Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

東ヨーロッパの旅 31 リトアニアへ

2011-07-30 16:28:42 | 東ヨーロッパの旅 2011




ウスマ湖から西海岸を南下してリスアニアへ行くのに30Kmも遠回りしてヴェントスピルス(Ventspils)の町へショッピングに行った。国道のA10が1Km毎に工事中であまり車も通らないから私たちだけが知らなかったのかといぶかったほどだった。

新市街の大きなスーパーで食料を買い込み後は一泊のキャンプサイトの料金と残りをデイーゼルを入れてこの国を出る前にラトヴィアン・ラッツを全部使い果たすつもりだった。

このヴェントスピルスの町から今夜予定のキャンプサイトまでカーナヴィをつけるとすぐに近道のとおりを指示され、いやな予感がしたものの、道はきちんと舗装されていたから、”やっぱり西のほうは経済的に豊かなのね”と言ったすぐから未舗装のみち20kmを行く羽目になった。
亭主に”この道のほうがアイスランドより少しましよ。時速40kmで走っているくらいだから。アイスランドは時速20kmだった。”と言うと”それを聞いてもちっとも気分が良くならない”との返事。まー判るけどねぇ。




この地方も暑いせいかコウノトリが多く、道端で餌を探しているのを良く見かけた。車が通り過ぎるのは平気らしいが、スピードを緩めるとすぐ飛び立ってしまう。

”英国にもコウノトリがいるよ”と亭主が言い出した。”本当に?””小さいとき自分はどこから来たのかをお母さんに聞いたら、コウノトリが運んできたといってたもん”だって。

思わず笑ったけど、思い出したのは2つ違いの兄のこと。
日本の昔の親は残酷なことを平気で言ったものだ。兄が小さいときやっぱり自分はどこから来たのかとの問いに、”高松(そこで生まれた)の浜から拾ってきた”との返事。いつもやさしかった兄はそんな小さいときに、自分は拾われっ子かと泣いたという。母から聞いたそんなエピソードは決して忘れられない。



西海岸をリトアニアへ向かう道路も東の国道も首都を離れるとだんだん悪くなり、つぎはぎだらけに大きな穴が開いていたりする。それでか走っている車も少ない。




この夜リーアパーヤ(Liepaja)の近くのサイトで一泊し、翌朝国境に着く前にガソリンスタンドを探して走るも、サイトから100km南のリトアニアの町に着くまで、村も無く店ひとつないまったく松林の国道を南下しただけだった。
リトアニアの国境にも誰もいず、道路だけは目に見えて良くなった。




リトアニアの小さな町パランガで又カーラリーの現場に行き合わせ、散々待たされた挙句通行止めだから遠回りせよと言われて、ふくれっ面。








お昼ごろにやっとクライペダ(Klaipeda)のキャンプサイトに着いた。ここは松林に囲まれた海岸に近いサイトで、リトアニア人の夏のホリデー地と在って、テントが一面に張り巡らされ、松林の向こうにしょっちゅう往復しているうるさい貨物列車の線路があった。

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東ヨーロッパの旅 32 キュロニアン・スピッツ

2011-07-29 16:37:29 | 東ヨーロッパの旅 2011




キュロニアン・スピッツはリトアニアとロシアを結ぶ細長い砂丘でクライペダの港からフェリーで渡り、2車線道路をロシアの国境近くの町ナダ(Nada)まで行けるとキャンプサイトで聞いた。




早速港へ急ぎ、フェリー料金30ポンド近くを払い、ピストン運転しているフェリーに乗った。スピッツの内側クルシュ・マリオス(Kursiu Marios)は相当大きな内海で港のクレーンが林立している。時々巨大なタンカーや豪華客船が目の前を横切ってゆく。ここはリトアニアだけでなく、ロシアの船もクライペダの港からしか通ることが出来ない。





地図で見た限りでは細長い土地に道路が一本通っているだけの天の橋立のようなところを想像した。少し走ると自然公園入場料として20ポンド近くを徴収された。
道はまっすぐで回りは両側とも松林。カーナヴィをつけていないと両側が海に囲まれた細長い土地などとは絶対に思えない。砂丘などどこにも見えない。これでは今まで何百キロも走ったバルティック3国のどことも変わらない。







港から50kmのロシアの国境近くのナダの町は、昔はわびしい漁師町で、採った魚を燻製にしていたらしい。最近では観光が一番の収益、町は新しくきれいで、観光客がごった返している。ここはサイクリングか観光バスで来るのが一番らしい。何しろ車を駐車する場所が無い。ナダの町は一回りしたが、一度も下車することなく、あきらめてもと来た道を引き返した。













途中の松林の中にわき道があったから何が何でもと思って行って見た。この日は30度近くの暑い日で砂丘の向こうは海水浴客でいっぱいだった。なんだか拍子抜けで、あまりに自分の描いたイメージとかけ離れていてがっかりした。





途中の林の上に黒い鳥の集団を見つけ止まったところは,リトアニア最大の鵜と鷺の繁殖地で高さ10メートル以上の高い松の木のこずえに巣つくりしている。周囲は魚臭い匂いと鵜の鳴き声がものすごい。それにしても足に水かきを持つ鵜が木のてっぺんに巣作りするとは今まで知らなかった。見渡す限り一体何千羽の鵜がいたものか。これだけがスピッツでの驚いたこと。







このスピッツにはほかに3箇所の町があり、どこもきれいに装飾された素敵な建物が並んでいる。そして止まった町の駐車場の海岸の水が緑のどぶのようで興ざめ。ここは世界遺産に登録されている。ここの砂丘は一年に一メータ位づつ動いているという。









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東ヨーロッパの旅 33 十字架の岡と杉原家

2011-07-28 19:09:26 | 東ヨーロッパの旅 2011



クレイペアダから十字架の岡があるシヤウライ(Siaulial)の町まで約170km、国道A11を真っ直ぐ東に向かう。ほとんど岡も無いような平野の麦畑と牛がのんびり草を食む牧場が続き、直射日光の当たる腕は火のように暑い。












シャウライの環状線から北に数キロ、十字架の岡は簡単に見つかった。ロンドンの友達から話を聞き、ロンリープラネットでも1ページを割いて詳しく記してある。一体どんな岡を登るのかと思って行ったが、平野の真ん中、土の盛り上がったところから横まで大小の十字架が立ち、下がり、横になりとまるで十字架のジャンク・ヤードのような有様。
宗教心の無い私から見た限りではあまりきれいには見えないし、秩序がまったく無いのが良くない。クリスチャンは又違った見方が出来るのだろう。

1993年にはヨハネ2世がここを訪れ、お祈りする場をとおっしゃったことから、後ろの200メータほど離れたところに新しいレンガ造りの教会が建てられた。この場所に十字架が建てられたのは14世紀からだというから年季が入っている。ロシアの統治時代は取り払われたこともあったが、人々の信仰心は消すことが出来ない。今では何十万本になるか誰にも判らないらしい。ここも世界遺産に登録されている。



駐車上にはお土産屋さんが並んでいてどこにも規格品の十字架を売っている。これを買ってあそこにおきたいと思う人が多いのだろう。同じようなのが山ほど在った。
お土産屋さんの前でこのかわいい男の子と目が合った。ニコニコして決して目をそらさない。この子が今日の一番の清涼剤。



ここの駐車場で昼食にし、今夜のキャンプサイトはカウナス(Kaunas)に決めた。

カウナスのサイトまで186km、途中から空は真っ暗になり雷雨が激しくなった。
午後4時過ぎにはネムナス河縁のキャンプサイトにつき、雨の上がった後の清涼感を満喫した。





ここカウナスには杉原千畝氏が1939年から1940年にかけて居住し2000枚近くのヴィザを発行したオフィスが杉原記念館として残っている。
そこはカウナスの旧市街とは全く反対方向の岡の上にあった。岡のふもとでうろうろしていたら近所のおばさんにスギハラ?この階段をあがって右へと教えられた。日本人ならスギハラ家と思っているらしい。







岡の上の電柱にはここから100メーターの案内、家はひっそり静まり返っていたがドアベルを押すと、おじさんが顔を出し、すぐ室内へ案内してくれた。まずは杉原氏の当時の様子をフィルムで見せてくれた。見ているうちに自然と涙がわきあがってくる。どうしてだろうか判らない。

彼が多くのヴィザを発行したオフィスを写真に撮り、サイン帳に書き込み、絵葉書を買い、最後に10年ここで働いているという管理人のおじさんの写真を撮らせてもらった。多くの日本人がこの家を訪れているのが判った。









この杉原家が今日の目的地だったから、あとはおまけでこじんまりした旧市街を歩き回り夕方早めに帰ってきた。昨日までの暑さは去り今日一日はコートが離せなかった。

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東ヨーロッパの旅 34 再びポーランドへ

2011-07-27 11:05:59 | 東ヨーロッパの旅 2011



カウナスを最後にリトアニアを去る日、手持ちの現金を使い果たしてしまおうと、キャンパーにディーゼルを満タンにし、郊外の巨大なショッピングモールへ行った。大変大きくきれいなモールで私がスーパーで食料を買い込んでいる間に、亭主はモールの中の二階まで届く熱帯魚の水槽に興味をそそられた。小さな鮫からエンジェル・フィシュまで泳いでいる。




キャンピングでいいのはどんなところでも土地の食料を買って自分で料理できることだ。以前にも書いたがバルティック3国では鮭の下腹の脂身のところを燻製にしたものを売っていた。エストニアではあまり手を加えていないが、ラトヴィア、リトアニアでは3本をまとめて三つ編みみにして燻製にしている。毎回スーパへ行くと、デリカテッセンがとっても楽しみ。



イギリスであまり手に入らないものをと思っていろいろ買い込んだ。これらは全部私の好物。先ずはサワークラウト、これはドイツが本場だというがヨーロッパのほとんどで売られている。ドイツやポーランドのスーパーでは樽から好きなだけをとっての量り売りまで在る。
生のニシンの酢漬けも39年前に初めてヨーロッパに来たときにオランダで食べたのが始まり。いくらやにしんの卵の塩漬けも熱いご飯に載せたらどんなに美味しいことか。そして極め付きは昆布の千切りのサラダ。初めて買ったのはエストニアだったが、砂が混じっているのでざるに入れて流水で洗ったところ、油がいっぱい入っていたのが判った。それ以来何度も試しているがこれは昆布とにんじんの千切りサラダで美味しい。帰ってからでも作れるから、いろいろ試してみるものだ。

ただ一度だけ失敗したのがリガの野菜市場でほうれん草だと思って買った葉をさっと茹でたところ、酸っぱくて食べられない。あれはいったいどうやって食べたものか?もしかしてサラダにでも使うのかも知れない。




食料を買った後でも残った小額のお金にカードでの支払いを足してロシア製の雨靴を買った。これで全部のリトアニア・リタスを使い果たして満足。

国道A5を国境に向かう。久しぶりにトラックの行列を見かけた。トラック運送は各国の貿易の一端を担っているから、少しだけれども経済の動向を比較することが出来る。




これは蕎麦の花で一面真っ白、もう花は終わりだと思っていた。確かにここ以外では見かけなかった。



ポーランドの国境では一応建物はあるものの誰もいない。それのみならず、両国のサインがない。どこからポーランドなのかもわからない。



このサインだけはポーランドの交通規則で、これだけがポーランドであることを知らせてくれている。



ポーランドへ入ると以前に見かけた懐かしい風景、教会を中心にした町や村が通りの脇に現れる。








ここミコライキは一ヶ月前リトアニアへ行く前に一泊した湖水地方のキャンプサイトで、前にはWifiが無かったが、この1ヶ月で設置された。町もきれいでゆったりした観光地、ポーランド人がほとんどだが、キャンプサイトにはフィンランドやドイツのキャンパーが多い。








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東ヨーロッパの旅 35 トルン(Torun)

2011-07-26 15:39:50 | 東ヨーロッパの旅 2011



夕方から雷を伴った雨が激しく、今まで暑かったバルティック3国がまるで嘘だったみたい。英国は20度も温度が上がらず、パリ、ベルリンも同じように寒い。反対にモスクワが33度、北アメリカは熱波が押し寄せている。先週は日本も南方から台風が上陸、福島原発を襲う前に太平洋にそれて、各国のテレビニュースがどっと安心したように報道していた。

朝7時ころまで土砂降りだった雨は、私たちが出かけるころにはうす雲が広がって、いつの間にかやんでいた。
今日の目的地トルンまでは280km、途中に3つの大きな町を通り抜けた。

その一つの町外れで警察官の制服のような服を着た男性に停められ、何事かと思ったら、ガソリンが切れてお金が無い、この金の指輪を渡すから50ポンド欲しいと懇願された。車に二人の子供がいるので助けて欲しいと,膝まづいての懇願。

こうして皆にたかっているのかも知れないが、これが演技だとしたら彼は役者になれそうだ。気の毒になって50ズロティ(12ポンドくらい)をあげて指輪をいらないと言ったらなおもしつこく50ポンドと叫んでいるのでそのまま車を出発させた。チャリティだと思えばたいしたこと無いかとも思うし、これが彼らの金儲けの手段だったら頭に来る。忘れるのが一番良いか?






そして悪いことは重なるもので、キャンプサイトについてすぐ見つけたのがキャンパー前輪に刺さった長さ1インチくらいの太い釘。亭主が釘を取り除いたらいっぺんでタイヤの空気が抜けてしまった。今まで7年間何万キロもヨーロッパの道路を走ったがこんなことは初めてだった。
道具が無くてタイヤがはずせず、ガレージの人に来てもらう手はずをつけたが、来たのが翌日12時過ぎだった。はずしたタイヤを修理して持ってきてくれたのは午後の4時過ぎ、手持ちのズロティとユーロで支払ったが、高速で走っているときでなくて良かった。

私たちはラッキーだと思いましょうと二人で話し合った。前日に来る予定がだんだん遅れて水曜日の昼になってしまったがこの日は朝から一日中雨が降り続いたので、どこへも行く気もしなかった。



木曜日の今朝、天気予報はドイツからバルト海にかけて低気圧が渦巻いている。雨雲は低いが降り始めていないから、長い橋を渡ってトルンの旧市街へ出かけた。城壁に囲まれたこの町は雰囲気がドイツのハムリンに似ている。そしてここはやはり世界遺産に登録された町で、日本の団体客を久々に見かけた。城壁を入ったすぐの塔が斜めに建っていて面白い。ここの中はレストランになっているが中も床がかしいでいるかはわからない。



上の立派な塔は刑務所、写真を撮っていたら労務者風のおじさんがいろいろ話しかけてきて最後にクリミナル(犯罪者)の言葉だけがわかりおじさんは満足して行った。





このゴシック建設の塔と立派な建物は旧市庁舎で内部は博物館になっている。博物館のステンドグラスのコレクションがいいとのことだったので入ってみたが、宗教画やステンドグラスも期待したほどでなかった。しかし3階の一角にコペルニクスの像や似顔絵、コイン、などいろいろな彼の顔が在り、どれが一体似ているのかわからない。みんな想像で描かれたものなのだろう。





この旧市庁舎の正面通りのコーナーに大きなコペルニクスの像が立っている。ここは彼の生誕地で、この通りから近いところに彼の生まれた家が在った。こんな立派な家だったところを見ると彼は十分な教育を受けて、天体や宇宙を研究したものだろう。

 

聖マリア教会はステンドグラスがすばらしく、多くの人たちが出入りしていたが、この町全体で一体どれほど教会が在るものか判らない。ほとんどが閉まっていたから、ここに集中していたのかも知れない。









この町は観光を重要視しているらしく、こんなやさしい装飾で人々を楽しませてくれる。








旧市庁舎のタワーの上からは町が見渡せ、中世そのままの町並みを楽しむことが出来た。



博物館の中のたくさんの絵の中で一番気に入ったこの絵はユリアン・ファアット(1853-1929)の”狩へ出かける”。主題があまりに小さく描かれて説明を読まなければ判らなかったが、雪の風景がこんなに良く描かれている作品が好きだ。







コペルニクス大学の立派な建物の中に博物館が在るので、私一人覗いてみた。マリア・ムッターミルヒ(1876-1967)の展覧会を開いていて、彼女はポーランドのユダヤ人だと知った。。会場の監視人がよっぽど暇をもてあましていたらしく、写真を撮ってあげるといい、画家の両親のポートレートの前で写してくれ、絵の説明もしたりでなんと親切な人だろう。帰るときにはまた来てくださいと手を振っていた。

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東ヨーロッパの旅 36 ポズナン(Poznan)

2011-07-25 17:19:42 | 東ヨーロッパの旅 2011



トルンからポズナンのキャンプサイトまでは182km、いつも移動中に見つけたスーパーで食料を買い込んでゆくから時間がかかる。
このところ低気圧がドイツからポーランド全土を覆っていて、雨雲が次々押し寄せてくる。
お昼過ぎやっと少しの晴れ間に、ポズナンのヴァルタ河渕のキャンプサイトに着いたが、予約で満杯と断られた。今回の旅行でキャンプサイトが満杯だったのはこれが初めて。
ほかにキャンプサイトは在るかと聞いたところ、紹介されたのは町から17km南西の田舎のサイト。ライ麦畑に囲まれた小さなところで、野生の鹿2頭を見つけ驚いたが、向こうも驚いてあっという間に姿を消した。



この日の午後から夜まで雨が降り続き、キャンパーから出ることもなく半日を過ごした。
翌朝まだ小雨の降る中を、キャンプサイトの持ち主の奥さん(英語が話せる)が車で2km先の駅へ送ってくれ、ポズナンの中央駅まで列車で往復した。
列車に乗ったのも今回が初めてで、プラットフォームから車両までの高さが異常に高い、古い質実剛健な列車だった。

駅から真っ直ぐ歩いて15分ほどで、巨大な建築物が目白押しの通りへやってきた。この記念碑は1956年共産政権で初めて起こった民衆暴動の記念で、パンと自由を求めて発生したものだとのこと。




この記念碑の隣は文化宮殿と呼ばれ、1905-1909年に建設された。当時はドイツ皇帝の為に建設されたが、現在は文化行事に使われている。大変大きく立派な建築物で、写真は裏庭から見たもの。

この庭にポーランドの有名な芸術家マグダレーナ・アバカノヴィッチの野外作品が展示されていた。




地図を頼りに旧市街の市庁舎に向かった。この町は中世からワルシャワとベルリンを結ぶ重要な交易地点で、ドイツの影響をよく受けているという。
旧市庁舎は13世紀に建設されたが戦災で消失され、16世紀のイタリア・ルネッサンス様式で再建された。

この塔の時計台のすぐ上には12時になると2頭のヤギが出てきて角を12回つき合わせる。これを見るためにこのスクエアは11時半ごろから観光客がつめかけ大変な賑わいだった。









このスクエアを取り囲む家々は色とりどり、それに4階建ての並びが美しい中世の家屋が並んでいる。






そこへ勇ましい男声合唱の一団が馬に乗って現れた。彼らは昔のポーランドの兵士の制服を着ていてトランペットを吹き、馬上でポーランド語の号令を掛け合い、閲兵の儀式を見せてくれた。




スクエアから近い聖スタニスラウス教会は、バロックのすばらしく飾り立てられた内装で、教会前にコンサートと書かれていたとおり、パイプオルガンでバッハの無料コンサートを行っていた。2曲だけ聴き、ずっと居たかったけれど、先へ行かねばならぬ。












ポーランド最古(985年)のポズナン大聖堂は旧市街から川を越えた中州にあり、この日は土曜日、結婚式の真っ最中。横のドアからそっと入ってみると、テナーの牧師による宗教歌からアベマリアの歌曲、そしてパイプオルガンによるクラシックミュージック、最後はローエングリンのウエディングマーチが鳴り響いた。まるでミュージカルを見ている様で、参加者の少ない結婚式だったけれど、二人にだけでなく私たちよそ者にも忘れられない結婚式になった。








午後帰りの列車の時間を気にしないで、国立美術館で2時間も楽しんだ後、列車が5時から8時まで無いことがわかり、がっくり。8時過ぎでも明るく雨も上がった田舎道2kmを歩いて帰った。



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東ヨーロッパの旅 37 マルボルク

2011-07-24 09:25:08 | 東ヨーロッパの旅 2011



日曜日の朝、雨の中を北へ向かった。トルンとポズナンは北のグダンスクとはずいぶん遠回りになるが、せっかくポーランドへ来たからにはすべて見たいと欲張った結果で、この日はポーランドの中央部から北へ266kmのマルボルグへ行くことに決めた。

途中で2度も激しい雨に襲われたが、マルボルグ近くへ来るとうそのように青空だった。
キャンプサイトへ入ってすぐ、洗濯機でシーツや衣類の洗濯。毎日雨が多かったからもう一週間も洗濯していなかった。
サイトの松の木に紐を渡して夕方8時ごろまでにはほとんど乾いた。雨さえ降らなければ、気温は上がって暑くなってくる。







サイトの近くにアドベンチャー・グラウンドがあり、子供たちが年齢にあわせた高さのロープで楽しんでいる。私ももうちょっと若かったら空中綱渡りなどやってみたかった。






キャンプサイトから歩いて10分くらいにあるマルボルグ城はヨーロッパ最大のレンガ製の城で1247年ドイツ騎士団によって建設された。
第二次世界大戦時ドイツの爆撃で破壊されたが、戦後復興して現在は博物館になっていてユネスコの世界遺産に登録された。




夏休みに入ったせいもあり切符売り場も長い行列だった。大きな城内もあらゆるところで観光客が込み合っていた。







場内には尼僧院もあり墓地や礼拝堂などもある。月曜日は多くの見物場所が閉まるのでこんなに大きな城内でも見るところは限られてくる。城の中庭の小さな塔の上にペリカンが雛を育てている像があるが、説明によれば自分の血を採って雛を育てるというキリストの受難を象徴しているものだそうだ。



高い塔へ上るのは別料金だったが、周囲がすべて見渡せ降りたら川向こうへ行ってみようと思った。









お城を出ると周囲にはお土産屋が並び,売っているものも,中世騎士の衣装や武具がほとんど、子供たちが楽しんでいた。







陸橋を渡り川向こうからの城を満喫し、川筋のレストランで遅い昼食を食べ小さなマルボルグの繁華街を散歩して帰ってきた。
ここも来て良かったと感激したところの一つ。





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東ヨーロッパの旅 38 グダンスク

2011-07-23 20:56:28 | 東ヨーロッパの旅 2011



マルボルグからグダンスクのキャンプサイトまで63km、午前10時過ぎにはサイトに着いた。ここはグダンスク郊外の海岸近くの松林の中、海水浴が目的の家族連れがテントや簡易ロッジに泊まって夜遅くまで大賑わい。グダンスクの町まで路面電車が走っていて20分で行ける。おまけに電車代もロンドンの4分の1くらいだからありがたい。




ドイツ文化の影響を受けたきれいな町で1000年以上の激動の歴史を持つ。1939年ドイツがグダンスク港突端のヴェステルブラッテに奇襲攻撃をかけ、これが第二次世界大戦の発端になったという。戦時中町は破壊されたが戦後復活し、ポーランドでは1,2位を競う美しい町として知られている。



海神ネプチューンの噴水は1633年に完成し海洋都市グダンスクのシンボルとなっている。




先週末から一週間、毎日お祭りらしく、どの通りにも露店が並び、観光客のみならず、地元の人々で大賑わい。これほどの人ごみはポーランドでも初めてだった。




バルト海につながるモトワヴァ運河の周辺は,16-7世紀頃海上輸送の最盛期に作られた頑丈な倉庫が並び、今ではお店やホテル、博物館などにに改装されている。これは全くロンドンのテームス河畔と変わらない。下の変わった建物は世界でも珍しい木造クレーンで希少価値ありとのこと。









この華麗な建物はルネッサンス様式の大武器庫で現在は改修工事で閉まっていた。前と裏ではデコレーションがずいぶん違う。







旧市街のほぼ中心にある聖母マリア教会は素晴らしいステンドグラスと15世紀に作られた天文時計は戦災を免れた。高さ82メータの塔は408段の階段を上って(運動不足をつくづく嘆いた)晴天のグダンスクの町並みに感激。









戦後長い間ソ連の統治下にあったポーランドで1980年レーニン造船所の電気技師だったレフ・ワレサ氏が労働組合を結成、パンと自由を求めてデモとストに突入、連帯をスローガンに東欧の歴史を変えていった。その連帯の記念碑がこの高い塔のうえの碇。周囲の広場には長く苦しい闘争で無くなった人たちの墓石が並んでいる。

ワレサ氏は1990年台に5年間大統領にもなりノーベル平和賞を受賞している。

この記念碑の近くに連帯博物館が在り写真展が開かれていた。1989年のソ連の崩壊と共に東欧諸国が次々民主化し自由社会が創られていった。その歴史的な数々の写真は忘れられない。
又近くの”Roads to Freedom”という地下の博物館でも闘争の歴史や人々の生活を映像や写真で見せていた。下の人形は当時の労働者が賃金をトイレットペーパーで支払われていたものを示している。







グダンスクから市街電車で40分くらいの隣町オリヴァーには、素晴らしい公園の中にオリヴァー大聖堂がある。この大聖堂の5500本のパイプから成るパイプオルガンは1755年には”、世界でもっとも美しい音色”とたたえられたという。

私たちがこの聖堂に着いたのが12時5分前、聖堂内は3台の観光バスでやってきた観光客でいっぱいで、12時と同時にパイプオルガンの演奏がはじまった。オルガンがきらびやかな音色を奏でるとき、パイプの周囲に飾られた天使の手が動きラッパを吹き鳴らす動作をする。又金色の飾りがくるくる回りこの仕掛けが動いているときには暗いその部分がいっせいに明るくなった。

バッハの良く聞く曲が20分ほど続き終わったときには拍手が上がった。若い女性奏者が立ち上がって手を振っていた。






オリヴァーへの道すがら、巨大なアパート群が目に付く。これだけ巨大で同じような建築物の連なりは元社会主義のこの国だからで在ろう。

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東ヨーロッパの旅 39 ポーランドの露店

2011-07-22 22:21:34 | 東ヨーロッパの旅 2011

グダンスクの旧市外へ入る門の側でたくさんの人々が一瞬立ち止まり、取り囲むのは、このゴミに等しい容器を使って面白い音を出している若者に驚くからだ。ドラムのようにあらゆる音が混じりあい、素晴らしいリズムを生み出していた。この人いつかは世に出るのじゃないかと思った。

ポーランドばかりでなくバルティック3国の一番有名なお土産といえばこれ、琥珀が上げられる。ここグダンスクの通りでも三軒に一軒は琥珀を売っている宝石商で、露店も然り、よく共倒れに成らないものだと感心するくらいだった。私も買おうかなと足を停めるが、あまり気に入ったものが無いのと、私には本物と偽者の区別がつかないから食指が湧かない。
海岸の砂に壊れたかけらが打ちあがるそうだ。



八百屋さんの店先に必ず見かけるのが、この巨大なひまわりの種。まだ完全に実が熟れているように見えないがどうやって食べるのだろう。トルコやエジプトではもっと大きな黒い筋の入った種をローストして塩をまぶして売っている。ここではその様なのを見かけない。

地面にあらゆるガラクタを並べて売っているのは骨董、中古マーケット。目が利けばすごい宝物が見つかるかも知れぬが、私から見るとただのゴミにしか見えない。



この変わったイスには大いに興味をそそられたが、もちろん買うわけには行かない。今まで見たことの無い形をしていて、座って楽なものだろうかと思った。
屋台の食べ物やさん、ソーセージを焼いたもの、サワークラウトの煮付けどれも塩っ辛そうで試さなかったけれど、これらは大きなパンを薄切にしたうえにラードを塗って、その上に載せて食べる。




立派なマーケットの建物、このようなマーケットはヨーロッパのいたるところの町で見られる。このグダンスクのマーケットでは地下が食肉の小売店になっていて、地階は衣料品店がズラッと並び、八百屋はマーケットを取り囲むように周囲に出店していた。
ロンドンではマーケットの野菜果物はスーパーよりぐっと安いが、この地では果物は特に安いと思われない。ただこの土地で取れるのか巨大なキャベツが異常に安い。サワークラウツを作るのにはもってこいだろう。

そして特に感じたのがポーランドやバルティック3国ではスイカは採れないのに、どこにもスイカがあふれていること。道端でも巨大なスイカを小山のように積みあげて売っている。





この黄色い小粒のきのこはポーランド中に広がる松林の中で取れるらしい。道路わきに車を停めてきのこ狩りに出かける人たちを何度も見かけた。又道端でこれらのきのこを売っているのは毎日のこと。一度だけマーケットの片隅でおばさんが売っていたのを買ったが安くない。手のひらに乗るくらいで一ポンドはする。いいにおいのきのこで、味噌汁に入れたのが一番美味しかった。

このブルーの陶器はポーランド特産、ロンドンの三越でも売られていたが結構高い。でも陶器はやっぱり日本が一番。




このカトリックのお坊さん、通りの屋台で何を売っているのか聞かなかったけど、道端で布教活動だろうか?

きれいな色彩のボーンチャイナのティーポットとカップはモネの絵に似てとっても芸術的。




巨大な三日月型のパン、このパンの黒いところはけし粒がびっしりついているせいだ。これだけパンにけしの種を使ったら、畑一面の芥子の花が咲かなければ供給が絶えてしまう。

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東ヨーロッパの旅 40 ワディスワヴォヴォ(Wladyslawowo)

2011-07-21 16:35:15 | 東ヨーロッパの旅 2011



ワディスワヴォヴォはグダンスクから北に75km、バルト海に面した田舎町で地球の歩き方には載っていない。あまり有名じゃなさそうだからお店も無い静かな海岸線を想像して、途中でゆっくり食料を買いこんでいったものだから午後になってしまった。

ところがこの町に近づくにつれ渋滞がひどく、キャンプサイトにたどり着いたときは午後の3時近くだった。何しろ道路際の露店といい、若者たちのグループから家族連れのテントがひしめき合っているキャンプサイトといい、ここは全くイギリスで言えばブライトンかウエイマス、日本なら湘南の海岸(私は行ったことは無いが)どこもかしこも人がひしめき合っている。



この町から東に細長く突き出たヘル半島は33km伸びていてやはり松林が続いている。この半島へ行く車が渋滞してなかなか前へ進めない。バルト海の荒波をさえぎるこの半島のおかげで、グダンスクは自然の良港として発達した。



海の向こうにヘル半島の松林が良く見える。



海岸線に沿って道路が平行に走り其処は軒並みキャンプサイトだった。私たちが停まったサイトは全くできるだけ多くを押し込もうとしているようで、キャンプサイトの規則も何も在ったものじゃない。それでも満員で断られるよりはましと落ち着くとゆっくり昼寝してしまった。



翌日、町の探索に出かけた。道端にターザン・パークというアドベンチャー・グラウンドが在り勇敢な子供たちが綱渡りや空中障害物トレーニングなどやっていた。これってあまりヨーロッパの町では見かけないのにポーランドではもう2回目。





途中にモダンな教会が在り入ってみて、あまりにきれいなステンドグラスに大いに感激して写真を取り捲った。





町の中心の高い塔には、7階までエレベーターが付いていていたから上ってみた。其処から有料で展望台へ行ける。最頂部からの眺めは素晴らしく、ヘル半島が半分ほど見えるし、バルト海岸にパラソルの花盛り。昨日の道路渋滞は今日も続いている。















ヘル半島の湾内のカイトサーフィンが色とりどり、上がったり下がったりしていて見飽きなかった。



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東ヨーロッパの旅 41 ビアウォグラ(Bialogora)

2011-07-20 19:39:59 | 東ヨーロッパの旅 2011



ワディスワヴォヴォのキャンプサイトはひどかった。夜中の2時まで周りのテントやキャンパーから大声のおしゃべりや、音楽が聞こえ、金曜日の夕に自宅を発ってこのサイトにたどり着いたらしいキャラバンが2時過ぎ隣に落ち着いた。シャワーもトイレも外で行列を作る有様、土曜日の朝は早々にここを発った。
ヘル半島へ行く車なのか道路は3km以上の停滞、私たちは反対に西へ向かった。道端には少しの空き地にも車が駐車して、松林の向こうの海岸へ行っているらしい。

英国で買ったヨーロッパのキャンプサイトリストには、ポーランドの地図に載っていない小さな町のサイトがある。ここもその一つでワディスワヴォヴォから40kmのホリディタウンだった。




ビアウォグラの小さな町のはずれのキャンプサイトはこの2晩を過ごしたサイトとは全く違い、設備もよく広々としてほとんどもの音がしない。町のメイン道路わきにはお土産店、アイスクリームやお菓子屋さんも在った。このメイン道路から道は二手に別れ、一方は行き止まりまで長い駐車場。一方は松林の中の長い歩道が続いている。



この歩道は1.5kmほどもあり自転車で行く人、馬車で行く人、サイクルリキシャで行く人たちなどで大賑わい。





バルティック海は汚染度がひどいと聞いていれば水につかる気もしないけれど、ポーランド人にすればこの北の海岸しか海が無いから、選択の余地が無い。夕方には真っ赤に日焼けして帰って行くのだろう。







冬にはこのあたりは寒さも厳しいらしく、まだ秋にもさしかかっていないのに、どこの家の裏にもこんなにたくさんの薪の山が見える。




ここのキャンプサイトはこの旅では一番安い9.5ポンドこれには電気代もすべて含まれている。おまけにインターネットも只で、キャンパーの中からメールやスカイプが出来るからとってもありがたい。ウイークエンドはここでゆっくりすることにした。



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東ヨーロッパの旅 42 ウェバ (Leba)

2011-07-19 17:56:34 | 東ヨーロッパの旅 2011




ウェバはビァウォグラからいったん内陸に入って、見渡す限りもう刈り取りの始まっている麦畑を尻目に、ウェブスコ湖の脇に広がるホリディタウンで、幅広いメインロードと漁船も出入りする運河のあるにぎやかな町だ.



下は作りかけのモダンな教会、高い塔が素晴らしい。



海岸へ行く途中に、屋根と床が反対に成っているUp Side Downという家を見かけた。床が傾いているかは判らない。



キャンプサイト・マルコポーロも町の一角、サイトの門を出れば辺りは土産店や、レストランが並んでいて飽きることが無い。
雲の流れが異常に早い8月8日の午後、町の地図を頼りに海岸まで散歩に出かけた。
100メータほど松林をつき切ると遠くに堤防の見える砂浜に着く。この砂浜に着くと同時に西から黒雲が湧き上がり雷を伴う土砂降りになった。




幸い近くのレストランのバルコニーで雨宿り、20分後には青空が出て一度もぬれずに帰ってこれた。雨上がりの道には両側のお土産店や、レストランに夏休みのポーランド人が群がり大変な賑わいだった。










この日は亭主の誕生日で夕食は近くのレストランで、亭主念願のフィシュ・アンド・チップス、そしてワン・パイントのビールで乾杯。
魚はハリバット(おひょう)、ハリバットだけが英語もポーランド語も同じだったから注文しただけで本当は二人ともかれいが食べたかった。ハリバットはイギリスでは高い魚でここポーランドでも高い。でも二人でビールも入れて13ポンドで夕食が食べられる。

夕食後川淵の漁船の横で売っている新鮮なかれいを2匹買った。中サイズで頭とはらわたを取ってくれ、6ズロッティ(1.3ポンド)あまりの安さに驚いた。

この2ヶ月、ポーランドやバルティック3国のスーパーマーケットで魚を見ているが、ほとんどが燻製ばかり。海が遠いせいもあるのだろうが、湖の多いこれらの国々でどうして鱒の養殖などをしないのだろうか?
新鮮な鮭を一匹買ったのは、エストニアだったが、鱒を買ったのは、グダンスクが初めてだった。鱒も大きなのが2匹で3ポンドぐらいだったが、このカレイには本当に驚いた。




翌日も強風、1時間ごとににわか雨の激しい一日で、雨の合間に堤防まで散歩したり、レストランを覗いたり。そこで発見したのがこの辺りでは店先で魚の燻製を作っていること。
鯖の燻製など本当にバルティック海で取れたのだろうかと疑わしいが、にしん、ひらめや見たことも無い魚も燻製にして売っていた。
遠く内陸から来たポーランド人にはお土産にちょうどよいかも知れない。それとも新鮮な海の魚を食べる機会があまり無いからなのかも知れない。





太陽が出れば暑さを感じるこの海岸も強風、おまけににわか雨がいつでもやってきてコート無しでは居れない。それでもこの人ごみはどうだ。まるでせっかく海へやってきたからにはなんとしても海辺を楽しもうというポーランド人の執念を感じさせる。










キャンプサイトの近くの廃線になったところにおかれた列車。住み心地のよい住居に成っているらしい。昔は英国の古い列車を日本へ持って帰ってキャンプ場にするのが夢だった。誰かそんなことを考える人はいないものか?



このキャンプサイトを去る前に、又川淵の魚屋さんへ行きカレイ4匹を買ってすぐ冷凍にした。炭火でゆっくり焼いて食べたい。4匹の値段?押して知るべし10ズロッティ(2.2ポンド)。

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東ヨーロッパの旅 43 ミエルノ (Mielno)

2011-07-18 16:55:11 | 東ヨーロッパの旅 2011



ウェバから西に140kmのミエルノは荒れ狂うバルト海とヤムノ湖の間に横たわる細長い土地で、1.5kmほどの長い繁華街のあるホリディ・タウンだ。朝から小雨の降る寒い日で、お昼過ぎたどり着いた町はホリディー客で沸きたっている。




雨雲立ち込めるヤムノ湖は寒く、誰もいない。






雨が小休止していた午後、この町の探索にでかけた。
長い繁華街から海岸へ向かってゆく通りはほとんどのホリディ客が宿泊しているらしいホテルやレストランが並び、たどり着いた海辺は強風とたけり狂う荒波で、一週間か2週間の夏休みでこの海に来たであろう人たちを気の毒に思う。









気温も一週間前とはあまりの変わりようで、14,5度しかない。海が楽しめないならと繁華街のあらゆるエンターティンメントは大繁盛だった。

















レストランの食べ物はここもやっぱり海辺だけあって、魚のフライとチップスがほとんど。




2箇所で見かけたこの美味しそうな料理をぜひ試してみようとこの夜は出直して食べに行った。

ポークと野菜のトマト味煮込みとローストポテト、マシュルームの塩味煮つけ、すべての味付けが濃くて私たちには塩っ辛すぎた。そして飲み物も入れないで二人で17ポンド近くは高すぎる。あまり食い意地を張るものじゃないと感じいった夜だった。





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東ヨーロッパの旅 44 シェチチン(Szczecin)

2011-07-17 14:46:05 | 東ヨーロッパの旅 2011



一日中空は雨雲が立ち込め、時々激しい雨がやってくる中、国道E28号線を160Km西南に向かった。シェチチンはドイツとポーランドの国境近くの町で、旧市街も戦災で破壊されたが、復旧工事が進んでほとんどが原型をとりもどし、この町の観光源と成っている。


 

左上は旧市庁舎で緑と赤レンガのデコレーションが対照的で面白い。15世紀半ばにゴシック・スタイルで建築され、17世紀にはバロック・スタイルに改築された。戦時中の破壊の後、1975年再建され現在は博物館として使われている。

右上は王宮の塔で頂上まで狭い螺旋階段を上って行ける。この宮殿は14世紀にポメラニアン公爵によって基礎石がしかれ、16世紀にはルネッサンス様式の現在の形に成った。第二次世界大戦でこの宮殿も破壊されたが戦後復旧された。








宮殿の一部にある観光案内所の壁にこの宮殿の上空写真があったので記念に写してきた。お城のスケールがこれでよく判る。



王宮から300メータあまり、大聖堂はまだ新しく、戦災後のデコレーションはモダンなステンドグラスとまだ新しい素晴らしく大きなパイプオルガンが在る。私たちが二人で8ズロティを払って中に入ったときは、大きなパイプオルガンの調整中で、いろいろなメロディを弾いていた。教会内の床掃除のおばさんは、あらゆるセイントの前で立ち止まり、膝を突いてお祈りしているから一向に進まない。









街角のモダンなオブジェ。



戦時中の集中爆撃も城砦の基礎は破壊されていない。



1913年建築の立派な国立博物館、中を見て周る時間が無かった。



国立博物館前で手彫りでつくり売っていたおじさんは、”貴方が作ったの?、素晴らしい!!”と誉めてあげたので大喜びしていた。本当は買ってあげたかったけれど、飾り物は欲しくない。 



1906年から1911年までかかって完成した地方海洋事務所、昔はどうしてこんなに馬鹿でかいオフィスが必要だったのだろうか?





1901-1905年に建てられたポーランド電信電話局のネオゴシック・スタイルの華麗な建物。



電信電話局のすぐ近く、同じネオゴシックのセント・ジョン・ザ・バプテストの教会はミサの真っ最中。それにしても教会3方の窓を飾る華やかなステンドグラスには感銘。ミサが終わるまでじっくりソプラノで歌われる宗教歌を聴き、終わると写真を取り捲った。今回の旅でステンドグラスの一番美しい教会だ。天井もきれいな青色に金の星が一面にちりばめられていた。









旧市街の端にある新市庁舎、新しいといっても建てられたのは1875-1879年、ネオゴシックの赤レンガ造り。







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東ヨーロッパの旅 45 グライスヴァルト ドイツ

2011-07-16 17:03:55 | 東ヨーロッパの旅 2011




8月13日、ポーランドからドイツへ向かう。シェチチンのキャンプサイトはヨットハーバーの横にあり、安くて設備も整っていた。只問題は蚊が多いこと、トイレもシャワールームも何匹かの蚊が飛んでいて知らない間に腕やお尻まで刺されていた。
昔は蚊に対して免疫があったのかもしれない。今では一度さされるとその部分が腫れて三日はかゆみと腫れが引かない。あまりの痒さに,かこうものなら後が残って、一ヶ月でも残っている。

この日がポーランド最後だからスーパーマーケットのガレージでディーゼルを満タンにし、残った現金は食料を買い込んで全部使った。食料やディーゼルはポーランドのほうが安い。
スーパーの駐車場にドイツ車が多いのも、ここへショッピングに来ているドイツ人が多いのだろう。






シェチチンから国境までの20kmほどは、高速道路A6になっているが、国境のサインも無しにドイツへ入ると道路はそのままアウトバーンになる。道路はスムーズで ”やっぱりドイツの道路はヨーロッパ いちだねぇ”と亭主は感極まって言った。ラトビアの悪路が思い出される。





北ドイツのグライスヴァルト(Greiswald)は戦火にあわず、15世紀に創設された大学と大聖堂がある。
キャンプサイトのリストで行った所は、この町から15ー6Km離れた海辺の巨大なサイトだった。
もう2週間以上も続いた悪天候でサイトのいたるところは水浸し。指定の場所にキャンパーを入れた途端、タイヤが泥に埋まって空転。さすがここの用意のいいこと、すぐ小型のトラクターが来て引っ張りだしてくれた。やや水はけのよいところに駐車して午後は海岸を散歩してみた。
ウインドサーフィングやカイトサーフィングをしている若者が多く、キャンプサイトは彼らのテントがいたるところに張ってあった。
そしてなんとここも恐るべき蚊の群生、トイレやシャワールームの白いタイルに蚊が点々と模様のように止まってチャンスを狙っている。
トイレに行くのにレインコートを着ていったり、虫除けスプレーをシャツやスラックスにも振りかけての防戦。




14日北のリューゲン島へ行く前にグライスヴァルトの旧市街へ寄ってみた。日曜日だったから町は静かで市庁舎のあるマーケット・スクエア近くに駐車でき、急いで一回りしてきた。





町並みは中世そのままで色彩豊かな建物が並んでいる。セント・メアリー教会はちょうどミサが終わったところで、ぞろぞろと出てゆく人たちと入れ替わりに入ってみたが、あまりのシンプルなデコレーションにがっかり。

 






素晴らしい塔を持つ大聖堂は外見ほどではなく、パイプオルガンだけは立派だと思ったが、大して感激しない。シェチチンの教会のステンドグラスが余りにきれいだったから、すぐ比較してしまう。







もうお昼過ぎだったからスクエアの横のお菓子屋さんで、砂糖がしっかりついたデーニシュペーストリーを買おうと思った。これをと指差した菓子パンに大きな地蜂が砂糖に食いついている。店員のおばさんはそのパンを持ち上げ、蜂を落とそうと振り回していた。そんなパンを売るつもり?止めて!そちらにして!と身振りで伝えて替えてもらった。


元東ドイツのこの地方、英語が全然通じない。

ドイツ人は衛生観念が発達していると思ったのに・・・ショック。

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