Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

遺灰を撒いた後

2023-03-09 22:54:00 | 英国内のこの頃

3月5日日曜日、かねてから気にしていたポールの遺灰を彼の故郷の海に撒きに行った。昨年4月彼と約束していた通り、ポルトガルの山へ撒きに行ったが、家族は一人も参加していなかったため、遺灰も4分の1だけもっていった。

昨年夏その故郷の海へ撒きに行ったところ、あまりの海水浴客の多さに驚きあきれた。考えてみるとその海で毎朝ポールが泳いで大きなカレイを捕ってきてくれたのはもう50年も前、昔は誰もいない海岸でたまに見かけたのはヌーデストの男性ばかりだった。

このブライトンと続きのホーヴの海岸は、40年くらい前にドーバーへ向かった方面に大きな人工の港を作ったおかげで、海はいつも茶色に濁っている。ポールがカレイを捕ってきたころは海底が見えるくらいに水が澄んでいた。

 

3月の海は思いのほか穏やかで、しっかり厚着をしていった私たち、風も余り冷たくなくておおよろこび、娘夫婦に息子と孫の家族一同とポールの幼友達夫妻といつも親しくしていた私の友達、ポールはその旦那さんと親しく、皆でキャンピングにいって一晩中二人で飲んでいたことも何回かあった。

ポールにとっては一番好きだった故郷の海に帰って彼も喜んでいるに違いない。

転んでもただでは起きないと言われているこの私、帰る前に海岸に打ち上げられた乾燥した海藻をいっぱい拾ってきた。帰宅してから水につけて戻し塩を洗ってたい肥に入れておくととってもいい肥料になる。 

お昼は予約しておいたパブレストランでゆっくり食事、ポールの一番好きだったフィシュアンドチップスを食べた人たちもいたが、私はこの時とばかり200グラムを超えるステーキにした。久しぶりで大満足。みんな喜んでくれた。

 

友達皆と別れた後、遊び足りない孫のためブライトンの海岸で娘の家族と一緒に遊ぶ。ブライトンはヴィクトリア時代からロンドンに一番近い夏の保養所として有名で、海岸線は有名ホテルが並んでいる。

石原のビーチの向こうに見えるのはブライトンピア、もう100年以上も経っている。

 

翌月曜日から北の寒波が押し寄せ、火曜日の朝はあたりが白くなっていた。スコットランドや北部イングランドでは大雪注意報が出されたが、我が家のあたりではすぐに雪も消えて、雨になった。

子供公園のピンクのボケの花が満開。

弦が伸び放題のウインタークレマチスが咲き始めた。

バス停近くのお庭に見事な椿の花が咲いていた。ピンクの乙女椿はピンクが色あせてもう乙女で無くなっている。

寒さにめげず満開のPrunus 桜系統の早春の花。春はすぐそこまで来ている。

 

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中国の新年のお祝い

2023-01-29 08:50:31 | 英国内のこの頃

中国の新年の祝いは、先週土曜日から始まり、いったいいつ終わるものやら。

ロンドンの中心部、トラファルガー広場とピカデリー、レスタースクエアーに近接したソーホーと呼ばれる中華街は此の新年のお祝いで、中国人ならずともあらゆる人種が行きかいものすごい人込み。

 

今日はマレーシア中国人9人と私の10人でソーホーのレストランで新年のごちそう(バンクェット)にあつまった。もう20年以上も前私が学んでいた陶芸クラスで親しくなったマレーシアのナースは、今から18年前に癌で亡くなった。その時看病していた彼女の友達や家族とも親しくなり、彼女が亡くなった後もいまだに親しく連絡してくれる。

マレーシアは回教の国であるため、アルコールをたしなむ人が少ない。10人も集まってもお茶で乾杯、食事が終わるまでひっきりなしにお茶が出た。

このバンクェットは10人で12コース・660ポンドと言われて、今まででは初めての豪華な食事。

まず始めは豚の骨付きスープ と いろいろな肉をスライスした盛り合わせ。

クラゲの味付け、写真を撮る前に半分取り分けられてしまった。

大皿いっぱいに盛り付けられた伊勢エビは味付きの衣で油で揚げたもの、これは今日のハイライトでとってもおいしかった。

ハスの葉に盛り付けて蒸した味付けご飯、これをたくさん食べると他が食べられなくて、余ったのは持ち帰りでいただいてきた。

麺の歯触りがとっても良かったヌードルDish.

巨大なシーバスをスチームしてソースをかけたもの。

 

ゆばと野菜をいためたもの。

エビとホタテをいためてあんかけにしたものをブロッコリーの上に載せてあった。このブロッコリーがとってもおいしかった。

骨付きポークの醤油味付け。

ローストチキン

メインコースの10種でもうたべきれない。

デザートは果物と、ぜんざい?まがい

甘い小豆の中に入っていたのがハスの実で、初めて食べた。とっても珍しいものだった。

こうしてみると日本人もマレーシア人も全然変わらず、私には英語、彼女たちは中国語で話していた。

また来年も呼んでくれるそうで、1年に1度の豪華な食事、ラッキー!!!

 

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コロナワクチン5回目しました。

2022-09-27 06:59:58 | 英国内のこの頃

9月上旬から75歳以上の住人にNHS から5回目のワクチンのオファーが来ていました。

1回と2回はロンドンブリッジの隣のガイズホスピタルで予約して行ってきましたが、3-4回目は予約なしでも同じ町の薬局でワクチンを打ってもらえることができ、5回目も同じ薬局へ行きました。

もちろん75歳以上の年寄りばかりがずらーと並んでいて、約1時間並んで待たされました。予約して行った人たちは待たずにどんどん入ってすぐ帰っていきましたが、今まで予約なしで10分ほどで終わったものですから、必要と思わなかったのです。

4回目にはモデルナを半量だったから今回もあと半量と思ったら、今回はSpikevax Bivalent というのを全量うたれました。打たれた後の腕が痛かったくらいで一切の副反応はなく、これでまたしばらく安心です。

私の友達で糖尿のある80歳の人は5回目を7月に打ったとのことで、この分だと6回目は12月頃かしらね というので驚きました。

最近ではコロナはほとんど風邪と同じくらいに扱われていて、よほど重篤にならない限り報告もしません。

今朝から娘婿のパトリックが感染しました。彼は先週水曜日からアイルランドのダブリンへ行ってきて、行くときの飛行機か行く前に感染したのかしれません。

エリザベス女王様のお葬式でデンマークの女王様が感染したと新聞に載っていました。デンマークの女王様はエリザベス女王の従姉妹にあたります。それでウエストミンスターだけでなくウインザー城にも参加されていました。

コロナとは全く関係ないのですが、昨年10月にNHS と癌研で構成されているガレリ・トライアル(Galleri Trial)というところから手紙とメールが来て、これから血液検査でがん細胞を調べるという。英国住民の何十万人かの人を向こう3年追跡調査をするという。私はラッキーなことに私の家庭医が私を推薦してくれたらしい。

先週金曜日に近くのスーパーマーケットの駐車場に簡易検査場が作られて行ってきた。採血と簡単な問診で終わると10ポンドのバウチャーをくれる。友達も近所の人もその話をすると自分もやってほしいという。昨年も1月後にネガティヴのメールが届いて安心した。これが実用化されたら初期のがんが見つかって画期的な医療進歩になるだろう。私は来年までラッキーなモルモットです。

 

 

 

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エリザベス女王の葬儀の一日

2022-09-25 23:01:03 | 英国内のこの頃

9月19日の女王様のお葬式からもう1週間が経ってしまった。

20日の無料新聞メトロは全面写真と葬儀の記事のみ、その他は一切載せていない。

そしてこの10日間の喧騒が嘘みたいに火曜日からは普通の日にもどってしまった。

お葬式の日は英国内では何百万人もの人たちが実況放送を見たとのことだが、時差の違うカナダでもこの日は特別休日、夜中から実況放送されたという。日本でもテレビ局各社が実況放送で、すべて放映されたとのこと。

私は朝8時から夕方6時までのBBC放送を見ていたが、夕方ウインザー城の葬儀式の間にはいつの間にか眠っていた。

それにしても華麗なお葬式でしたね。昔プリンセスダイのお葬式の後、日本人の批評家が言った言葉 さすがにミュージカル発祥の国だ。本当にその通りだった。

途中から急に思い立って、カメラでテレビを映し出した。

一糸乱れぬ98人の海兵隊のセーラ服の若者たちが引く砲台車。

 

この8人のロイヤルボディーガードはウエストミンスターホールから砲台車、砲台車からウエストミンスター寺院、ウエストミンスター寺院から砲台車、ハイドパークコーナーで霊きゅう車に乗った時、最後にウインザー城で霊きゅう車からセント・ジョージ・チャペルまで女王様のお棺を運んだエリート達。世界中に顔を知られたでしょうね。

ホワイトホール前の戦没者慰霊碑を通ってゆく。

 

 

ザ・マルからバッキンガム宮殿の前の長い道の両側を埋める兵士の後ろは1週間前からテントを張って道路わきで場所取りしていた人たちから一般市民でうめつくされた。こんなに多くの陸、海、空軍の軍人を見て、イギリスは戦争しても大丈夫だなと変に感心した。友達に言わせると、この人たちのお給料は私たちの税金からだろうか?と考えることもシビアー。

バッキンガム宮殿の前のビクトリア女王のモニュメントの広場からグリーンパークを通ってハイドパークコーナーへむかう。

ウインザー城の中にも整列しているたくさんの兵士たち。

道路の両側を埋め尽くすお花。途中に女王様が愛されたポーニー・エマが棺を見送っている。

今後百年以内には女王が戴冠することはないだろうといわれる。英国はビクトリア女王とエリザベス女王の時代に格別な発展を遂げた。今後100年といわれなくても王室が存続することさえも分からない。エリザベス女王様は70年の長きにわたり国民から愛され尊敬された。これは歴史に残る一幕だろう。

最愛のエジンバラ公の横に永眠された女王様。合掌。

 

 

 

 

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エリザベス女王の訃報

2022-09-16 21:24:53 | 英国内のこの頃

エリザベス女王様が亡くなられてもう1週間が経った。

亡くなられる2日前まで公務を全うし、100歳まで頑張って欲しいと思っていた矢先で、大変ショックだった。

この1週間BBC1 はほとんどニュースばかり流しているし新聞も一面全部が女王様の写真で飾られている。

私は誕生日が同じだったから、在英50年、同日誕生日のお祝いをしてもらえるのがとっても嬉しかった。それでなおさら女王様には親しみを覚えていた。

亡くなられた翌日からバッキンガム宮殿やウインザー城、バルモラル城には一般市民がお花を供えて哀悼のメッセージをささげている。

それで私も昨日木曜日友達とバッキンガム宮殿の裏のグリーンパークに置かれてあるお花を見に行った。お花は初めバッキンガム宮殿の前を埋め尽くしたが、遺体の搬送やお葬式の出入りに邪魔になるため、グリーンパークに移されたもの。

 

木曜日朝10時半、友達と待ち合わせのロンドンブリッジの片隅に置かれたオルガンにむかって、旅行者が素晴らしい演奏をしていた。この人はプロの音楽家らしくとっても素晴らしい演奏で、彼が終わった時は一緒に聞いていたポリスマン2人が盛大な拍手をした。

バッキンガム宮殿前にささげられたお花はビニールや紙で包まれていたが、お葬式が終わるとこれらのお花を集めてたい肥にするため、このグリーンパークのお花の飾り入り口では、たい肥にできないもの全部はがしてでなければどこにも置くことができない。

今年6月に在位70周年を記念する国民全部から愛され尊敬されていた女王様。

すべてのお花の中でもひときわ目立ったこの花束、王家御用達の花屋さんのマークが書いてあるとの友達の話だった。

帰るころにはますます増えてきている人の波、お花を持ってきても置くところが無くなるのではと思った。

人々の流れに身を任せると行きつくのはバッキンガム宮殿へ行く道、The Mall。

直接は行けなくてセントジェームスパークの中を入り大きく迂回しなければならない。

このセントジェームスパークの中にもあちこちお花が置いてありこんなかわいいぬいぐるみや、マーマレードサンドイッチが置いてあった。70周年記念のテレビで女王様がパディングトンベアとお茶のシーンで彼女のハンドバッグからマーマレードサンドイッチを出されたことを憶えておられるだろうか?

バッキンガム宮殿ではいつもの通りお人形のような衛兵が立っていた。

乗馬で公園内をパトロールするのは女性ポリスウーマン。

午後2時、チャリングクロス駅の横の歩道橋からサウスバンクに行くと、長ーい行列ができていて、中の一人に聞いてみた。2時間半かかってタワーブリッジ(有名な跳ね橋の)から来たという。あと3-4時間でウエストミンスターホールに横たわる女王様の棺に敬意を表することができるだろう。

私達も明日は並ぼうと約束したのに、夜中3時に眠れなくてインターネットで行列の進行状態を見てみたら、なんと行列はまた1マイルのテームス河ぶちの南に延長して、ウエストミンスターホールまで11時間半と言う。それですっかりあきらめて友達にキャンセルの連絡したのが8時だった。

英国民の女王様への敬意には感嘆する。

 

 

 

 

 

 

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7月の英国

2022-07-27 21:13:12 | 英国内のこの頃

7月11日はポールの2年目の命日だった。それで5月ごろから7月10日の日曜日に彼の遺灰を子供の頃から悪ガキで遊びまわったホーヴの海へ撒きに行こうと決めていた。

ところがその命日の7月11日はパトリックの父親の誕生日で、コロナの規制激しい過去2年はロンドンへこれなかったご両親が、パトリック宅へ北アイルランドのベルファーストから遊びに来るという。それも9日から11日まで。

これで困った娘は遺灰を撒くのを翌週の17日にしてくれと言ったから、ポールの幼馴染や、仲良かった友達夫婦にも1週間遅らせる旨通達。

すると数日前になってパトリックの母親がコロナ感染、ロンドンへは来れない。

17日に決めたのをまた変更するのもとそのままにした。・・・・・・ところが、7月8日から英国も本格的な夏になってきた。

もう2か月以上もほとんど雨が降らないから、地面はカラカラ、道端も野原も庭の芝生も黄色く枯れて、野菜を植えるのに地面を掘っても完全に乾いている。

7月17日日曜日遺灰を持って、娘の家族と朝8時過ぎからホーヴへ向かった。毎日晴天が続いて、日曜日にブライトンの海へ行く人たちが多いと知っていたから車の渋滞に巻き込まれないよう、早めに出かけた。ホーヴはブライトンの隣町で、ロンドンから車で1時間15分、11時に皆が集まるところは、ホーヴの海岸のはずれで、メインロードから分かれた狭い道路を堤防へ向かって走る(昔は)さびれた道路。

 

この写真は月曜日の新聞でブライトンの海岸を写したもの。

 

ここホーヴは昔結婚した初めの頃は、ポールは毎朝早く起きてこの辺りでスノークリングでカレイをとってきてくれた。人通りは全くなくて、たまにヌーデストの男性数人が日向ぼっこをしていたくらいだった。この日はあまり早く着いたから、娘はジュードと海辺で遊び、パトリックと2人で息子を迎えに行った。

もう50年も経ってこの辺りがすべて変わって驚いた。道路は駐車禁止、2か所ある駐車場は日曜日でも有料。10時頃には駐車場は満員で、どんどん来る車が駐車できなくてウロウロしている。

誰もいないはずの海岸はどこも海水浴客でいっぱいで、こんなところに遺灰を撒けない。堤防の最先端に釣り人が居て堤防の途中で鉄格子があり、聞くと釣り人オンリー、こんなところで灰を撒いたら魚が食べるだろうからダメと断られた。

とうとう諦めて、12時に予約していた、隣町のパブレストランで皆でお食事。

遺灰はこの秋から冬にかけて誰もいなくなったときにもう一度行くことにした。でも久しぶりに友達夫妻やポールの幼馴染の年寄り夫婦に会えて楽しかった。

この日も太陽ギラギラで、帽子なしで歩けなかったが、海辺は風がさわやかで、パブ内は冷房など無いが窓やドアが全開で寒いほどだった。

 

そしてその2日後火曜日は英国初の気温40度になると以前から予報されていた通り、暑かった。しかし英国は日本ほど湿度が高くないから、冷房装置が無くても大丈夫。早朝から窓もカーテンも閉め切り、太陽光線が入らないようにして室内温度28度、静かに1日を終えた。裏庭のドアを開けた途端に感じた灼熱で、急いで寒暖計をドアの外に掛けて10分、温度計は46度まで上がった。

この日の新聞の切り抜き写真、バッキング宮殿の衛兵も脱水症状を防ぐのに給水しているところ、思わず笑ってしまった。

この火曜日の夕がたから、局地降雨があったらしい。友達と電話で話していたら、今雨が降り出したという。こちらは空は黒雲が出てきたけれど、雨は一粒も降らなかった。

そして翌日水曜日、昨日の暑さが嘘みたいに、最高気温27度、窓を開けて寝ていると寒くて閉めてしまった。それ以来気温30度に満たない毎日、今日17日の気温21度朝夕17度。もう夏は終わってしまった。

 

 

 

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5月のイギリスーその2

2022-05-06 04:17:49 | 英国内のこの頃

 

晴天の5月5日、大通りを歩くと、街路樹は巨大なホースチェスナッツ(とちの木)がいたるところに赤白の花をつけている。

 

遠くで見ると点々と緑の葉に赤や白の花が見えるが

 

近寄って見るととっても素晴らしい花だと気づく。

 

 

 

 

 

どれだけ近寄って見ても一つの花の形が判らない。

 

 

 

今日初めて珍しいライラックの花を見つけた。紫色に白の縁取り、近くの集合住宅の庭にあった。

 

 

 

その庭の片隅にこの激しい色のサンザシ 英語ではMidland Hawthorn, EnglishHawthorn,とかメイフラワー(Mayflower)と呼ばれる。この派手な赤と白の花がある。 

 

 

近くの少学校の校庭の垣根に咲いていた小手まりの花。思い出せば、この花フランス・スペインの国境周辺に野生の花がいっぱい咲いていた。

 

私の庭に無尽蔵に生えているスパニッシュ・ブルーベルの花。なぜか採っても採ってもどんどん増えてあちこちブルーになる。英国原産より猛々しい。

 

いつもメトロ紙を届けてあげる80何歳かのおじいさんの前庭の石垣に、毎年巨大なオリエンタルポピーが咲く。この辺りを明るくするような春の花。

さてそこでメトロ紙の読者投書欄、最近の話題は電車やバス内で大声で携帯に話をする迷惑電話の愚痴の投書、どれだけ皆が迷惑しているか、ほとんどが文句の投書の中に、大笑いした話が2話あったのでここに紹介したい。

ある男性最終列車の中で、奥さんになぜ遅くなったかを大声で、えんえんと話していた。するとその近くにいた女性が(男性と全く関係ない人)急に電話の近くで相手の奥さんに聞こえるように、 ” ダーリン、その電話をやめて早くベッドへ来なさいよ。”  その話をすると心優しい日本人の友達は皆大笑いした後、かわいそー、離婚騒ぎになったかもねー。

もう一話、電車の中で若い男性が携帯の友達に大声で話していて、周りの人は興味津々聞いていたらしい。彼がレストランで、大きなビーフステーキを注文して、今まさに食べようとした瞬間、レストランのドアから若い男が駆け込んできて、ビーフステーキをわしづかみ・・・・ここでこの記事を書いた人の駅に電車が着いて、続きが聞けなかった。残念でならないと書いてあった。読んだ私も残念続きが聞きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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5月のイギリス。

2022-05-04 01:14:22 | 英国内のこの頃

5月1日メーデーが日曜日に当たったので2日が振替休暇で3日間の連休になった。日本はいつもこの時期大型連休になると騒いでいるが、英国では4月にイースターの休暇が長かったので、娘の家族などどこへも行かない。

 

それで日曜日のお昼に娘の家へ遊びに行ったのに別に何もすることなく3時間も昼寝をして、夕方5時歩いて家に帰ることにした。車で送ってあげるというのを断って、わが家との中間点にある公園わきを通り、フェンスの向こうにワラビが生えているのを確認した。すぐ藪の中に分け入り、数分で一抱えほど取り、ついでにヨモギの新芽も摘んで帰宅。ワラビは重曹であく抜きし、ヨモギと赤ピーマンを天ぷらにした。

天ぷらも以前は小麦粉に卵を入れてあとは水溶きしていたものだが、この数年前からスパークリング・ウオターを入れるとカリッと仕上がるので、卵も使わなくなった。

この3日前いつも行くルーシャムのマーケットで、A4サイズの紙箱にデイツがびっしり入って2ポンドと言うのを見つけ、日本へ帰る友達のお土産にと買った。重さが3KG近くあって重く、友達は持って帰れないという。

親しい友達が集まってのお別れパーティだったが、土産にならないものはみんなで食べましょうと開けてびっくり、なんとこれはデイツではなくて干し柿だった。

英国で干し柿など見たこともないが、中華店で売っているとのことで、どうやら間違ってマーケットに出たものと思われる。日本へ持って帰らないとのことで残留組3人で分けて持って帰った。

2日月曜日、振替休暇の1日は、娘がワイルドガーリックの葉を取りに行くのに連れて行ってくれた。

田舎の細道を走るとあちこちサイクリストが2-3人づつかたまって走っている。狭い道でサイクリストも車の運転手も両方怖い。林の中はブルーベルで青くなっている。

車は道端に止めていつも行く林の中の細道。いろいろな野の花が咲いている。Bugleと言うこの花は日本語では、 ヨウシュ・ジュウニヒトエと言うのだそうな。

 

 

Yellow Archangel とよばれるこの花は日本語で黄花踊子草と言う。

 

ブルーベルにも2種類あって、これは英国原産のやや細めのブルーベル。今が最盛期でどこの林の下草も青く染まって見える。私の庭に生えているのはスパニッシュ・ブルーベルで英国系より太くたくましく花も大きい。英国系はスペイン系に押されて消えると言われているが今のところ林の中は英国系の天下。

 

 

 

野生の花ではとってもかわいいキャンピオン。今から道端のどこにでも咲き始める。

 

 

この林の1か所にだけ見られるホワイトベル。昨年よりも少しだけ増えてきている様子だった。

 

 

ワイルドガーリックはこれだけ生えていると採りがいもあるというもの、花やつぼみも葉もみんな食べられる。強力なニンニクの匂いがする。短時間で大きな袋いっぱいに摘んだ。

帰ったらきれいに洗って塩漬けにしようと思う。いろんな野菜と油いためにしてもよし、スープにしてもよい。

 

黄花踊子草とブルーベルが混生。

 

英国の春に欠かせないブルーベル。

 

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キャプテン・サー・トム・ムーア

2021-02-07 23:04:35 | 英国内のこの頃

キャプテン・トム・ムーアは昨年4月30日に100歳になった。彼は20代を英国陸軍キャプテンとして、ビルマ戦線で日本軍とたたかって、生き残った人。

戦後いろいろな職業についていたが、建築材料の会社を立ち上げ財をなした。若くして知り合った英国人女性とは20数年結婚していたが性生活が一切なく50代で離婚し、再婚した奥さんとは2人の娘さんに恵まれた。

娘さんが成人したのち退職後を夫婦二人でスペインで過ごしていたが、奥さんが記憶障害になり帰国してケアホームへ入れたものの先立たれてしまった。

その後娘さんの家族と同居して幸せに暮らしていたのに、99歳でキッチンの床で転んで骨盤骨折。一時は危篤状態になったそうだが奇跡的に持ち直し、自宅療養をしていた。

昨年1月家族の間ではトムを励ます意味で自宅の裏庭(幅が20-30メーターはありそう)でと、100歳になる4月30日までに歩行補助器で往復1000回を目標に歩いたら、1000ポンドのお金をNHSへ寄付するとの話がまとまった。

この話がインターネットで世界中に流れ、キャプテン・トムは一躍時の人になった。世界中から寄付が相次ぎ、彼の誕生日までに3千3百万ポンド(約4億7千8百万円)が送られ彼は一命をとりとめたNHSに対し感謝を込めて贈った。

彼の誕生日には英国空軍が戦時中に使用した古い戦闘機2機を彼の自宅上空を飛ばせ、エリザベス女王やボリス・ジョンソン首相のメッセージが届いた。世界各国からも数十万通の誕生カードが寄せられ、近くの学校の講堂一面に並べられた。

この寄付金は個人のチャリティーの金額としてはギネスブックレコードだった。

世論は彼の偉業に対して彼にサーのタイトルをと、昨年7月エリザベス女王からサーの称号が送られた。

このキャプテン・トムはやっぱり普通の人ではないと思う。英国のテレビ局ITV  の一時間のインタビューではユーモアに富んで観客を引き付ける素晴らしい人柄で、とっても100歳に見えない。

この100年間で数十人の首相が変わったけど誰が一番良かったかとインタビューの人が聞いたら、 もちろん今の首相だよ、彼が100歳のお祝いしてくれたもの、それまでの人は誰も僕がいることを知らなかったから。

貴方のバケツリスト(死ぬまでにしたいことのリスト)にはいったい何が書いてあるかとの質問に答えてアメリカへ行ってルート66で運転したい。と、まるで若者での様。

クリスマスにバケツリストの一つで家族でバーベードスヘホリデーに行って来た。

帰国して1月に肺炎で医者にかかった際、コロナに感染していると言われワクチンを受けることができなかった。

今年1月31日日曜日、キャプテン・サー・トムはコロナで入院が報ぜられた。しかしその時は重症でないと報道されたにも関わらず、2日後火曜日には亡くなった。

彼にとっては長く苦しまず、あっという間になくなってしまって家族もみなよかっただろう。でもこうしてみるとコロナは恐ろしいことがよくわかる。体の弱っている人には急激に悪化することがよくわかる。

新聞にもこの国の宝を亡くしたと報道されたが、本当に惜しい人だ。

ご冥福をお祈りします。

 

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娘の結婚式 その2

2013-06-10 23:44:39 | 英国内のこの頃

金曜日の夜は早く寝た割には夜中に暑さで目覚めて全くの睡眠不足。この大きなお屋敷中に暖房ががんがん入っていてラジエーターをしめても室内の熱気はなくならない。
貧乏性の私などこのお屋敷の光熱費がどれほど大きいだろうと心配になったくらいだった。

土曜日の朝は6時前に目覚め、まだ誰も起きてこない朝食用食堂でお茶を沸かし朝食セアリオを食べて7時に来ると言う美容師を待った。宿泊しているたくさんの招待客は午後一時の教会挙式まで自由だから皆朝寝坊をして好きな時間に起きて食堂で好きなものを食べてよいことにしてある。だから我娘はあらゆる朝食用セアリオを買い揃えてあり、お茶もコーヒーも多種あった。



7時に予約してあった美容師さんが私たちの部屋で私とブライドメードのかわいい女の子の髪を結い上げ、終わると3階の大きな屋根裏部屋で娘と大学時代からの友達のブライドメードの髪結いや化粧、着付けなどを行った。

 

その間私は持って行った紫色留袖を一人で着付けた。着物は英国へ来て40年の間に5-6回くらいしか着たことがない。それで今回はほとんど毎週着付けの練習をして帯も切ってお太鼓の格好にして簡易帯を作っておいた。だからほとんど一日中だった着物も着崩れすることなく楽に着ることができた。
パトリックのお母さんは息子たちの結婚式ごとにドレスを新調するが、日本の着物には及ばないよとパトリックに言われた。

 



11時に図書室で女性の登録書記官による正式の結婚式が執り行われた。この結婚は宗教には一切関係なく2人以上の証人立会いの下、法的に認められるもので、両家の親族だけが全部集まり見守る中、二人の宣誓と指輪交換,結婚証明書へのサインで終わる簡単なものだった。私たちも40年前、レジスター・オフィスでこんな簡単な結婚式をした。

 


これが終わると私の友達が用意していたブーケや襟飾りのお花を渡してくれ、すぐに滞在客や花婿、ベストマン、パトリックの親族は三々五々車でダルバートンの教会目指して出かけていった。
娘は急いで裾の長い結婚衣装に着替えてブライドメードと二人で出発、私たちも友達に便乗して田舎の狭い道を教会へ向かった。

 

一時には小さなカソリックの教会で牧師による結婚式が執り行われた。パトリックの両親とブライドメードが聖書の朗読をし聖歌を歌い神に誓う結婚の儀が執り行われた。ここでも再度指輪交換をして満面の笑みを浮かべた二人は招待客皆から祝福された。

 ブライドメード3人とベストマンに囲まれた二人

 

 

お屋敷に帰ってくるとシャンペンとスナックが用意されており、次々到着したお客は玄関の大広間で暫らくリラックス、披露宴の始まるまでお屋敷の外で記念写真撮りがおこなわれた。披露宴の準備には数人のお手伝いを雇っており、彼らがテーブルへの食器や食べ物の運搬を受け持ってくれ、早朝打ち合わせた後は娘は一度もキッチンへ入らなくても良かった。



残念ながら食べ物の写真が一枚もない。何しろ披露宴が予定より遅れたためお腹を空かせた私たちはシャンペンで乾杯した後花婿とベストマンのスピーチを聞きながら夢中で食べ物を食べていた。スターターも娘の手作りのハムとフルーツ・チャツネ、昨日準備した肉や野菜、フィシュパイなどが出され、珍しい料理にお客さんもとっても喜んでくれた。




食事が終わって座が開けた後白いチョコレートのウエディングケーキを二人で切って皆が一切れづついただいた。

その後は飲みたい人踊りたい人、夜中の2時過ぎまで音楽が鳴り響き皆大いに楽しんだらしい。私は疲れきって早々に寝てしまった。この夜は大きな窓を2箇所全開にしていたから暑さに悩まされることも無かった。

日曜日の朝も寝静まっている6時前にはおきて荷物を片付け、キッチンを片付けにかかった。このお屋敷は11時には明け渡さねばならない。
100人分もクッキングするのを厭わない我娘ながら見積もりができなくていつも大量にクッキングしたり、高価な材料を余らせてしまう。今回も大量の野菜やチーズ、バター、パン、朝食セアリオ、飲み物等が山済みになっている。
9時過ぎから二日酔いの父親や、つかれきった女性たちが起きだして朝食を食べ出かける準備をして挨拶しに来る。皆が出てゆく11時までそれぞれに余った食べ物や飲み物を持って帰ってもらった。

私たちのキャンパーも持って行ったより多くの荷物を持って帰る破目になった。大量のケース入りワインも大幅にあまりパトリックに拠れば130本も余ったそうな。

11時お屋敷を出るときにマネジャーが”今まで多くのパーティ客を見ているけれどこんなにきれいに片付けていったグループは貴方たちが初めて。”と言った。そして花嫁がクッキングしたのも今までで初めてだと大いに感心していた。

忙しい3日間だったけど、ありきたりの結婚式でなくて何時までも思い出に残るだろう。
日曜日の夕方疲れ切って帰宅した。

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娘の結婚式 その1

2013-06-09 23:12:56 | 英国内のこの頃



今回 英国の結婚式の様子を書こうと思ったが、4月に行われた我娘の結婚式は英国の平均的な結婚式ではなかったから、タイトルも娘の結婚式と題した。

長年同棲し、大きな家まで共同で購入していた娘が昨年秋、ホリデーに行っていたカナダで婚約したと報告して来た。こちらにすれば何をいまさらと言う思いだったから、レジスター・オフィス(結婚登録オフィス)で簡単にすればと思っていた。ところが彼女のアイルランド人のボーイフレンド・パトリックの両親が厳格なカソリックときている。
カソリックの教会で結婚式を挙げないと認められないという。

ニューヨークに住んでいるパトリックの弟は数年前に今の奥さんと二人だけで結婚式をあげたそうだが、両親の逆鱗に触れて、昨年正式にカソリックの教会で挙式させられた。

無宗教の私たち夫婦からみるとそれほど宗教が大切なものかと思ってしまう。カナダから帰ってきた娘は結婚式をデボンのヴィクトリア時代のお屋敷で行うと宣言。ロンドン周辺の公民館かホテルでいいじゃないのとの私たちの言葉には耳も貸さず、デボンに決めたと言う。
そのお屋敷はロンドンから高速で早くて4時間、道路渋滞にあって6-7時間もかかったお客も居たから半端じゃない。そんなところを週末2回も下見に行って娘は4月に挙式を決めてきた。

英国では教会で結婚式を挙げるにはその教会のある地域に1週間以上滞在していなければ結婚証明書の発行ができない。また教会の牧師さんと宗教問答をしなければならない。ケントの中学・高校(11歳から18歳)で宗教学の教師をしている娘にはそれはお手の物。ところで結婚証明書を発行できるデボンのレジスターオフィスともアレンジして、教会挙式の前に登録書記官がお屋敷に来て挙式してくれることになった。

結婚式はデボンでも、式の1週間前から娘の住んでいる地域の市役所に結婚の表示がされる。その間に文句のある人は連絡してくださいとのことで、重婚を防ぐためだと言われる。

 

さてこのお屋敷はベッド数30、総勢72人の人達が宿泊できる。ホテルのようだが違うのは丸々一軒を借り受けるので招待客以外の人達は入館できず、まだ大きなキッチンで自分たちでクッキングができる。
料理が趣味で今まで何度も100人分くらいの料理を頼まれていた娘は、自分で披露宴の料理を全部作ると言う。

何時までも冬から抜け切れなかった3月半ば、結婚式前の諸事に私たちも手伝いしなければならないかもしれないと、暖かいポルトガルから帰ってきて震え上がった。おまけに私たち親の出る幕などほとんど無く4月半ばまで帰ってこなくても良かったのにと二人で嘆いたものだ。

式の一週間前には娘が買い込んだいろいろな道具や結婚衣装などが我が家に運び込まれ、これら全部をキャンパーで運ぶことになった。実際の結婚式は4月27日土曜日なのだが、私たちがキャンパーで我が家を出たのは木曜日の昼。夕方にはお屋敷から100kmほどロンドンよりのブリスタル近郊のホテルで一泊。娘とパトリック、それにブライドメイド(花嫁介添え役)の大学時代の友達とベストマン(花婿介添え役)のパトリックの友達もこのホテルで一泊した。この友達二人は木曜日の仕事が終わってからロンドンを出発したから、10時過ぎと夜中の1時に着いたという。

  


さて翌朝、娘とパトリックはウエディング・ケーキを引き取りにどこかの町へ行き、私たちはそれぞれ出発して教会のある小さな田舎町・村?ダルヴァートンで落ち合うことになった。このあたりは岡や林や牧場に谷川が多い全くの田舎でやっとたどり着いたダルヴァートンのセンターで何かのカンファランスがあったらしい。道路はどこも車でいっぱい、大きなキャンパーの駐車できる場所などどこにも無く、あれよあれよと言う間に町を通り過ぎてしまった。そのまま樹木の多い狭い山道になり折り返すのに数マイル行かなければならなかった。

 


やっとの思いで引き返してきて、こうなったら川渕で見かけたキャンプサイトに行ってみようと決めて一時間だけと頼んだところ、快く無料で駐車させてくれた。お昼12時半からこの町の小さなカソリックの教会で、結婚式の予行演習があった。
退屈な予行演習を終わるとすぐ各自の車で数マイル離れたお屋敷・ハンツシャム・コートへ向かった。何しろ狭い田舎道、キャンパー一台がやっと通れる幅しかなく対向車が無かったのは幸い、警笛を鳴らし続けてゆっくり走り30分以上もかかってやっと広大な敷地の奥に建つお屋敷にたどり着いた。

  

ハンツシャム・コートはヴィクトリア時代の壮大な建築物で、元はこの地の地主か貴族のお屋敷だったものらしい。一階は玄関を入ったすぐの大広間(ダンスホール)と蔵書で壁が埋め尽くされている図書室、120人の客を収容できる食堂広間、その横にソファーが並ぶ居間、廊下の向かいには酒倉とバーが付けられ、大きなキッチンの横に朝食の間があった。

 



2階の私たちの寝室が主賓室で4本の柱つきのベッド、ここで眠れるなんて一生に一度のことだろう。大きな寝室にこれまた風呂桶が2つも並んでいる大きなバスルーム・もしかして昔のご主人は風呂桶2つに一人づつはいって二人でシャンペンを飲んでいたに違いない。重いキャンペンボトル・クーラーが風呂の間に置かれていた。



2階には4本の柱のベッドの寝室が5-6室あり奥に行くと部屋も小さく普通のベッドで
家族の部屋だったらしい。3階は召使達の部屋だったのだろう。小部屋がたくさん並んでいて全部がトイレバスつきとは限らない。

 

さて金曜日の午後は夕方遅くまでクッキングとケーキデコレーションに追われた。
娘の大学時代の友達がその夫君たちと手伝いに来てくれ大きな台所いっぱいの食料の下ごしらえや煮炊きに追いまくられた。

 

ダイニングルームも料理が一段落したところで、皆で準備し飾り立て、結婚祝いにと日本の私の従姉妹から送られた和風ナプキンと祝い箸を各テーブルに置いたので華やかになった。

 



夕方やっとたどり着いた私のただ一人の日本人の友人が、お花全部を担当してくれた。巨大な生け花だけでなく、花嫁のブーケや親族の襟飾り、ブライドメードのブーケなど、大変な労力を使わせてしまった。

お屋敷を去るときにマネージャからダイニングルームのデコレーションが余りに素敵だったからこの写真をお屋敷の広告に使いたいと頼まれた。



金曜日の夕方には招待客が次々到着し、娘が前日クックした大なべ2杯分のカレーに20カップのご飯が炊かれた。この夕は結婚式前夜祭とて元気な男女は夜中遅くまで飲んで騒いでいたが、私などグラス3杯のワインで完全によっぱらって10時には寝てしまった。

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