭主がしっかりとわかっていたようで夜中2回トイレを訴え、あとはお水が飲みたいと頼み、私を呼んでくれと言ったそうな。

その前日10時間の間に9回も起こされては寝ている暇がなかった。その朝亭主にこれではたまらないと文句を言ったら申し訳ないと謝っていたから、朝は一番しっかりしていた。いつもありがとうと申し訳ないという言葉を忘れない人だった。

それでナイトナースが帰った金曜日の朝も、ミルクコーヒーを300cc飲ませ、お昼までのイチゴのミルクシェイクを飲ませたがそれ以降は一切の水も受けつけなかった。

夕方娘が帰るときに、目をつぶったまま手を振ってサヨナラの合図をしたのが娘には最後だった。

夕方9時過ぎには意識も薄らいでほとんど寝たっきり、トイレも訴えず、体も動かさない。体に水分が入っていないから脱水状態で意識が無くなったのだろうと思われる。これで病院に入院していれば、本人の否応にかかわらず点滴をされ、体中にケーブルが張り巡らされて少しは長く生きられるかもしれない。一晩中身動きもせず血圧は少しづつ下がっていき、脈拍も今まで100を超えていたのが90くらいまで下がってきた。

喉の奥で痰が絡まるゴロゴロとした音が、呼吸が早くなるにつれ音も高くなってきた。病院ならば吸引して少しは楽にしてあげられたかもしれない。

明け方衣服が濡れるほど発汗して、それでも手と足はチアノーゼがみられて冷たい。 

朝7時たまりかねてセント・クリストファー・ホスピスに電話すると、折り返し電話をくれるはずのナースからも連絡なく、呼吸は1分間で38回、ゴロゴロの音がやけに大きい。口が乾いているだろうと何度か綿を水で浸して口腔内をぬぐうと、水を吸おうと口をすぼめる様子。

まだ意識が残っているみたいと耳元で、私たちは47年も一緒に楽しくやってきたね。本当に楽しい人生だったねー。というと呼吸のリズムがやや変わる。きっと私の言ってることが判るのだろうとうれしくなった。その10分後、血圧も触診で上が90を割り、脈拍が触れなくなったと思うとすぐ、かすかに下顎呼吸数回、呼吸停止が来た。ちょうど10時30分だった。

亭主は痛みだけを恐れていたが、本当にラッキーだった。ドクターが処方したモルヒネは2回だけしか使用しなかった。それも痛みではなく、身の置き所がないようにベッドでゴロゴロしているのを可哀そうに思いモルヒネを飲ませて一日ぐっすり寝てくれたことがあった。

呼吸停止後すぐセント・クリストファー・ホスピスに連絡すると111に電話しなさいと言われ、1時間後にローカルのドクター(この方もインド人だった。)が訪問して、心臓と瞳孔を調べ、死亡確認を行ったうえ、月曜日に私たちの家庭医(GP)に連絡して死亡診断書の要請をするようにとのこと。

日本ならば遺体を家に安置したままでお通夜になるが、この国ではありえない。お昼ごろには葬儀屋が遺体を引き取りに来た。

月曜日、娘が家庭医(GP)に連絡すると、死亡確認を送ったドクターの報告が届いていたが、GPは今まで亭主を一度も見ていないから死亡原因を書いた診断書を書けないという。確かに昨年5月にブロムリーの病院へ救急車で運ばれ、それ以来癌研で治療やコンサルテーションを受けていたが一度もGPには行っていない。

3月以降のロックダウン時も何度かGPへ電話したが、GPは決して家庭訪問をしてくれなかった。それで彼は癌研とセント・クリストファー・ホスピスからのリポートを基に死亡診断書を書くという。これがいつに成るか判らないうえ、その診断書はレジスターオフィスへ回され、年金やドライビング・ライセンスなどの公共機関に報告されたのち、正式に死亡診断書が発行されるという。

そののちお葬式の準備が始まるから、2-3週間はかかるのが普通。

それ以来娘の家で夜を過ごし、昼はなんだかんだと忙しく過ごして、気を紛らわせている。友達やキャンプ仲間からもたくさんメールでの哀悼の言葉をいただき、その度に涙ぐんでいる。この悲しみは時しか癒してくれないだろう。

 

 

 

 

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末期がんの経過

2020-07-09 23:41:38 | 日記

亭主は10年前全く同じ左肺下葉にできた癌で手術した。当時78歳、日ごろから元気で病気もしたことがないくらいだったから、左肺下葉摘出術も問題なかった。術後5日目にして退院し、病院がロンドンブリッジ駅のすぐ近くだったこともあり、電車で15分わが家の近くの駅まで乗って帰宅した。車だと一時間くらいかかるだろう。

帰宅してからは無菌療養をするため、娘にも電話以外はわが家に近づけず、通ってきてくれたのは地域のディストリック・ナースだけだった。

帰宅後2週間ほどしたころ、1月の寒い日に私がロンドン市内のコンサートへ行った帰り、予定外の大雪に見舞われ、電車が途中で止まってしまって帰れない。あと一駅のところまでメインロードを歩いたものの、バスもタクシーも通っていなくて亭主に電話した。術後の経過は良いものの、雪の中を車を運転して迎えに来てくれた。

術後初めての検診では、左肺が摘出した後の空間を埋めてしまっているとドクターも驚くくらいだった。術後5年の検査も問題なく、10年後の本人も忘れていた昨年、ひょんなことからまた同じ場所に肺がんが見つかった。

亭主は幸せな人生を送ったからもう治療しないで残りの人生を楽しもうと言ったのに・・・・ドクターから貴方のように元気な人はもう一度放射線療法をしてみたらと言われその気になった。

放射線療法をする前には肺の細胞検査をする必要があると言われ、一時は拒否したものの、する羽目になった。それまでのペッツスキャンでは肺の3センチの腫瘍ほかに転移は見られないとのことだったが、細胞穿刺後のペッツスキャンでは3か所に転移がみられるようになった。(亭主も私もは穿刺のせいだと思っている。)

薬物療法だけは絶対したくないと言い通していたので、背中に転移したがん細胞を放射線で治療した以外、一切のがん治療をしていない。

5月末まで右足が丸太の様に腫れあがり(足の付け根のリンパ腺のせい)歩けなくなった。それ以来、ベッドから行けるのはトイレだけ、食欲も無くなり肺がん患者特有の血痰が止まらない。病状は急激に悪くなってくる。

この数日トイレさえも困難になり、ベッドに寝たっきりになりつつある。意識はあるものの混濁がみられ話の半分は何が欲しいか、何がしてほしいかが判らない。

2日前から毎晩1時間から30分おきにトイレへ行きたいと訴えるので、彼も私も睡眠不足。とうとうたまりかねてモルヒネの水溶液を飲ませて、日中は良く寝てくれるが、昨夜など薬を拒否して一晩9回も起こされた。

娘がホスピスへ連絡して今夜から3晩ナイトナースが来てくれるという。彼女がどういう処置をしてくれるのか? 昔は日本で看護婦として末期がん患者も診てきたが、病院だとカフェター(尿管)を付け、睡眠薬を飲ませ、栄養剤の点滴をし、あらゆるコードにつながれる。自宅では自分の夫を一人で見れるほど体がもたないと初めて分かった。

死ぬまで周りの人たちから有形・無形の助けをもらって、亭主は決して一人で死んでいくわけではないと強く思っている。

 

 

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ゆりかごから墓場までーその2

2020-07-07 02:21:09 | 日記

昨日7月5日は英国の社会福祉制度が発足して72年目の記念日だった。

最近新聞もろくに読むひまがなくて、今朝の新聞の一面記事を見て知った。この社会福祉制度は戦後4年目に発足している。英国の食料配給制度は戦後10年、国民全体が貧しかった。それでも貧富の差に関係なく国民全体が無料で医療を受けられる素晴らしい制度を考え出したものだ。発足当時はお金がなくて、よくこれまで持ったものだとの談話が載っていた。

先週終わったばかりのテレビドラマ(再放送)のフォイルス ウオー(Foyle's War)は戦時中から戦後にかけての退職寸前のpolicemanが戦後、MI5で活躍するストーリーだが、彼の助手の若い女性の夫君がMP(国会議員)として社会福祉制度を立ち上げるのに努力する。時代を追っての面白いストーリーだった。(日本でも放映されただろうか?)

わが家では今日は病院のベッドと同じものが貸与されるので、昨夕のうちに亭主を私のベッドに移して、使用していたシーツも洗濯機で洗って干すばかりにしていた。娘婿のパトリックが本来ならば出勤するべきところを、今まで使っていたベッドを解体するため自宅勤務にしてもらって9時前にやってきた。

 

今まで20数年も使っていたベッドは、友達からヘッドボードと足元部分をもらい、ベースは亭主が作ったもの。頑丈で重くとっても一人で動かせない。

それがパトリックは電気スクリュードライバーで3分くらいで解体してしまった。

マットレスやすべての部分を小部屋に保存してすぐに帰って行った。

 

何もなくなったベッドルームは広々として、この部屋に不似合いな55インチのテレビが鎮座している。これもパトリックが自宅の2台あるうちの一台を、病気の亭主のために、持ってきてくれたもの。

新しいベッドは12時近くに医療器具専門業者がトラックで運んできた。30代の屈強なお兄さんが一人で分解されているベッドを運び込み、30分くらいで組み立て、説明して帰って行った。すべてが電動だから患者の負担が軽減する。’素晴らしいねー’’ と言ったら ”本当に、”俺もそのうちほしいんだ’ ”でもあなたならあと50年くらい待たないと ” と会話して笑っていった。

今まで飲み物を飲ますにも、上半身を起こさねばならず、これがお尻の床ずれにこたえる。マットレスは自動的に10センチくらい幅の空気の出入りで、体のどこにも長時間、圧迫されることがない。上半身はボタン一つで上下し自力を使うことがない。

もっと早くから借りておけばよかったと今頃悔やんでいる。このベッドは亭主が必要で無くなった時に返却すればよい。

 

午後にはまた薬局から栄養剤の配達があった。予定もしていなかったのにドクターの処方箋が薬局へ行ったらしい。午前中にはディストリクト・ナースが来て床ずれを手当てしていった。

近所の奥さんは私がベッドの配達を待っているので、代わりに朝の新聞を取りに行ってくれ、彼女の庭でできた野菜を持ってきてくれた。隣のご主人はパトリックの手伝いをすると言ってくれたが、一人で3分でできたと報告したので、またいつでもお手伝いをしてあげると行ってくれている。

こうして亭主の周りで陰になり日向になりいろいろな人たちが助けてくれている。本当にありがたいことだ。

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ゆりかごから墓場まで

2020-07-05 06:44:21 | 日記

昨年5月亭主の肺がんが見つかり、治療する、しない、と言っているうちに体の3か所に転移が見つかり、治療できないまでに進んでいることが判った。

その時点で予後1年から1年半と言われていた。

1月末までポルトガルへ行ってきたものの、本人は元気にしていたからまだまだ大丈夫と思っていたのに、ちょうど一月前から急激に悪化してトイレ以外はほとんど歩けなくなってしまった。

それまでロックダウンと重なったためもあり、病院からも家庭医からも一切の連絡が来ず、3月以降の骨を強化する注射さえも予約の連絡がなかった。

5月30日に亭主が寝込んで以来、家庭医は決して往診にも来ないが、電話で頼めば鎮痛剤などモルヒネの錠剤に水溶液まで処方してくれた。今のところまだ一度もモルヒネを使っていないのはありがたい。

 

 

上の食料代替え栄養剤は、ほとんど何も食べなくなった亭主のためにドクターの処方で薬局から配達されたもの、チキン味のスープの素で200㏄のお湯で溶かして飲ませる。ひと箱に7袋入っているがそれまでに2箱分を飲んでしまった。

ピンクの箱はストロベリーミルクセーキで300㏄の全乳にパウダーを溶かして飲ませる。亭主はこれも文句を言わずに飲んでくれるが、いっぺんに8箱(56袋)も送ってきてびっくりした。確かチョコレートとバナナ味のもあるときいていたのにイチゴ味だけなんて。

これだって自分で買えば大変なお金になるだろうに。失禁患者には医者の処方箋でおむつまでがタダになる。

 

亭主は足元が危ないながらも歩いてトイレに行けるが、普通のトイレのシートに座ると立ち上がる体力がなくて、いつも私がついていなければならない。それで補助用のトイレのシートをインターネットで注文した。ところが娘が私の注文したものと全く同じものを地域のコミュニティーニュースで見たと言って、翌日もらってきてくれた。インターネットはその日にキャンセルできたので問題なく、このような物はチャリティーショップでも引き取ってくれないから、不必要になればタダで上げたいとのこと。亭主にとってはとってもありがたい物だった。

寝付いたのと同時に終末ケアのセント・クリストファー・ホスピスと連絡を取り、毎週1回ナースが症状を見に来てくれる。その時私が一人で亭主の世話をしているので、社会保障からお金が支払われると聞いた。お金には困っていないから要らないと言ったら、彼が動けなくなって手伝いの人が来てくれるようになったらお金も必要になるからと言われた。彼らのほうで必要書類を全部記入して、私が確認したうえで投函、先週から1週間に89ポンド15ペンスのお金が払われることになった。

年寄りや身体障碍者で家族や知り合いがケアしている人たち皆に、こんなお金が支払われている。莫大な金額が毎週払われているのだろう。

来週月曜日には病院で使用するベッドが貸与される。金曜日に確認の電話が入って、月曜日の朝9時から5時までの間にベッドを持ってくるという。

今使っているベッドを解体して隣のベッドルームに移して、設置してもらわなければならない。電動でマットレスもいいから床擦れがよくなるらしい。

こうして至れり尽くせりの医療体制を見ていると、さすが英国ならと感心する。

出産にしても出産費用も入院費用もタダだし、赤子一人に何十ポンド(今はいくらかわからない)づつかのお金が支払われる。

斜陽の英国と言われて久しいが、貧富の差なく医療が受けられる社会保障は崩壊してほしくないものだ。

毎日亭主につきっきりの私を心配して娘夫婦と孫のジュードが2週間に一度花束を持ってきてくれる。娘とジュードはマスクをして亭主のベッドルームの入り口まで行ってお見舞いし、ジュードは帰りに必ず I love you Grandpa と言って亭主を喜ばせる。

 

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