Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

2004年 キャンパー旅行記

2009-08-31 23:35:25 | キャンパー旅行記 2004

私のコンピューターのお師匠さんにせつかれてまたこの旅日記を書くことになった。2004年9月から3ヶ月フランス、スペイン、ポルトガルをキャンピングカーでめぐり歩いた。これ以来ジプシー生活を満喫している。

私は2004年4月の誕生日に17年勤めた日系の会社を定年退職した。その翌日このキャンピングカーを購入したもので私たちの第二の家だと思っている。

退職の半年ほど前からキャンパーを探してイギリス南部のキャンピング・キャラバンショーは全部覗いていたものだが、実際買ったのはケント州の奥地のキャンピング・キャラバン業者だった。
予算をはるかにオーバーしていたにもかかわらず私も亭主も一目で気に入り、無理をしてでも手に入れたかったものだ。これぞ一目ぼれというものだろう。

家や車の購入には一目ぼれが大いに作用するというのが私の持論だが・・・・

2004年の旅の写真はディスクに、毎日の日記のほかに旅日記も書いていたのが見つかりこれからしばらく書き続けたいと思う。

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2004年9月20日 St Quentin

2009-08-30 06:01:20 | キャンパー旅行記 2004

昨夜12時半にカレー(フランスの港)に着いた。本来は今朝早朝にフランスに着くはずだったが、夜ドーバーの港でキャンプするつもりで行ったら今夜のフェリーで行けといわれてしまった。10時のフェリーに乗ったから夜中についてしまった。ここフランスの入国管理局は誰も居なくて私のパスポートを見る人も居ない。
港からすいすい出たらすぐ高速道路に乗ってしまった。いったん高速道路を降りてヘッドライトの光を屈折するプラスチックをヘッドライトに貼った。此れが無いと夜すぐつかまって罰金だそうな。左右のハンドル違いからこうなる。

夜道の高速道路を南にひたすら走る。10Kmごとに休憩所があり初めの休憩所は真っ暗な中に大型トラックがいっぱい停まっているのが見えた。こんなところがガスアタックが多いんだと亭主は言う。
今夜はArrasまで行こうと時速40マイルで走っているが追い越してゆく車は数えるほどしかない。
ガソリンスタンドのある明るい休憩所に着いたのが夜中の2時、キャンパー1台とトラックがたくさん停まっていた。亭主はガスアタックを心配し今夜は寝ないで座っていると言っていたがガス警報機(出発前に100ポンドで取り付けた。)を ON にしてとうとう寝てしまった。
朝の風は寒くコートを持ってこなかったのが悔やまれる。風は近くの肥やしの匂いがするが、ガレージのトイレはきれいだし、お店は素晴らしいし、ATMでお金が下ろせた。
このような休憩所は只で休め,眠れるので長距離ドライバーには最適だと思う。高速道路に入って24時間以内に出れば料金は距離のみ、それ以上の時間をかけると2倍になるという。

お昼にはSt Quentin のキャンプサイトに着いた。天気はいいものの風が冷たく、近くの運河の畔を散歩するも身を切るような寒さだった。運河の向うの湿地帯にはいたるところにベンチがあり、夏の天気の良い日には家族連れのピクニックでにぎわうであろう。

 


St Quentin の大聖堂へ入ってみた。カンタベリーの大聖堂をもっと簡素化したようでサイズも小さ目か。ステンドグラスが素晴らしい。

 

こんな田舎町でも市庁舎はすばらしい。




スーパーのAuchan へ行ったがフランスではナマの牛乳が見当たらない。Long Lifeのセミスキムが2リットルで95ペンスくらい。ほとんどイギリスと変らない。


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2004年9月24日 Maison du Parc

2009-08-29 20:12:13 | キャンパー旅行記 2004

St Quentin の運河の両側には延々と散歩道が続きこのキャンプ場を去る前に一度だけここをジョギングしてみたいと思っていた。
今朝も晴天だけど冷たい風が吹きつけている。運河の橋を渡って遊歩道を走るとたくさんのジョガーに出会った、皆フランス語で挨拶していく(マー当たり前だけど)。川渕にはおしどりがたくさん群れていて日向ぼっこをしている。走っている足元からかわせみ(King Fisher)が飛び立った。胸はオレンジ色で背がコバルトブルー、本当にヨーロッパでは一番カラフルな鳥というのがうなずける。それにこの鳥の飛び方は水上すれすれでひと目で見分けられる。

Troyesにたどり着くまでの道筋はシャンペン地方、今日訪れた湖Lac De La Foret De Orient はセーヌ河の源流近くに流れ込む。Troyes のキャンプサイトの近くにはセーヌ河の本流が流れていて澄んだ流れに大きな鱒が泳いでいるのが見えた。

 

途中で立ち寄ったMaison du Parc(自然公園とでも言おうか)のオフィスのビデオではこのあたり一面野生動物が生息しているとのこと。実際Geraudot の湖畔で猪の足跡をたくさん見つけた。又この湖畔では赤とんぼが多く目に付いた。

 

この地方は畑地が延々と広がって水平線までつづいている。この土地でも畑で働く人たちの姿を余り見かけない。もう麦刈りも牧草の刈り入れも終わっていて、真夏には素晴らしかったであろうひまわり畑がもう真っ黒の種になっている。
ひまわり油をとる刈り入れももうすぐだと思われる。
ロンドンの我が家の庭に植えたひまわりは全部リスに花の首から切り取られ全滅!!! ここのひまわり畑にあのリスが来たらどんなにデブのリスになることかと亭主に話したら、彼は一言”フランス人なら一発で撃ち殺しているよ”。ナルホド。今日の寒さではもしあの湖にフラミンゴが飛んできたらピンクもブルーになりそう。同じフランスでも南のプロヴィンスの湖にはフラミンゴがいっぱい餌をあさっているのに。

途中通り過ぎた村に巨大な板葺き屋根の建物を見つけた。どうもこの村の屋根つきマーケットみたい、一週間に一度でも市が立つのだろうか。まるで無人の村みたいで本当ににフランスの田舎では人を見かけることが少ない。

 

さすがフランスと思わせるシャレたクーリングタワー。

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2004年9月25日 Dijon

2009-08-28 00:00:42 | キャンパー旅行記 2004

キャンプ場の皿洗い場で朝食後の皿を洗っていたら、私と同い年のおばさん、髪は白くて本当にお婆さんと呼んでもおかしく無い人が話しかけてきた。
彼女のお父さんは第一次世界大戦で戦ったことが在るそうで、彼女はお父さんの二度目の結婚でお父さんの43歳の時に生まれた娘ということだ。叔父さんが彼の妹と結婚した戦友で,その叔父さんの残した戦争日記を元にベルギーのその地を訪れようとしていると言う。
えらく話し好きのおばさんで、私がトイレに行くまでしゃべっていた。まるで彼女の人生を全部聞いてしまったような気がしたが、彼女自身のことは何も知らない。

Dijon はキャンプ場からゆっくり歩いて30分、旧市街に入ってゆくときれいな屋根の大教会が目に付く。

 

あの教会の写真を撮ろうと近くへ行ったら教会の鐘が鳴り始めた。今まで聞いたことも無いような鈴が鳴るような軽やかな鐘の音、あの鐘につられて教会の中へ入ってしまったのだ。
大教会の中は何処もほとんど変らない。ステンドグラスと一面に並んでいる椅子。この教会で変っていたのは後ろの巨大なパイプオルガンが奏でているミュージック。何処でも聞いたことのある映画音楽を演奏していた。つい最後まで聞きたくなり亭主に15分待ってもらい座り込んでしまった。5分で音楽会は終わり10分はただボーゼンとして大教会の中を見ていた。大いに感激又明日も来たいものだと思った。

 

 

フランスのこのあたりだけかどうかはわからないが、小さなトイドッグを連れた年寄りが多い。それならイギリスと変らないが公園や芝生の上に犬の糞がいたるところにあるのはいただけない。
気になってくるとあちこち平気で糞をさせている飼い主をキッとにらむようになってしまった。フランスの芝生は便所か?これぞ本当のフンガイもの。

 

昨日歩いた道をジョギングしたら18分で往復してしまった。だから続けてキャンプ場の入り口を通り越して走ったら500メーター先に大きな湖が開けた。半分くらい行って帰ってきたらやっと体が温まって気分が良くなった。本当に毎日寒い。

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2004年9月28日 Beaune

2009-08-27 02:23:33 | キャンパー旅行記 2004

この街は中世の面影をそっくりそのまま残た町並み、日中は観光客があふれ町の城壁の外にある一般市民が住宅地に姿を見せるのが、学校の終わった4時過ぎ。



城壁に囲まれた旧市街には、屋根瓦のきれいなお城やシャレたフランス菓子の店  

 

15世紀にお金持ちのキリスト教徒の夫婦が作ったHotel de Hospicesと呼ばれる病院ー此れが全くすばらしい。今は博物館になっているが中に入るとあっと驚く屋根瓦の鮮やかさ、色タイルのモザイク模様の屋根が延々と続き絢爛豪華。その教会部分に当たる天井まで10メータ近くある大きな部屋は病室でベットが並びキリスト像が見下ろしている。天井の装飾も粋を尽くしている。昔の金持ちはとてつもなく金持ちでこんな素晴らしい建築物を作ったのはわかるが、貧民病人の救済のアイディアがこんな昔からあったのには心から驚いた。

   

 

この地域は又ワイン生産の中心地で、Dijonまでは畑地でほうれん草、ひまわり、麦畑、牧草地が続いていたのにここでは地平線まで続くブドウ畑。白っぽいバンが畑地に並び、ぶどうを摘む人々が一面に見られるようになった。
今までフランス農地を走ってほとんど人影を見ることがなかったのに・・・
この人たちは季節労働者に違いない。今日10kmのウォークに行ったら途中でバンが何台も降りてきてすれ違い、乗っている人々もさまざま、フランス語あり英語ありスペイン語あり皆各国語で”ありがとう”と言って通り過ぎて行った。

 

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2004年10月1日 Montelimar & Mondragon

2009-08-26 06:09:05 | キャンパー旅行記 2004

Lyon の北の町Maconに 一泊した。ここは川渕の町ですべてがゆったりしている。なのに翌朝のキャンプサイトにはほとんどのキャンパーがそそくさと出て行って私たちまであせってきそう。



二人で川渕を散歩していると蜘蛛の巣の多いのに驚かされる。人が通った後なのにナガーイ蜘蛛の巣が風に吹かれて顔や腕にまとわり付く。此れが気持ち悪くて長い木の枝を振りながら歩いていた。フランスのどんな町でも一番きれいなのは教会と市庁舎でここも変わりなし。



ローマ人が基礎を作ったフランスの道路は何処までも直線、亭主からキャンパーの運転練習を勧められ真っ直ぐ行ったらLyonの街中に入り込んでパニック。後ろには長い車の行列が警笛一つ鳴らすでもなくのろのろついてくるでは無いか。亭主の地図の見間違えなのだが、喧嘩している暇など無い。ほんとに泣きそうになってやっと道端に停車した。それ以降は決してハンドルに触らない。

Lyon から南下しているA7にのってMontelimar へたどり着いた。インフォメーションで教えられたキャンプサイトへ行こうとしたが鉄道の下のトンネルが低くてキャンパーは通れず又引き返して原発のクーリングタワーのある向かいのサイトで一泊。




翌早朝Montelimar の街角に路上駐車して見物に繰り出した。この日は土曜日で狭い街角は土曜市が開いてとってもにぎやか、フランスならこそのおいしそうなきのこを売っていた。




この町の上に城壁城砦が見え、行ってみると朝11時半で閉まるという。仕方が無いからそのまま次のキャンプ地 Mondragon へ直行した。
松林の中のキャンプサイトはとっても居心地がよく3泊もしてしまった。このあたりまで南下すると気温も上がって暑くなってきたし、毎日晴天が続いた。畑にはメロンがごろごろしている。
近くの運河の畔を13kmも歩き回ったり、キャンパーの外にテーブルを出して道端で摘んだ草花の写生をしたりと毎日が楽しい。

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2004年10月4日 Pont du Gard

2009-08-24 18:25:51 | キャンパー旅行記 2004

Montdragonの静かな松林のキャンプサイトを出た日には、サイトの受付の人が便所掃除をしていてなかなか受付けが開かない。やっと出発できたのは朝10時だった。A7を南下、途中のOrangeでローマの凱旋門を見つけ車の中からパチリッと撮った。

 

ここまで来たら何はさておき Pont du Gard (水道橋)ですよ。2000年前にローマ軍団によって建造されたこの水道橋は此れもまたローマ軍団によって作られたNimesの町へ水を送る為に造られたもの。今では世界遺産になっている。

 
 
何年か前にもここへ来たことがあり、その時はあの橋の一番上まで上ることが出来た。そして手すりも何もついていない水道の上を観光客は平気で歩いて渡っていたが、私は怖くて昔水が流れていたはずのトンネルの中を通って反対がわまで行った。今回は上には行けなくなっていたので、誰か落ちた人でもいるんじゃないかと思ったのだけどたぶん邪推じゃ無い。
49メーターの高さから見る下界は高所恐怖症でなくても心が震える。
この水道に初めて水が流れた時のローマ兵士たちの喜びようなど想像するだけで歓声が聞こえてきそうだ。

橋の近くに2000年とは言わないけれど、もう100年以上は経っていそうなオリーブの木が生えていた。この橋と同じように長生きして欲しいものだ。

 

この夜泊ったのはカステル〔城〕という名前でその名前のごとく城と水道橋のある町だった。2つ星のキャンプサイトは落ちぶれて、亭主はコソボの落ちぶれ者がキャンプしているに違いないと気味悪がっていたが、皆親切だった。
アクアダック((水道橋)が長く残っていてそれにそって歩いてみたがお城のところで消えていた。後年この城を建てるときに壊してしまったに違いない。
又アクアダックの下をレンガで生めて小屋を作ったりして見栄えの悪いことローマ人が見たら泣くよ。

 

 

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2004年10月5日 Balaruc -Les-Bains

2009-08-23 02:42:56 | キャンパー旅行記 2004

Frontignan を迂回してBalaruc-Les-Bainsへやってきた。キャンプサイトから町の中心地まで歩いて5分、海辺の温泉町で医者の処方箋があれば無料で温泉療法が出来るそうな。というわけで年寄りが非常に多い。温泉療法でもだめなガタガタの年寄りも多かった。個人療法や美容の為の温泉はとっても高くて手が出ない。

 

町の観光案内所の前に小さな池?があり熱い温泉の湯が出ている。ここで30分ほど足を浸けていた。裸になって全身浸かりたいと思った。翌日もその池に足を浸かりに行ったら、回りに浸かっていたフランス人のおばさんたちがシャンソンを歌いだし楽しい一時間を過ごした。
町の広場はたくさんの年寄りが直径20センチ位の鉄の玉を打ち当てるPetanqueというゲームに打ち興じていた。

 

この町は療養客や観光客も多く、街角にはきれいに手入れされた花壇が目に付く。鮮やかなハート型の葉は何かと思えばサツマイモの葉で本当に驚いた。一箇所掘り起こしたところに大きなサツマイモが転がっていた。ここまで南下するとフランスも暖かくて、キャンプサイトには琵琶の花が咲いていた。

 

翌日、海の向かいに見えるSeteまで歩いて見にゆくことにした。海岸線から町の入り口の鉄橋の下に魚釣りの人々が両川岸いっぱい鯛に似た銀色の魚を釣り上げていた。午前も午後も釣っていて皆結構たくさん釣っていたからあの場所だけ獲れるらしい。

 

Seteは運河の多い街でベニスを思わせるが、相当くたびれた感じで、余り見るものがなかった。街角の塀の落書が見事で此れなら立派な芸術だと思った。片道12kmも歩いたので、復路はバスで帰ってきた。

 

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2004年10月8日 Leucate その1

2009-08-22 07:01:57 | キャンパー旅行記 2004

温泉町を出て南西の海岸線を下る。途中キャンプサイトを探して行ったら、ヌーデスト・サイトで、よく日焼けした素っ裸のおじさんが出てきた。もうたまげて大急ぎ次のサイトを探して南下する。

この夜はLeucate Plageのキャンプサイトにやってきた。シーズンオフで安くて7ユーロとのこと。サイトが低い銀木犀の垣根で区切られた中で、一ブロックに4-6台のキャンパーが停まっている。そして私たちが停まった所はイギリスのキャンパーばかり。亭主は大喜びでここに一週間居ようという。もちろん異存はナシ、天気も良しで毎日周辺10数キロを歩き回った。

 

一週間に3組のイギリス人夫妻とサイトを共有した。私たちの右隣はウェールズから来た元学校の体育の先生で、このLeucate に来だして16-7年になるとか。
毎年来ているのであらゆるところを知っており、このサイトにキャラバンを置いて車でスペインまで日帰りショッピングなどしている。腰痛の奥さんも結構な年だが日焼けで赤黒い旦那のほうはウィンド・サーフィングをするという。

左隣は白髪・小太りのお金持ちおじさんタイプで立派なキャンパーに奥さんは脳溢血の後遺症らしく閉じこもったきりで一度も出てこない。だから家事一切を彼が切り盛りしている。今朝は蚊が出てと話しているので、日本から送ってもらった携帯用蚊取り線香を見せたら ”この線香を付けてジャングルで迷ったら落ちている虫を頼りに元に戻る事が出来るよ”だって。冗談一つでもなんと発想の違い!!!

向かいに停まっている40-50代の夫婦はこれまたすごいキャンパーでキャンパーの奥のベッドルームの下がガレージになっていて,そこに二台の電動スクーターを積んでいる。二人でスクーターでLeucate 村から帰ってくるところに出会った。”昼食を食べてそこで知り合ったイギリス人とおしゃべりしていたら4時間もかかった”と笑っていた。

 

このキャンピングサイトの最後の夜、向かいの夫妻のキャンパーの張り出しテント〔オーニングという)のなかで各自持ち寄りのパーティを開いた。夜12時近くまでおしゃべり、飲んだり、食べたりしていたがLeucate 湖の向うに見えるピレネー山脈は真っ白な雪でこの夜も相当な冷え込み方だった。

 

Leucate Plageの砂浜の左は海、右は蛎貝を養殖しているLeucate 湖で一時間ほど歩くと蛎やムール貝を採って発送、販売している小さな小屋が並んでいるところにたどり着く。ここで生牡蠣をレモンを絞って食べさせてくれるので、そこで食べたりキャンパーに持ち帰ってクッキングしたりと楽しんだ。

 

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2004年10月14日 Leucate その2

2009-08-21 22:08:03 | キャンパー旅行記 2004

Leucate 村はキャンプサイトから歩いて20分ほど、お金を下ろすATMの機械が郵便局の角にあり中サイズのスーパーマーケット、それに屋内プールがある。
海はきれいだけれど風が強くて泳ぐには寒く、半日をプールで過ごした。毎週金曜日村の広場でマーケットがオープンするが出店が5-6軒ですべてが高く此れならスーパーのほうが良い。

 

村の後ろの丘の上には城と教会の跡がありここからの眺めは素晴らしい。それに春先にはあたり一面のアーモンドの花が咲き乱れるであろう。この時期はからからに乾いたアーモンドの実がびっしり枝にしがみついている。この実を採ってフライパンでローストし硬い殻を割って食べてみたが苦くてまずい。あくを取る方法があるのではないか。アーモンドの花はももの花に似ていて私達の街路樹にもなっている。下のピンクの花ははじめてみた花で名前を知らない。

 
 
Cap Leucate は岬の高台で灯台があり高い崖が海に落ち込んでいる。この岬の向うにLa- Franquiという村がありそこまで足を伸ばした帰り道、がけ下の海岸線を歩ける細道を見つけた。途中で崖の上まで登れる道があるはずなのに見過ごしてしまってキャンプサイトのあるPlage まで岩を登ったり降りたりと悪戦苦闘の数Kmだった。亭主は相当怒っていて口も利いてくれず、私もキャンパーにたどり着いたときはめちゃめちゃにつかれきって寝てしまった。

 

二日後に又高台からLa-Franquiの村へ歩いて見落とした崖の道を見つけ、亭主はビデオカメラに向かっていかに大変だったかを、切々と話していた。

この地域にはフリーのキャンプサイトが多く、電気の必要で無い人たち、多分若者達がウィンド・サーフィンに来ているのだろうが,ずいぶんたくさんのキャンパーがいたるところにキャンプしている。フランスのキャンパーに対する設備は素晴らしく、この様なフリーで停まっているキャンパーの為の水道と汚水を捨てる場所がところどころに設けられている。でもこのようなところでは犯罪も多く私達は一度もフリーキャンプはしなかった。

 

La-Franquiの村の向うにも海水の溜まった湖があり、毬藻らしいたくさんの塊を見つけた。十和田湖の毬藻は有名だが余り記憶に残っていないので此れが同種のものかは判らない。海岸にはあざみのように棘のある葉を持つきれいな黄色の花があちこち見られた。それに白くて小さいカタツムリが枯れ草にびっしりついてまるで乾いたようになっているが雨季には〔もしそれが在るなら)草原をはいまわっているのだろうか。

 
 
ある日一日がかりで海岸からPort Leucate とPort Barcares まで歩いた。片道2時間、港のベンチでサンドイッチを食べきれいな新しい建物を見て帰ってきた。この日はトータル 23Km も歩いた。

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2004年10月18日 Roses Spain

2009-08-20 08:09:42 | キャンパー旅行記 2004

Leucate のキャンプサイトに10日間もいて大いに楽しんだが、南フランスといえども日ごとに寒くなりとうとうスペインへ出発することにした。
Port Leucate のスーパーで食料品やワインも買い込みスペインの国境へ向かった。

国境には誰も居ず、そのまま通過。スペインに入って国境近くにTax Heaven (無税)の店がずらっと並んでいるところも停まらず通り過ぎた。
国境からしばらく両側が林の道端のいたるところに女性が立っている。亭主によればあれは売春婦だとのこと。それにしても多かった、ということは彼女達を買う男達も多いのだろう。こんなに堂々としていていいのだろうか?

国境から一番近いCost Brava のRosesへたどり着いた。昨日までとは違い一泊19.7ユーロと高いがお湯は熱いしトイレにシートがある、此れが何より嬉しかった。(フランスのキャンプサイトにはどこにもトイレのシートがない。)高級キャンプサイトでインターネットもありたまには贅沢もいいものだと思った。

 

夕方海岸線を散歩、丘の上までびっしりと真っ白の家が並んでいる。この辺りはホリデータウンで夏は何処もごった返しているであろう。日が暮れるまでウィンサーフィングをしている人たちが居たがLeucate よりずいぶん暖かいと思った。

 

 

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2004年10月19日 Sant Pol de Mar ,Barcelona-1

2009-08-18 08:38:45 | キャンパー旅行記 2004

高級キャンプサイトを朝10時に出発11時半過ぎにはSant Pol De MarのキャンプサイトCamping Botanic Bona Vista に着いた。24.4ユーロともっと高い。でも仕方が無い、ここよりバルセローナに近いキャンプサイトが見つからず、2泊することにした。午後2時半の電車で一時間近くかかってバルセローナに着いた。下の写真はSant Pol Del Marの駅から見た町。



バルセローナはなんと素晴らしい町だ。

 

大通りの歩道の敷石からして芸術的、もちろんこの町で一番有名なガウディの建物が目的だったけれど、彼以外の建築家の建てた一般家屋なども素晴らしく芸術的なのがたくさんあった。

バトリョ邸(Casa Batllo)は駅から歩いても近いところで大変目立つ建物。余りに周囲の建築物とかけ離れていて、此れが100年も前に造られたとは考えられない。テレビや写真でガウディの建造物は見て知っているつもりだったが実物を見て自分の無知を知らされた。英国では60歳以上が割引になる為、亭主が二人分を割引半額で入場券を買った。スペインでは実際は65歳以上だった。
このバトリョ邸だけですっかり舞い上がってしまった。今日はこの邸だけの写真をお見せしたい。

 

この邸は1904年から1907年にかけて実業家ジュゼップ・バトリョ・カサノバスのためにガウディが設計改築したものだとのこと。
室内も外装にも直線がほとんど見当たらない。色彩も現代家屋でも使わないようなモダンさ。

 

  

 

屋上の奇妙なきのこのようなものは煙突でカラフルな瓦は陶器で作られたもの。

 

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2004年10月19日 Barcelona-2

2009-08-17 10:33:06 | キャンパー旅行記 2004

ビセンス邸(Casa Visens)はガウディが手がけた最初の主要建築物とのことで後半に見られる曲線美と対象をなしている。タイル製造業者のヌマエル・ビセンスの依頼というから宣伝も兼ねていたのか?

 

それと反対に彼の民間建築物の最後になったラ・ペドレラ(La Pedrera)は1906から1912年に建築した巨大なマンションである。バルセローナの裕福なミラ夫妻は当時もっとも高くそして有名だったガウディに依頼したもので、後依頼主とガウディの間に意見の不一致が起こり、家具はガウディの計画とは異なったものだという。

 

波打った屋根ににょきにょき生えている奇怪な建物は煙突や屋根に上る入り口である。

 

 

この邸の屋根裏部屋はことのほか有名で、彼の天才を証明していると言われる。

 

ラ・ペドレラは建築以来世間の論争、賞賛、拒絶の的になってきたそうな。まー判らんでもない。

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2004年10月20日 Balcerona -3

2009-08-16 11:33:03 | キャンパー旅行記 2004

サグラダ・ファミリアは1882年に建築を始めた大教会で、翌年の1883年にガウディが担当し彼はこの設計建築をの生涯仕事にした・・・・といっても100年以上経った現在まだ建築が続けられている。

 



考えてみればドイツ・ケルンの大聖堂なども建築に4百年とか6百年とかをかけたそうだから、今建築していてもおかしくは無いが途中何度も資金難で建築を中止しているから,貧民の大聖堂と呼ばれている。
私達が訪れたこの時は後20年で出来上がるといわれていたが・・・昨今の不況で今現在どれだけ進んでいるかが判らない。

 

 



宗教嫌いのわが亭主はこの教会を見た時に、”今までたくさん教会を見て一度も感激したことは無いけれど、完成したときにもう一度見てみたいものだ”と言ったほど感激したのだ。後20年生きられるかなー。

 

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2004年10月20日Barcelona-4

2009-08-15 19:12:43 | キャンパー旅行記 2004

まるでおとぎの国に来たようなそれとも抽象画の世界に紛れ込んでしまったような、そんな気持ちにさせるグエル公園(Guell Park)です。ここはガウディが1900年から1914年にかけて建築に取り組み1906年にはこの公園に住み込んでしまったという。カラフルな色タイルをさまざまな形に砕きモザイク状にしたデコレーションなどカンデンスキーの抽象画みたい。

 

 

世界に唯一つしかない公園を目指したそうだがその目的は大いに果たされている。そしてバルセローナの人々は彼の遺産で豊かな生活を楽しんでいる。

 

 

 

 

この日も朝から6時間くらい歩き回って写真を写し、2日間で写した写真が600枚この時ほどデジタルカメラをありがたく思ったことも無いものだ。へたな鉄砲も数撃ちゃ当たるってホント。

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