Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

クリスマス・デコレーション と New Year

2020-12-30 07:55:56 | ロンドン周辺

英国の一般家庭のクリスマス・デコレーションは商業ベースでなく、庭のある人は庭木に電飾を飾り立て、窓や屋根にまであらゆるところを色とりどりに光輝かせている。

これらのデコレーションは11月初めごろから準備を始め、12月初めにはほとんど準備完了。クリスマスツリーは各自のリビングルームに飾られるが、庭木を利用して華々しく飾り立てるところもある。

クリスマスカードは12月初めから送付され、リビングルームの壁や暖炉の上などに飾られる。これらすべてのデコレーションは1月7日まで毎晩ピカピカやっているが、7日以降は完全に取り払われる。

 

 

 

 

これらの写真はクリスマスの2日前、インターネットで見つけた、クリスマスデコレーションを頼りに雨の中を見物に行ったもの。昨年1か所の袋小路の通りが全部の家を華々しく飾り立て、見物に来る人達にチャリティに上げる寄付を募った。昨年はもっと素晴らしかったということだが、このチャリティ募金を心無い人に盗まれてしまって、今年はインターネットで募金を募っているそうだ。

英国には1974年まではお正月を祝う風習がなかった。スコットランドは昔から新年を祝い、1月1日の12時きっかりに人々は腕を組んで Auld Lang Syne(蛍の光)を歌って新年を迎える。この蛍の光はスコットランド人のロバート・バーンによって作詞され、過行く年や毎年夏の2か月にわたるクラッシックコンサートのプロムスの最終日にも歌われる。

私が英国へ来た1972年にはまだ新年は祝日でなく1973年の1月1日は一般の人たちは出勤していた。お正月を祝わないこの土地で寂しい思いをしたことが思い出される。

私がまだ退職前だった1990年代、毎年31日の夜には日本人の友達を沢山呼んで新年パーティをやった。テレビでビックベンの12時の鐘の音と同時に皆でシャンペンでお祝いし、かるたやトランプで遊び興じたものだった。

1月1日が週日だと2日からは出勤するので、この週末の様に1月1日が金曜日で初めで3が日が休みになる。

今年2020年の1月1日はポルトガルのタビラでお正月を迎えた。娘夫婦がクリスマス前からポルトガルへやってきて、大きなお屋敷を借りていたので、タビラで知り合った日本人男性とオランダ人夫妻を招待してお正月のパーティーをやった。天ぷらとお寿司で楽しんだのに早いもので1年経って、元気だったポールもいない。

クリスマスイブからボクシングディと呼ばれる26日まで娘宅で過ごして上げ膳据え膳、露天風呂にも入ってクリスマスの朝には日本やスエーデンの友達に風呂の中からフェースタイムで驚かせた。

年末31日から3日まで娘宅でのんびりする。おせち料理は出ないが、ベジタリアンの娘の精進料理を食べることななるだろう。

この1年たくさんの方たちに私のつたないブログを見ていただき、応援してくださった方たちも、ありがとうございました。今年はコロナとポールの死で最悪の2020年でした。

新年こそコロナ難にもめげず、良い年になりますよう。皆様の健康とご多幸を祈っています。

Hope You have a very Happy New Year !!!

 

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1972年

2020-12-21 02:12:19 | 思い出

私が英国へたどり着いたのがこの年、1972年、京都の日赤病院で看護婦として7年働いた28歳。

早い人なら結婚して子供もいる人も多いに違いない。今考えてみるとなんて何も知らない無鉄砲な28歳だっただろう。英語もほとんどできないそして聞いても判らないこの私が訪英2週間後の6月1日英国一周のヒッチハイクに出掛けた。

初日はカンタベリーのユースホステルまで何人かの車の運転手に載せてもらってたどり着いた。何にも知らないというのは恐ろしいもの知らず、英国の気候がこんなに日本と違っていることを知らなかった。初めの予定では英国3か月でヨーロッパを一回りして南太平洋・ニューカレドニアへ行く計画だった。だからイギリスからヨーロッパは真夏の気候と思って持ってきた服も、夏の薄手の服ばかり。

この年5月、6月は雨が多く寒さが身に沁みる。小さなリュックに半そで着替えと薄いストッキング、そしてサンダル履き。初日のユースホステルで日本から持ってきたきれいで薄手のレインコートを盗まれてしまった。若い女性ばかりが一部屋でバンクベッドが並んでいたが、若い女性が人のものを盗むなんて夢にも思っていなかった。

翌日まずはレインコートを買い、親切な運転手何人かに拾われてコーンウォールのいり口付近のプリマスのユースホステルへ着いた。ここのユースで出会ったのが、カナダ人の若い男性(当時21歳)のBM君、彼も一人旅でのヒッチハイク、すぐ意気投合して翌朝から一緒に旅をすることにした。

カナダはバンクーバーの大学生のBM君 ホテル・マネージメントを学んでいる。今までヨーロッパやアメリカなどヒッチハイクで廻ったが、日本並びにアジアへは行ったことがないという。

二人で車を待っている道端では、彼は私のノートに英語のフレーズを書いてくれそれを暗記し発音なども教えてもらった。彼にはひらかなを教えた。ユースホステルでは日中にスーパーで買ったお米と野菜や肉で焼き飯を作ってBM君からは大いに喜ばれた。

この1972年は日本はオリンピックが終わって8年目、団塊の世代が20代の働き盛り、日本の経済が目覚ましく上昇気流に乗っていた時期だった。そんな時代に来た英国は経済が停滞していた時期で、カラーテレビなど無く、白黒テレビをレンタルしていた家庭が多かった。

有る時、BM君に私の実家にはカラーテレビが2台もあるのよ。1台はリビングルーム、もう1台はダイニングルームと自慢したところ、君たちは食事しながらテレビを見るの?僕たちはダイニングルームではクラッシックミュージックを聞きながら食事をする。と言われてとっても恥ずかしい思いをしてしまった。彼のカナダの家族は夏休みはメキシコへ行ったりアメリカへ行ったりする、ロンドンにお祖母さんが住んでいるから家族みんなで英国へも来る。との話。

日本が経済発展途上に有ったこの時期、夏休みの何週間を海外で過ごせる家族がいったい何組いただろうか?そう思ってみると、彼は育ちの良い礼儀正しいお金持ちの坊ちゃんだった。

6月21日が彼の22歳の誕生日、誕生日の朝食にも焼き飯をリクエストされたとこの時の日記には書いてある。金持ちの坊ちゃんでもこの旅行のために働いてお金をためて出てきたという。私もこれから先1年もヨーロッパや南太平洋を回るため、貧乏旅行をするしかない。

こうしてコーンウォールからウエールズを回ってチェスター、オックスフォードからロンドンへ出て、2週間でブライトンへ帰ったが、その1週間後またBM君とロンドンで落合いスコットランドへ向かった。もう英国の寒さには辟易した私はBM君からスペアーのセーターを貸してもらって、靴とズボンを買って出かけた。

それでもこの年は特別寒かったのかもしれぬ。親切な英国人は車に乗せてもらうと必ず 英国は好きか?と聞く。 英国は素晴らしいがこの寒さだけはたまらないと毎回答えた。 すると返事も全く同じで 今年は特に雨が多くて寒いんだよ。と異口同音。

スコットランドも2週間アバディーンからクィーンの別荘地バルモラル城を訪れ、エジンバラも見て回っていろいろ楽しい経験を積んだ。

BM君とは一度もけんかすることもなく、お互い教えあっての旅だったから、おかげでブライトンへ帰った時は英語がだいぶましに話せるようになった。BM君はその後カナダの家族がロンドンへやってきて一家全部でロシアへ旅行に出かけるとのこと。それで一月に1回は文通の約束をして別れた。

その翌年1973年3月に私はポールと結婚し、娘が12月に生まれた。1974年BM君は日本へ行き、北海道から九州までヒッチハイクで廻った。日本は素晴らしいところだと長文の手紙が来た。

その頃は私の子育ての真っ最中、日本の両親に書くのさえ大変な頃、英語で手紙など書けなくて、とうとう返事を出さなかった。

それで私たちの文通は終わってしまった。

今年11月、ちょっとしたきっかけから娘に、 フェイスブックで人探しができるかしら? と聞いたところ、探してみると言って BMと言う名前は非常にありふれていてどこにでもあるが、バンクーバーでホテル業のBMはただ一人と言う。そしてフェースブックからその人にコンタクトしたところ、3週間後に返事が来た。

同時に私のフェイスブックにBMは友達ですかと載ってきたから写真をクリックしてびっくり仰天・・・・48年の年月は彼を白髪のおじいさんに変えてしまった。それに彼は若い男性と一緒の写真が多い。なんと彼はゲイだった。

あまりのショックでその夜は眠れなかった。私もメールだけは送ったが写真は送っていない。

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クリスマス前のこの頃

2020-12-13 22:38:41 | ロンドン周辺

先日、娘宅へジャクジーに入ろうと歩いていくことにした。彼女の家までは車で10分、雨降りや暗い時には車を運転して出かけるほどの勇気がない。

それで小雨の中歩いて30分のところ、電車もバスもあるけれど、ロックダウンの時期、決して乗ってはいけないと娘から厳命されている。

サッカーグラウンドの横の歩道を歩いていたら、対向車側に小型トラックが止まった。この車は街路樹を剪定して回る、カウンシルの車で、その上にヤドリギ(英国ではミッスルトーと呼ぶ)がのっていた。

ちょうど止まった車の横の巨大な街路樹にもこのヤドリギが大きく丸く下がっている。ヤドリギは今の時期白い実がなり小鳥たちの冬の食べ物の一つだが、中の種の周りは粘着性で鳥が木の上でフンを落とすとその枝にくっ付いて芽を出し木の養分を吸って大きくなる。

さてこのヤドリギ、英国ではクリスマス時期だけ花屋さんや、マーケットで売られている。英国の伝統ではクリスマス、ミッスルトーの下で出会った人たちはキスを交わす。

 

トラックの若者に、そのミッスルトーをください。と頼んだら、気やすくOK と言ってその枝を持ち上げ、彼は唇を突き出してキスの真似をした。

大笑いをしてもらってきたが、こんな英国のユーモアが大好き。

娘の家の天井にはものを下げるところがどこにもなく、玄関の花かごを下げるところにミッスルトーは下げられた。今年はコロナ難、誰もわざわざミッスルトーの下でキスどころじゃない。近よりもできないんだから。

 

今年初めて作ってみたクリスマスの花輪(Wreath リースと呼ぶ。)わが家の庭のイチジクが細い新芽を伸ばし、細い枝を剪定した。この枝がしなってよく曲がるので集めて輪にし娘宅の庭の月桂樹の枝と赤い実のなっているヒイラギで作った。

娘婿のパトリックは 大変そうだから買ったらいいのに と言うがこうして作っている時が楽しいし、自作なら満足感も十分。

 

娘宅の裏庭のジャクジーは直径1メータ50センチ、温度設定40度で、日本の岩風呂に入っているようで、雨が降ってるときなど野球帽をかぶっている。

 

この間など入っている真上をサギ(グレイヘロン)が2回も旋回していった。

2年前にポルトガルで買って娘にプレゼントしたレモンの木も大きくなり、今まさに花があちこち咲いている。昨年もたくさん花がついたのに変な毛虫が繁殖して,実がなったのは2個だけ、それなのに最近まで庭に置いてあったので強風でなぎ倒されて結局、収穫ならずで終わった。今度こそと期待している。

 

まだ5歳半の孫のため、娘が作ったトリック。パトリックが日本人のお客さんからいただいたお土産を持ってきた。日本のデパートの缶入りクッキー、缶詰を高く積んでその上にクリスマスの小人(エルフ)が上ってクッキーを盗もうとしているところ。

エルフとサンタクロースは相談してクリスマスに来るのだからエルフに触ったらだめよ。孫のジュードはエルフ用にクッキーを余分にとって我慢できずに食べてしまった。

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コロナワクチン開始

2020-12-10 05:55:31 | ロンドン周辺

昨日12月8日に世界初のコロナワクチンの接種が始まった。90歳のマーガレット・キーナン婦人が世界初ということで昨夜のテレビでは世界中のテレビ局のニュースのトップを飾った。彼女は早朝6時31分に接種されたもので、この時ITV の早朝プログラムで、スタジオで見ていた健康大臣のマット・ハンコックは感涙にむせんだ。

このワクチンは3週間後にももう一度接種しなければいけないそうで、今後は80歳以上の老人と、医療関係者、老人ホームでもケアワーカーがまず最初に接種される。

新聞の投書欄では、年寄りは後回しにして、経済を立て直すために健康な働いている人たちを優先すべきだとか、サンタクロースをまず最初にするべきだなどとふざけたのもある。ボリス・ジョンソン首相はもうかかって免疫ができているからいいが、国会議員全員に接種して安全性を確かめるべきとの声もある。首相の父親スタンリー・ジョンソン80歳はもちろん自分の番が来たらすぐしてもらうと、確約しているそうな。

その次が75歳以上の老人と言うことで、私など来年1-2月に接種されることになればラッキーだろう。

ところがワクチンが世間一般に普遍される前に、最近の感染者が急増している。先週の土曜日、ロンドンのロックダウンが終わったところで、ロンドン市内の繁華街オックスフォード・ストリートやリージェントストリートはマスクもしない買い物客であふれた。がちなみに今日1日の感染者は1万6500人、死者も1日533人、死者のトータルが6万2566人、全く自慢にならない死者数ヨーロッパ1を誇る?ことになった。

この人たちが感染して自宅に帰り一人の人が3人づつに移したらどうなることか?今年のクリスマスは政府も仕方がない、クリスマスをキャンセルすることはできないと、家族が集まることを許したが、クリスマス後の感染者急増が今から危ぶまれている。

来春4月のイースターの時にポールの遺灰をポルトガルの山へ撒きに行きたいと願っているのに、いったいどうなることか予定がつかない。

クリスマス前にポルトガルまでの飛行機の予約をすればイースター前の予約とは半額以下になるらしいが、何しろコロナの蔓延いつ収まるのか先が見えない。

昨日のメトロ紙に載っていたクリスマスのジョークで一般投書の中から1位になったのが、やっぱりドミニック・カミング(首相のアドバイザーだった人で、ロックダウンの最中のコロナ感染中に英国北の自宅へ戻り大いに批判されたものの、首相は首にできなかった。)の話題が一番。そのジョーク・・・・ドミニックカミングの一番好きなクリスマスソングは何か?Driving home for Christmas.。

そして11位に入ったジョーク・・・ドミニックカミングはどのようにモノポリーで遊ぶか? 答え・・・ルールは無視し、好きなところへ行き、決してジェイル(牢獄)だけは行かない。  これには思わず噴き出した。

 

 

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我が家の近辺の変わりよう。

2020-12-07 07:57:26 | ロンドン周辺

私達がこのロンドンの郊外に当たる地に引っ越してきて28年、ずいぶん変わった。駅まで歩いて7分の道は両脇がスポーツグラウンドで、駅の前は工場地帯だった。

この小工場では英国で一番有名銘柄の染色剤がつくられていて、もう10年ほど前までは工場も稼働していた。それがいつの間にか、工場閉鎖、周りが、塀に覆われて、5年ほど前に中庭を配した4棟の巨大なアパートが建ち、その名も染色会社の名前をとってダイロン(Dylon)何とか?と名付けられた。

ところが今度はその高層アパートの横に去年からもっと巨大なアパートが建築中にある。

 

上の2枚は夜明けの建築中のアパートで、わが家のベッドルームから見えるもの。一晩中高い2基の起重機の先端に赤い光がともっていて、ヘリコプターへ危険を知らせるためだそうだ。

 

駅までのメインロードわきには通勤者の車がズラーと駐車している。ここの駐車場だけが無料だから、遠くの通勤者もここまで車できて、駐車後電車でロンドン市内へ仕事に行く。

 

 

毎朝無料の新聞を駅まで取りに行くのにこの建築群を見ながら通るため、建築中の進行状況がよくわかる。

これが完成した暁にはいったいどれほど多くの人口がふえるのだろうか? 

そしてわが家の裏庭に面したスポーツグラウンドやメインロードを挟んだ両側の広大なスポーツグラウンドは1990年代までは英国大手銀行のスポーツグラウンドだった。

それが2000年に入ると次々銀行が手放し初め、確かミドランド銀行のグラウンドはクリケットグラウンドに変わってしまった。

私が日系会社で働いて居た頃、会社のラグビー部員がこのグラウンドでトレーニングしていたこともあった。

そしてこの広大なサッカートレーニング場は昨年英国プロサッカーチーム・クリスタルパレスに買われ、大変革を遂げた。

この夏中巨大な土木機械が入って掘ったり埋めたり、まだ上の写真の場所は昔の儘のサッカーグラウンドそのまま。

 

11月上旬から毎朝若いサッカー選手が空色のユニフォームで集まってくるようになった。

 

真新しいトレーニング場が使用可になり、プロの選手達がトレーニングに励んでいる。

 

 

毎週土曜日朝はここで子供たちがサッカーのトレーニングをするため子供たちの親が壁一面に張り付いて、我が子の練習風景を見守っているが、上の2枚の写真はプロの選手を見るためのファンに違いない。

土曜日夕方4時過ぎ黄昏時、寒さにもめげず熱心に見守るファンたちは、物音一つも立てず、会話もせず静かに見ている不思議な雰囲気だ。

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