もう2週間前からはてなブログへ移そうとトライしているが最初のわたしのIDで躓いている。
このGooブログを始めたのは今から17-8年前、友達のおすすめとヘルプで立ち上げたが、電話番号を英国の0044を入れず、我が家の固定電話の番号にしたため、日本からのパスコードなど来るはずもなく、誰に連絡して良いものかわからない。
どこに連絡したらヘルプが得られるものか、どなたか教えていただけますか???
もう2週間前からはてなブログへ移そうとトライしているが最初のわたしのIDで躓いている。
このGooブログを始めたのは今から17-8年前、友達のおすすめとヘルプで立ち上げたが、電話番号を英国の0044を入れず、我が家の固定電話の番号にしたため、日本からのパスコードなど来るはずもなく、誰に連絡して良いものかわからない。
どこに連絡したらヘルプが得られるものか、どなたか教えていただけますか???
今朝7時に目覚まし時計をかけて目覚めた。最近睡眠時間が少なくなってきている。昨夜も12時にはベッドへ入ったのに、一眠りして目醒たのは3時、仕方ないから1時間ほど本を読んでまた一眠り。
今日千秋楽の大阪場所、テレビでは7時半から9時まで実況放送してくれるから見逃せない。以前から高安のファンだったけれど、今回はなんとしても大の里に勝ってほしいと祈るような気持ちで見ていた。
優勝が決まって内閣総理大臣賞をもらった後の、観客席はもうガラガラ、次から次と観客が席を立っていく。見ているこちらが恥ずかしくなってきた。
娘の家に同居しているウクライナのおばあさんと孫にあおにしきが貴方の国の力士と言ってから興味を持ち始めたらしく、今日は彼女の娘宅で泊まっているそうでパトリックがヴィデオに録って見せるそうだ。
先週金曜日、友達とロンドン西方面にある巨大な展覧会場での Ideal Home Exhibition へ行ってきた。10時半に入場したときはたいしてお客はあまりないと思っていたが、午後1時を過ぎた頃からもの凄い人出、午後3時過ぎには疲れ切って電車3回乗り継いで帰ってきた。
今日はそこでどんなものが売られているか、写真をいっぱい写して来た。
厚さ25センチ位長さ8メータくらいの一枚板で作られたテーブル。これだけではなく大きな素晴らしいテーブルが展示販売されていて、写真を何枚も写したから、お金持ちの日本人バイヤーだと思われたらしく、セールスマンがやっていたので慌てて離れた。こんなテーブルを置くところがあるのはよっぽどの豪邸だろう。
お屋敷の前庭の敷石でまるで粟おこしみたい。
これは何だとよく見れば、水のパワーを調節できるシャワーヘッド。
高級フライパンや鍋のセット。デモンストレーションが面白くしっかり見て、会場一廻りした後、やっぱりこれが一番素晴らしいと中サイズフライパン1つ55ポンド(約1万1千円)で買ってしまった。
こんなにたくさんの甘いもの、チョコレートなどたった1軒のお菓子屋さん? で感激、買わないで写真で我慢。
人口絵画の額縁入り。あまりきれいだから写真だけ写したが、これを買って飾っていたとしても飽きるだろうなと思った。
2階の回廊から会場を写したもの。家具も素晴らしいけど、ほとんど皆持っているはず。買う人がいるのだろうか?
トルコのランプ、最近ではよく見られるようになった。
いろいろなチェスセット、ジュードがチェスクラブに入っている。
こんなに楽しいクッション。さすが Ideal !!!
色とりどりのスカーフ絹の手触りも素晴らしい。
靴下だけのお店。
サングラスの店。
チョコレートのお店かと思ってみたらなんといろいろな種類の石だった。
会場が広くて、最後に行き着いたところが食べ物ばかりのストール、どこも長い行列で、友達が持ってきてくれたサンドイッチとラーガーハーフパイントで満腹,帰宅。疲れ切った。
このところ毎日寒くて暗い、気温は5度くらい、でも零下にならないから雪も降らず氷も張らない。冬が完全に寒くならないと、なめくじやカタツムリが繁殖して困る。
昨年冬も暖冬で、4-7月ころのナメクジの多かったこと。青菜が全部食べられてしまう。それにお花も被害を受ける。
今日は嬉しいことが有った。ショッピングから帰ってきたら玄関に落ちていたメールには、4月から5年間のフリーダムパスが入っていた。これはロンドン市内のバス、電車、地下鉄が無料になるというもの。英国の交通機関の料金はヨーロッパ1高い。
これからまた5年は心配しなくてもロンドン中どこでも行ける。誰に聞いてもこのパスほどありがたいものはないと言う。昨年労働党に変わってから、老人への光熱費の補助がなくなった。それで次はこのフリーダムパスもなくするのかと大変心配していた。
1月25日土曜日、メトロポリタン・オペラのオンライン・ライヴのアイーダが映画館で有った。私の近所の映画館では上映しなくなったが、ロンドン北部の友達の家の近くの映画館ではみせてくれる。それで午後1時ころに電車に乗り、地下鉄2駅で国鉄に乗り換えるところ、駅が閉まっていた。仕方ないからノーザンラインでキングスクロスヘ行きピカデリーラインに乗ったところが反対行きに乗ってしまい、慌てて反対プラットフォームへ、その地下鉄もキングスクロスで、行き止まり、駅員に聞いたら嘘を教えられ、途中の地下鉄駅で問い合わせ、ノーザンラインの終点からバスで行けとのこと。この時点でもう2時間も経っていた。バス停に立って待っていたら友達からの電話で、この数日バスは遠くを回送してくるので、5時の映画の始まりまでには間に合わないと言う。結局あきらめて帰宅したらもう5時過ぎだった。
その時のメトロポリタンのアイーダが素晴らしかったと友達からの報告で、残念、日本の従姉妹にぜひ1ヶ月後の日本での上映に行きなさいと勧めている。日本でもあまりオペラファンはいないのか映画館はほとんど観客が入っていないということで、あまり知られていないせいかもしれないと思う。メトロポリタン・オペラは歌手が揃っている上、舞台装置にお金をかけているから素晴らしい。今までがっかりしたことがない。
先週日曜日の午後からロンドンのオペラハウスで上演されたアイーダを見に行ってきた。
舞台装置も簡素化され、出演者が現代の服装で合唱団は全員軍服姿。まるで北朝鮮を彷彿とさせる舞台で、がっかりした。もう2度と見に来たくない。
ロンドンのソーホはヨーロッパ1の中華街、1月末から中国の新年ということで、もう20年も前から友達の中国系マレーシアとシンガポールの7人に招待され、このソーホーの中華レストランでお昼を食べた。彼女たち一体何が美味しいのかをよく知っていて、全部で10皿大いに食べて満足して帰ってきた。
2階のレストランの窓から見たチャイナタウン。
昨年スヴォルバーからの帰りのこと。ホテルへ迎いに来てくれたバスに乗ったとき、私のバスの横の席にアメリカ人の年寄(多分私よりは若いが、相当な年寄に見えた)が座った。私に 君は日本人か?僕は日本には3回行ったことがある。韓国でも長く滞在していたし、ドイツでも長く働いていた。 と言った。貴方はアメリカの陸軍だったの? そうだとの答え。その年寄の連れは20代のアジア人女性で6ヶ月くらいの赤ちゃんを抱いている。
スヴォルバーから直通便でなかった飛行機は2時間後にトロムソに着いた。オスロへ行く人は手荷物を置いたままで良いとのことで一旦飛行場に降りて2時間後にまた搭乗する。
トロムソで降りたアメリカ人は赤ちゃんのプッシュチェアーを押し、連れの女性は赤ちゃんを抱いて一緒に歩いていた。
あの赤ちゃんはあの爺さんの子どもかしら?と横にいたパトリックに言うと サー判らないなー。
それでつい 貴方と私の間柄って一体なんだろうと知らない周りの人達は思っているかも。とパトリックに言ったら OH NO !! Mather-in-Law(しゅうとめ)
よっぽど嫌だったらしく、空港の待合室でも椅子は3つくらい間を開けて座り、もちろん飛行機は遠く離れた座席で帰ってきた。
今年の夏休みもジュードの学校が娘の働く学校よりも1週間早くなる。それで去年は1週間だけジュードとパトリックの3人でイタリアへ行った。今年もイタリアへ行こうかと話は出ているので、この間ジュードを公園で遊ばせながら、 今度イタリアへ行くときは私、Mother-in-law という名札を付けていこうか。 と言ったら That no bad idea !! だったら僕も I am a father not Grand Pa という名札をつけるよ。
二人で大笑いをした。
ジュードはパトリックの41歳のときの子どもで、おじいさんと遊んでいるの?と聞かれるらしい。ポールも娘が生まれたときは42歳だったので、知らない人はおじいさんだと思ったらしい。
丸2週間もこのブログが開けられなかった反動で、今やっと新年のロンドンの花火祝賀の様子を載せられる。
と言っても2000年祭にはワインボトルを持って夜の11時半、ロンドンブリッジまで繰り出し、ウエストミンスター・ブリッジからタワーブリッジまでの間の3つの橋を含む間のテームズ川の中に浮かべた艀で30分にわたり激しい花火が上がった。
その時のものすごい人混みに揉まれながら、素晴らしい花火の祭典を見て、もうあのように夜出歩くこともない。
今回もテレビに写った12分間だけの花火の祭典をこのブログに映し出してみよう。
有名なビッグベンは今は亡くなられたエリザベス女王の名前を取って、エリザベス・タワーと改名された。その時計が12時を打つと同時に、
テームㇲ河南岸のロンドン・アイ(Eye)から激しい光と音のお祭りが始まった。
画面に出る英語はBBC のスタジオで入れてるものだが、花火の中に今まででは見たことのない新しい試みが見られる。
このロンドン・アイの南岸は昔は下層階級の街でランバース地区と呼ばれたところ。1984年から88年にかけてテームズ川南岸からランバース地区は目覚しい変化を遂げ、このロンドン・アイもその1巻。このロンドン・アイからウエスタミンスタ・ブリッジを挟んだところにある病院はセント・トーマス・ホスピタル(St Thomas Hospital)という。ここは13世紀に創設した歴史ある病院で、今から93年前、ポールが1kgの未熟児で生まれたところ。その当時から未熟児もインキュベーターで育てられていた。
寒い新年の真夜中にこのものすごい人混み。ここはエンバンクメント側。
観客皆がオールド・ラングザイン(メロディは蛍の光)を歌っている。
たったの12分間だけだったけれど、まるでこれでもか、これでもかと言うほど引きも切らず上がった花火で新年を迎えた。
1月15日、いつものポストボックスアートギャラリーでは今年のヘビ歳に対してすごいヘビの編み物展示がされた。
2月の中国の新年のお祝いに、マレーシア中国人の友達が、中華料理で新年を祝うのに招待してくれている。
クリスマス前にこのブログに載せることができなかったので、お正月前に急いで載せることにした。
このモチーフは英国のクリスマスになくてはならぬクリスマス・プディング。干しブドウやあらゆる乾燥果物を小麦粉や黒砂糖、ブラックトリークル(黒飴状)小麦粉で固めて長時間蒸したもので、クリスマスの半年前から作って保存しておくもの。
とっても甘いプディングで、日本人の口には合わないかもしれない。もう50年以上もこの国に住んでいる私はこれが大好きで、必ず1個はスーパーで買って空腹時に少しづつ食べている。
このポストは娘の家から一番近い駅前にあり、あまりそこへ行く機会がなかったのでここにもある!!!と驚いた。
このポストの上のクリスマスのデコレーションは、キリストの生誕と3人のキングがお祝いに駆けつけるところを表しているもの。
たまたまバスに乗っていて、見つけたもので翌日またそこまで行って写真を撮ってきた。誰が作っているものやら知らないけれど、皆さんよく編み込めるといつも感心している。
これまで3回もショッピングトローリーを引いて、ロンドン北の友達の家に行って、重い本をもらってきた。片道1時間半かかって、トローリーには20KG を超える本をもらってきた。
彼女は日本語の本は読まないが、日本人の女性の友達が多く北に住んでいて、もう何人の人たちが帰国していっただろう。その度に日本語の本は捨てられないと彼女のお家で引き取ることになって、私にお声がかかる。
今年春に初めてセント・ジョンズ・ウッドの図書館に日本語の本がたくさんあると聞き、電車と地下鉄を乗り継いで片道1時間かけて行っている。
2月から4月ごろまで毎回14,5冊借りてきては読みふけった。借りた本は早く返さないといけないと強迫観念で、焦って読み返却するとまた借りてしまう。
この友達からの本は読み終わって溜まったものをまとめて図書館へ持っていけば良いから、気持ちも楽。それでも友達の本がどれも読みたいものでもなく今日も10kgほどリュックに担いで持っていった。図書館では先週は日本人女性が働いていたが、今日は英国人中年女性。 ”たくさんの本を持ってきたから、売るなりキープするなりお好きにしてください。” と言ったらとっても喜んで ”貴女は強い人だね。”
昨日も友達のお家から20Kg の本をトローリーに積んでバスと地下鉄、電車と乗り継いで帰ってきた。地下鉄の駅には階段があり引っ張り上げるのが大変。若いインド系の男性が ”ちょっと ” というなりハンドルを持ってさっさと階段を上がってしまい、あの強力にはたまげてしまった。どんなに感謝したことか。
我が家のある駅についた時は4時過ぎ、あたりは暗くなって下車客も多く、トローリーを引いて改札を出た途端、後ろにいた若い男性がトローリーにつまずいて、私に倒れかかり手に持っていたコーヒーを全部私にぶちまけた。私の右半身の服からズボンや下着までコーヒーがかかりトロリーもモダンアートのような有り様。 帰宅するなり全部脱いでコーヒーのシミが残らないよう洗濯した。
最近は地下鉄が混んでいる。私が乗ると必ず誰か立ち上がって席を譲ってくれる。やっぱり相当のおばあちゃんに見えるのだろう。トローリーも重いのを階段を引っ張り上げて登ると、若い女性なども下の方を持って上がってくれるから本当にこの国の若い人たちは親切だ。
さてもらってきた本の中で最近特に感銘した2冊を御紹介したい。どれも古い本だから古本屋さんでもないかもしれない。
1990年発行 大庭みな子著 津田梅子 明治中期7歳でアメリカにわたり11年間アメリカの教育を受けて帰国後、日本女性のために教育に一生を捧げた津田塾大学の創始者のものがたり。日本語もおぼつかない小さな女の子が、両親のもとを離れ外国で11年も住んだことだけでも信じられない。
1979年発行 工藤久代著 ワルシャワ貧乏物語 (ある外国暮らし)この女性はワルシャワ大学の日本語講師として招かれたご主人といっしょにポーランド・ワルシャワで1967-1974年の7年間生活された記録です。当時ポーランドは社会主義国で、あらゆるところが私の英国初期とダブりそれでもよく頑張った人だと感銘しました。私も英国に来たのが1972年で社会主義国家でなかった英国でも日本食品は高く手に入りませんでした。
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今年8月のヘイドリアン・ウオール踏破のブログを編集して、画面左側のカテゴリーの中に ヘイドリアンウオール踏破2024 のタイトルで載せました。
今日はこの旅のハイライト、娘が一番行きたがっていた氷河を見るツアーに参加した。
朝8時15分、ホテルの近くにバスが来て乗せてくれたらもう殆ど満員だった。町外れの港で、カトマランの観光船が待っていた。中は3階に別れていて、どこでも座って良し。船酔いする私と娘はバスに乗る直前に酔い止め薬を飲んだ。
上の地図でご覧になれば判ると思うが、真ん中の下の赤い点が私達の港、ここもフィヨルドの一つでここから左上に向かって船は進む。どこもフィヨルドだから波は静かでほとんど鏡のような水面を進んでいく。
まだ8時半過ぎ、街は夜明けも来ていない。
東の山の向こうに朝日が上るのかやや明るくなってきた。
私が此の島を知ったのは、今から数年前、日本で大学教授をしていたイギリス人の友達が、此の島を訪れすばらしい山の写真を送ってくれた。それで写真を撮りにに行きたいものだと思っていたところで、娘がホリデーに行くという。すべてをおんぶにだっこで一切のプランもせずに付いて行って、此の島が世界の気候変動に要の研究場所であることを知った。
上の地図の左下、ピラミデン(Pyramiden )はロシアの炭鉱町だった。1910年スエーデンがここを開発し1927年ロシアに売却、一時は人口1000人にも上る街として栄え、学校や温室まで有ったという。
日本の炭鉱も1900年末期には閉鎖されたがここでも石炭の価格が下落したことや、飛行機事故などで多くの人命を失ったことで1998年炭鉱閉鎖、此の街はゴーストタウンになった。
ピラミデンの東側に広大な氷河がある。観光フェリーはその近くまで行ったが、もちろん上陸はできない。ここの氷河も一体いつまで残るものやら。科学者たちが大いに研究課題にしているであろう。
氷河近くの海は氷が張って時々大きな氷が流れてくる。今はまだ気温0度だけれどマイナス20℃位になったら此のフィヨルドにフェリーがはいってこれるだろうか?
船の進むに従って壊れた小さな氷が海水の表面の氷の上を滑っていく面白い現象をみた。
船のデッキですばらしい氷河と山々の写真を取りまくり、全身凍りついた。
お昼にパンと温かいスープが供され、寒さにかじんだ手を温めていかに空腹だったことかを知った。ディケンㇲのオリバーのように Can I have More? と言えたらどんなに良かったかと笑いあった。
夕方4時近く港へ帰ってきたら、クルーズシップが停まっていた。パトリックによればクルーズシップが一番環境を破壊する。地球温暖化を促進するという。
此の写真は2007年ノルウエーのブリックスダルの氷河で氷の中が神秘的なブルーだった。そして2013年の夏にも同じ氷河を見に行ったら、氷河は後退して高い崖の上に細々と遭ってものすごくがっかりした。もう今では氷河があるかどうかも判らない。
1月に友達と落合いテートモダーンへ行ったとき、無料の説明(フリートーク)に参加した。私はあまりこのモダンアートというのが苦手で、だからこのトークでの絵の説明には全然感激もしなければ画家の名前を知ろうともしなかった。それでこの漫画のような巨大な絵を写真に写してきたが、画家の名前も知らない。でも絵をひとつづつ見ると現代の悲劇があらゆるところにある。
これはまさしく漫画、この巨大な漫画のどこが美術館に展示されるのか私にはわからない。ただこの絵の背景に当たるグレイが近寄ってみると細かな点点から成っている。友達によれば、モダンアートはそれを初めて描いた人が好いのだそうな。判らん。
これは判る、こんなにも古くからの大小のトランジスターラジオを積み上げてタワーにした・・・こんなことを考える人がやっぱり芸術家なのだろう。
20世紀初めのロシア女流画家の作品という。
此のテートモダーンのターバインホールの後ろに2016年に完成したスイッチハウスのビューイングフロアーからロンドンブリッジ方面をみたもの。後ろの高い三角形のビルがロンドンで一番高い337メータ―のシャード、起重機の後ろに集まっているビル群はドックランド。
2000年以降急激に建てられた高層建築物はシティの周辺。
セントポール寺院の横からテームズ川にかけられたミレニアムブリッジは2000年開通と同時に橋の横揺れがひどく一日で閉鎖して再開したのは2001年。設計ミスだったらしい。それ以来ワブリーブリッジとあだ名で呼ばれている。
上はブラックフライアーの鉄道ブリッジで
中は長いプラットフォームになっている。
プラットフォームの窓から見たシティとドックランド、遠くにタワーブリッジが見えますか?
2週間ほど前、友達に誘われて大英博物館で特別展のBurma to Myanmar(ビルマからミャンマーへ)展へ行ってきた。
今までの特別展の中ではこじんまりとした展示会で1時間半ほどで見終わった。
1907年当時は英国の植民地であったこの国で英国統治者の総督あての手紙がこの巨大な貝に書かれている。民衆の総意で、清水、交通機関の改良、バイリンガルの学校設立、病院 などの要請がかかれてある。
19世紀半ば中国人によって掘り出され、作られた大きなジェイドの容器。
インド、タイ、中国に囲まれたこの国は紀元700年から1100年にかけインドから伝わった仏教が広まった。
貝殻で作られた仏典、これが文字であるとは思えない。素晴らしい芸術作品見たい。
ビルマ王室で使われた壁掛けで、オリジナルはインドのストーリー(ラマヤマ)が東南アジアに伝わり、それを演じたタイの舞踏団を刺繍した華麗な壁掛け。インドネシアの影絵を思わせる。
鰐の楽器はミャンマーの南部に住むモン民族が隣接するタイ文化の影響を受け作られた弦楽器。
19世紀末、ブリティシュ、シャン民族、中国人により作られたシャン地図。当時ミャンマーはシャン民族、ナムマオ(ビルマ)民族、ナムカム、セラン,モングマオなどの民族が住んでいた。
織物は当時シャン民族の主産業で縦じまの織物は北部タイ、南西中国、ラオスなど一般的に作られた。
カッチン族のバッグで主に1800年末、英国―インドの軍隊にカッチン族軍人募集に使用された。
シルバー、ビーズ、ポンポン、リボンなどで飾られたバッグで実用向きではない。
英国とミャンマーは19世紀3回にわたり戦争をし(The Anglo-Burmese Wars)200点ものを戦利品として英国海軍が奪った。その中の一つがこの大きな仏像、大きな手が異様に思える。
この展示会では最高の出来栄えと思える象牙の椅子。ミャンマーの最後の王Thibou(1878-85)の椅子。
1830年―1900年の手工芸品(テキスタイル)は自然染色と草の実で装飾されている。
此の写真でははっきりと見えないが The Japanese Government とプリントしてあるお札は1942年から1945年日本軍がこの国を占領しこのようなお札を発行、経済を牛耳っていた。
ちょうど1週間前の月曜日、ヨガから帰ってきてすぐブランチを食べて、12時の電車でロンドンブリッジへ、15分で着いた。
そこから地下鉄ジュブリーラインに乗り換えて20分、セント・ジョン・ウッド(ST John Wood)の駅に着いた。
ここには大きな図書館に日本語の本がたくさんあるという。
今まで一度もこんな図書館があると聞いたこともなかった。それで日本語の本に飢えていた私、昨年冬には日本語の翻訳本4冊をインターネットで買い、それを金沢の兄嫁のお家へ送ってもらった。
これらの本はスエーデンのミステリーでインターネットで直接英国へ送ってもらうと送料が本自体の何倍かになる。兄嫁にお願いして船便で送ってもらいクリスマスの時期1週間で読み終わった。
一回読むとこれらの本はほとんど忘れる頃まで見たくないものだ。
此のフォックス(The Fox)は日本語の本ではないが、昔からとっても好きな作家フレドリック・フォーサイスの本で、2018年出版という。
2019年8月のポールの誕生日に、パトリックの友達が誕生祝にプレゼントしてくれたもの。結局ポールは目も通さないうちに亡くなり、活字に飢えていた私がちょっと見た時からのめりこんだ。最近こんなに面白い本はないと思った。
引きこもりの18歳のコンピューターお宅が世界中の政府の機密コンピューターに入っているのを知った英国MI5 が彼を使って画策するストーリー。英国読者をいい気分にさせるような本だった。最後は北朝鮮のコンピューターにまで潜り込むのだから。
セント・ジョンズ・ウッド・ライブラリーは地下鉄駅から1ブロック行った繁華街の真ん中に位置するまるでそこらの古本屋という感じ。地下への階段を降りたすぐ真向かいに日本語の本がズラーと並んでいて、これらの本全部読みたいと思った。
ここにあるのは日本人の派遣社員が帰国時に置いて行った本が主らしいが、古本もずいぶんたくさん並んでいた。
図書館を運営していたのが2人のインド人のおじさんで、たぶん日本人のアシスタントがいなくなって本の整理ができないのだろう。私が持って行った日本語の本は全部外の本棚において売るのだそうな。
この日は10冊借りた。上の5冊はこの1週間で読み終わった。どれも面白かったが、乃南アサさんの本はあまりに日本的、社会の底辺をうごめく人々や、不平不満の家庭の主婦のストーリーなどで嫌になり、最後のアルジャーノンに花束をが一番面白く考えさせられた。
上の5冊はこれから2週間で読もう。返本は3週間だそうだがインターネットで7回まで延期することができるという。とにかくこれで当分本に飢えることもなく、毎日充実した日を過ごせそう。当分毎日の新聞を読む時間が無くなった。
孫ジュードの学校は私立なので、公立の学校より2週間も早く夏休みがはじまり、公立の学校で働く娘は最初の2週間を私にあづけてくれた。
それでかねてより行きたいと思っていた、RAF博物館、ここはロンドンの北にあり、国鉄、地下鉄、バスを乗り継いで1時間半近くかかる。
この日は前日雨ふりで水たまりができていたが、一応太陽も出て寒くはなかった。(7月中の英国の天気は雨の日が半分以上、気温は25℃以下、朝夕は15℃から20℃)
この博物館には食堂もあるが、一応飲み物とサンドイッチなども持って出かけた。以前ポールが元気な時2度ほど行って、飛行機大好きのポールは一日中ここで楽しんだものだ。
この博物館はロンドン郊外、広大な土地に巨大な建物5ー6が建ち並んでいて、入場無料。入ると施設の管理永続のため寄付を5ポンド頼まれる。(最近のロンドン博物館ではどこも5ポンドの寄付を募っている。)
本物のレスキューヘリコプター、最初の建物の中にはRAF のトラックや、コンピューターがズラーと並んでいて、コンピューターにはたくさんの人だかり。
ジュードもコンピューターを触りたかっただろうが、いつまで待っても順番が来ないからあきらめて次の建物へ。
巨大な飛行機が所狭しと並んでいて、上から釣り下がっていたり、入って一目見るなりわーと叫んで大喜び。😃😁😄
小さい子供からの目線ではこれらの飛行機やヘリコプターはいったいどんな風に映るのだろうか、一時もじっと見ることなく次々と走り回っていた。
戦時中の有名なパイロットの実物大の像。
やっぱりジュードでは興味の対象が違う様子。
屋外の子供たちの遊び場、ジュードはここで一番時間を費やしてすべての模型の飛行機や建物の上に登って遊んでいた。
もう一棟の第一次世界大戦時のプロペラ機がたくさん展示されているところで、ガラスケースに飾られた、ハンドガンやピストルに異常に興味を示し、この日の博物館で一番興味があったのが、本物のガンを見られたことだそう・・・・・本当にがっかりした。😣😥
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過去のキャンプ旅行のブログを編集して、出発から帰国まで見やすいようにしています。
今回は キャンプ旅行2011-2012 (フランス、アンドラ、スペイン、ポルトガル)
画面の左側のカテゴリーの中から選んでクリックしてください。
グラストンベリー・ミュージック・フェスティバルがひらかれている。
英国サマーセット州の農場で、1970年農場経営のマイケルイーヴィスが始めたもので、当時の参加者1500人、入場料が1ポンドだった。
昨年6月2年間のコービットの閉鎖から初めての参加者210,000人入場料280ポンドだったそうだ。
今年6月21-25日の入場料335ポンドプラス予約金5ポンド。毎日BBC で宣伝しまくっている。
私は今までこのポップミュージックには興味もなくて一度もこのブログにも書いていない。
ところが今年このフェスティバルを書こうと思ったのは・・・・・・・
娘婿のパトリックの親友に英国航空のパイロットO 君がいる。彼は毎年このフェスティバルにチャリティワーカーとして行っている。今年4月頃から我が家の前庭に鎮座しているキャンパーを何度か治しに来た。
さすがパイロットともなればメカに強く、3年間一度も動かなかった車をエンジンがかかるまでに治し、あとは専門のメカニックが来て一日中手入れしていたが、5月パトリックは車検に持って行って完全に治った。
それでかのO君は今年のフェスティバルではこのキャンパーに寝泊まりして、会場整理やアドミンの仕事をするそう。テントは暑くて眠れないので我がキャンパーは彼にとっては一番の楽しみ。ここでのチャリティは OXFAM, GreenPeace, Waterade の3つにしぼられていて、彼の報酬は直接Oxfam へ送られるそうだ。
新聞でも毎日このフェスティバルのことが載っていて、若い新婚のドクター2人がここでWaterade のチャリティーのためにトイレ掃除をするのだと。
先週金曜日、ロスアンジェルスからヒースローに着いてすぐ、我が家まで自家用車で来たO君はキャンパー内のオリエンテーション後大喜びで運転して自宅へかえっていった。
翌日キャンパーは快調だったとメールが来た。
明日までの5日間雨が降らないよう神様、雷様、お願い。30万人もの若者たちは此の農場でテントを張って毎日の音楽祭に臨む。何年か前のニュースでは泥にまみれた若者たちが映っていた。
先週日本の誰かのブログで菩提樹に花が咲いたとの記事があった。その花がこちらではよく似た花を見ることがあって、調べてみたら英国の街路樹にあるライムの木だった。それでライムを日本語で見ると西洋菩提樹と出た。リンデンバルムはドイツ語なのです。
今が真っ盛りの菩提樹の花、木の下へ行くと甘い香りがする。
昨年駅へ行く途中のフラットの道端できれいな葵の花が咲いていた。この花上2枚のうち下の銭葵より花は大きく色も鮮やかだが、タチアオイより花も小さく木も1メーターにならない。今年も種をしっかりとって来年はもっとたくさん植えてみよう。
昔から持っているサボテンに花が咲きだした。上の黄色の花は三日ほど持つが、ピンクのは朝開いて夕方にはしぼんでしまい、がっかり。
もう30年ほど前、お隣の奥さんからもらった種で増えたニゲラ、英語では霞の中の悪魔 その名の通り増えて増えてどんなに抜いてもあちこちに生えて花が咲いている。初めは一重の花だったのにいつの間にか八重の花弁もある。
ポルトガルの3日目、この日も真っ青な空、暑い日だった。
タヴィラでは毎月第3土曜日に広場で青空市が開かれる。友達のTさんとカバナスからタヴィラまで歩いて行った。このマーケットではあらゆる生活用品や衣服、食品、植木、ポルトガルの土産品、鳥やウサギまで売っている。
私は大きなオレンジ5kgを5ユーロで買って、リュックに背負い、二人で昼食に安いトスターダ(ハムとチーズのサンドをトーストしたもの)を公園で食べて電車で帰ってきた。
前の日に魚市場で買ったカツオ1匹をこの夕食に食べて、シャワーに入ってもうすることがない。
夜9時あたりは暗くなっていたが、夕日が沈んでも27,8度はあった。あまりの暑さに二人で散歩に出かけた。
キャンプサイトから一番近いこの教会は、過去数年一度も開いていたことがない。
この土曜日の夜初めて開いていたので、中を覗いてみた。すると合唱団が歌っているではないか。教会の入り口でほんのちょっと覗いたところ、後ろからスマートな服を着たおじさんに背中を押されて、中に押し込まれた。私たちお金もカメラも持っていなくて、入ってもお金も払えない。
このおじさんはそこに座りなさいと手招きし、私たち黙って最後列のベンチに座って聞いていた。
初めのコーラスグループは中高年の女性が多く、20人以上いたと思う、男性は数人、ポルトガル語の歌で聞いたこともない曲ばかりだった。
第2のグループは少人数で男性がおおく、ハーモニーがすばらしかった。 このグループはユニークでプログラムを見ると、黒人霊歌や、中世の歌、アフリカのズルの歌まで歌っていた。
そして第3のグループは指揮者が前でエレクトーンを弾いている。彼らが歌った2曲目、あれ!これは日本の曲みたい? と二人で話し、プログラムを見たら、akai hana とローマ字で書いてあり、cancao Tradicional Japonesa (伝統的な日本のうた)と書いてあった。後ろに立っていたあのおじさん(彼は第2のコーラスグループで歌っていたからスマートな合唱団の制服を着ていた)が ほら日本の歌だよとささやいた。
こんなポルトガルの片田舎で日本の歌を日本語で歌っているーーどんなに驚き感激したか!!!
あと数曲歌い終わったとき、私はあのおじさんに 赤い花・アンコール と頼んだ。
彼は主催者に頼みに行き、司会の女性が長々とポルトガル語であいさつしていたら、皆が私たちのほうを振り向いた。それで日本人がいると話していたのが分かった。
私たちの近くに若い女性がスマホで合唱団の写真を撮っていたので、その写真をイーメールで送ってほしいとメールアドレスを交換した。
そして合唱団が私のリクエストに応えてもう一度 赤い花 摘んで、あの人にあげよ と日本語で歌ってくれた。涙が出そうなほどうれしかった。
終わったらもう11時。合唱団の人たちにお礼を言おうと立っていくと、彼女たちもリクエストされて嬉しかったらしく、私を取り囲んで写真を撮ろうという。
シャワーを出て化粧もしてなくて、とっても写真に写されるほどの顔でもないと早々に断って帰ってきた。この夜は二人とも興奮して遅くまでおしゃべりしていた。
3日後、イーメールを交換したあの若い女性Brunaから写真2枚とヴィデオが送られてきた。この中の2枚は彼女の写真で、ヴィデオだけがどうしてもこのブログに載せられない。彼らが日本語で歌っているのを聞いてほしかったのに残念。
英国では子供が小さいころから、Thank you (ありがとう)とPlease (どうぞとかお願いの意味)という言葉を厳しくしつけられる。
私がここ英国へ来た51年前(1972年)に落ち着いたポールの家で、初めに教え込まれたのがこの2つの言葉だった。たとえばお茶はいかが?と言われたら Yes Please だし要らなければ No Thank you という具合。だからポールも死が迫ってきた1週間くらい前まで、体をふいたりお水や食べ物を上げたるすると必ず Thank you の言葉が返ってきた。
その2つの言葉のエピソードが忘れられない。
ショッピングカートを引っ張ってマーケットへ買い出しに行く途中、若い男性が歩道の端に座り込んで車の修理をしていた。この歩道は幅1メーターくらいで狭く彼の後ろをサーと通り過ぎたとたんに Thank you will be nice. (ありがとうの一言がいいのに)と言われてしまった。思わず Thank you と言って歩いたが、どうして歩道でお礼を言わなきゃならないのだ?と思った。彼は自分の道路だと思ったものか?それ以来この歩道を通るたびに、その男性の言葉を思い出す。
ルーシャムの青空マーケットは多国籍人種のるつぼのような所で、売っている品物も西インド諸島のタロイモや、イタリアからのキーウイ、トルコからのシシトウ、スペインのトマト、南米からのパイナップルなどが安く売られている。
私はなるべくビニール袋を使わないよう、昔から手作りの買い物袋をたくさん持って行って、必ずこの袋に入れて頂戴と布袋を出して入れてもらう。たいていの年取った女性の売り子はそれだけで Thank youと言ってくれるが、この日果物を買って この袋に入れて と言ったところ Please !! と言われてしまった。確かに Please put it in this bag なんだけど、忘れてしまうんですよ。生意気に若い娘からPlease を言えと強制され、ムカッときたがそれなら相手も Thank you くらいは言えよ。
孫のジュードはもうすぐ8歳になる小学校3年生、時々親の都合で、迎えに行くのが無理でそのたびに必ずお呼びがかかってくる。こちらでは11歳になるまで子供は一人で通学させない。特にジュードは家から離れた私立の学校だからバスか電車と徒歩で迎えに行くしかない。普段は彼の両親が自家用車で送り迎え、こんな規則だから朝夕の学校の送り迎えに車が大混雑している。
先日も迎えに行ったら、学校の玄関から私を見つけて走ってきて、抱きついて、Thank you Nana, Come to pick me up. なんて行儀のよい男の子に育ったことかと嬉しくなった。