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季節を描く

季節の中で感じたことを記録しておく

セザンヌ「キューピッドの石膏像のある静物」は不思議な絵だ! 『コートールド美術館展 魅惑の印象派』東京都美術館(2019/10/02)

2019-10-06 08:10:25 | Weblog
ロンドンにあるコートールド美術館のコレクションの展示だ。

セザンヌ「キューピッドの石膏像のある静物」(1894頃)は不思議な絵だ。
(1)
空間が歪んでいる。空間のゆがみと錯綜。①キューピッドの向う側の板が床に対し垂直なはずなのに傾いている。②床が平らでなく変形している。③左下で、床、キューピッドを乗せたテーブル、暗色のクロースの位置関係が極めて曖昧だ。床なのか、大きな台なのか、区別がつかない。キューピッドを乗せたテーブル面と床面が同一にも見える。④暗色のクロースは宙に浮いている。⑤右上部の床上の果物が遠くにあるのに大きい。しかも傾いた床を重力でころがってきそうだ。
(2)
床、立板、手前の台の直線に対し、キューピッド、果物、クロースは曲線だ。直線と曲線の対比。その対比が、歪んだ空間によって強調される。
(3)
画面右上は、しゃがんだ人間(男or女)の彫刻が台の上に載っているのか、あるいは彫刻を描いた絵なのか、判然としない。
(4)
動きのない静物と対比させられて、キューピッドの石膏像(またしゃがんだ人間の彫刻)のバロック風の動きが、強調される。


国立劇場小劇場・令和元年9月文楽公演・第2部①『嬢景清八嶋日記』:娘の親孝行が、道徳として称揚された時代だ!②『艶容女舞衣』:半七には三勝を見受けする金がないので、心中した!

2019-09-24 10:56:22 | Weblog
(1)『嬢景清八嶋日記(ムスメカゲキヨヤシマニッキ)』(1764)
主人公は悪七兵衛景清(アクシチビョウエカゲキヨ)と、その娘、糸滝(イトタキ)。景清は、名高い平家の侍大将だったが、源頼朝暗殺に失敗し、今は、日向国(宮崎)に流人となっている。「源氏の世の中を見たくないから」また「源氏の姿を見ると復讐の血がたぎる」という理由で景清は自分で両目をえぐり取り、盲人になっている。※景清には、目を開けると真っ赤に目をくりぬいた痕が覗く専用の一役首(イチヤクカシラ)を使う。 
A.「花菱屋の段」
(ア)
糸滝は数え14歳の少女。2歳の時に母と景清は別れ、親だと思っていた乳母にも死なれ、天涯孤独になる。自分の出生を知った糸滝は、百両あれば盲人が検校(ケンギョウ)という位を買うことができると聞きつけ、父・景清を官位につけるため遊女奉公を決心する。
(ア)-2
話を聞いた口入屋(人材斡旋業者)の佐治太夫(サジダユウ)は糸滝を花菱屋に連れて行く。花菱屋の主人も話を聞いて糸滝に同情し百両の金を渡し、店の者達もさまざまな餞別(センベツ)の品をくれ、糸滝は佐治太夫に付き添われて、日向に向かう。
B.「日向嶋(ヒュウガジマ)の段」
(ウ)
景清は、すっかり落ちぶれているが源氏への恨みは忘れない。佐治太夫とともに、日向島に到着した糸滝。目の前の老人が当の本人と知らずに、景清の行方を尋ねると、景清は「その男は餓死した」と告げる。はるばる訪ねてきたのに、ショックでへたへたと座り込む糸滝。佐治太夫が「せめて墓参りをしよう」と肩を貸し歩き出す。
(エ)
通りかかった里人達に道を尋ねると、「先ほどの男が景清だ」と教えられ、親子の対面となる。娘を無情にも追い返そうとする景清だが、娘に抱きつかれると見えない目を押し上げ開こうとする。
(オ)
糸滝は百両を渡し、「その金は大百姓に嫁いだために得た金だ」と佐治太夫が説明すると、景清は突然はげしく怒り出す。「源氏の世の中で平家の武将の親がいては娘に差し障りがある」という親心だった。
(カ)
糸滝を追い返した景清は、里人から糸滝が残していった書き置きの中身を聞く。娘の身売りの真相を知り号泣する。里人達は実は頼朝の家来で、景清を見張っていたことを明かし、頼朝に従うようすすめる。景清は、平氏への忠義に生きることを諦め、糸滝の親の義務に生きると選択する。糸滝は救われることになり、景清は島を離れる船に乗り込む。

《感想1》娘の親孝行が道徳として称揚された時代だ。もちろん今も娘は老人となった父親の介護をする。ただし今は、男女を問わず子が、老人となった親と同居する割合が減った。


(2)『艶容女舞衣(ハデスガタオンナマイギヌ)』(1772)
A.「酒屋の段」
(ア)
大坂上塩町の酒屋「茜屋」の息子半七は妻お園のある身ながら、女舞芝居の芸人美濃屋三勝(サンカツ)と恋仲になってお通という子供までもうけ、家に帰らない。
(ア)-2
しかも半七は三勝をめぐる鞘当がもとで今市善右衛門を殺害してしまい、お園の父宗岸は憤りのあまり、娘を実家に連れ戻す騒ぎになる。半七の父半兵衛は申訳のために町役人に縄目をかけてもらい心を痛めて帰宅する。
(ア)-3
そこへ丁稚が捨て児を連れてくる。不憫がった半兵衛とお幸夫婦は引き取ることにする。
(イ)
そんな中、宗岸がお園を連れてくる。宗岸は、処女妻ながらもなお半七を慕う娘の貞節に心打たれ、お園を改めて嫁にやり、自身は剃髪して「何のことかは料簡して、今まで通り嫁じゃと思うて下され」と詫びを入れる。
(イ)
半兵衛は、お園の心根に感心するも、倅の罪を思いわざと冷淡なそぶりを見せるが、宗岸に縄目のことを指摘され、互いに思いが通じ和解する。
(ウ)
まだ話したいこともあると、半兵衛らが立ち去り、一人残ったお園は「今頃は半七さん。どこでどうしてござろうぞ・・・去年の夏の患いにいっそ死んでしもうたらこうした難儀はせぬものを」という有名なクドキを演じて苦しい胸の内を語る。物陰で聞いていた半兵衛らが出てきてお園を慰める。
(エ)
そして捨て児がお通(半七と三勝の子)とわかる。お通の懐から書き置きが見つかる。涙ながらに読む四人。そこには、半七の手で、「善右衛門殺しのため三勝との死を決意した」こと、「半兵衛、お幸、宗岸あての別れの言葉」が切々と書かれていた。そしてお園には詫びの言葉と「未来は必ず夫婦」の文字があった。お園は「ええ、こりゃ誠か。半七さん、うれしゅうござんす」と喜ぶ。
(オ)
そんな有様を門口から覗いていた半七と三勝は、不幸をわび「両手合せて伏し拝み、さらば、さらばと言う声も嘆きにうずむ我が家のうち、見返り見返り死にに行く、身の成る果てぞあわれなり」の浄瑠璃で死出の旅に出る。(オ)-2
入れ違いに来た役人宮城十内が、「善右衛門が大盗賊であったこと、ゆえに半七の罪は放免となること」を告げて半兵衛の縄を解く。半兵衛は急ぎ二人の後を追う。

B.「道行霜夜(ミチユキシモヨ)の千日」
(オ)
半七と三勝が心中へと旅立つシーン。残された人々に思いを致しつつ、焼き場の煙が漂い、獄門台の血も乾かぬ刑場へ、最後の場所として半七と三勝が辿り着く。二人は心中する。(※東京では1975年以来の上演。)

《感想2》「善右衛門が大盗賊であったこと、ゆえに半七の罪は放免となる」のなら、半七と三勝が心中することはなかったように思われるが、そうではない。半七には三勝を見受けする金がないので、心中したのだ。(そもそも善右衛門から借りた金が贋金だったので、半七は善右衛門を殺した。)
《感想2-2》お園は、よほど半七に惚れたのだ。別の女と心中したのに、半七に愛想をつかさない。半七が書き置きの中で、お園には詫びの言葉と「未来は必ず夫婦」と述べたのは、お園を救った。しかしお園はこの後いつか、誰かの所に嫁ぐだろうか?一生は長い!


『円山応挙から近代京都画壇へ』東京藝術大学大学美術館:円山応挙「江口君(エグチノキミ)図」は、普賢菩薩の化身だった遊女を描く! 

2019-08-20 21:53:41 | Weblog
江戸後期、円山派を確立した円山応挙。狩野派の絵と異なる写生画が人々を魅了した。応挙に師事した呉春は、瀟洒な趣を加え四条派を興す。この二派は円山・四条派として京都の画壇に影響を与えた。長沢芦雪、竹内栖鳳、上村松園らがその伝統を受け継ぐ。

円山応挙「江口君(エグチノキミ)図」(1794年)

◎新古今和歌集:天王寺に詣で侍(ハベ)りけるに、俄(ニハカ)に雨のふりければ、 江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければ、よみ侍ける   西行法師
世中をいとふまでこそかたからめかりの宿りをおしむ君かな(この世を厭い出家するのは難しいが、貴方はかりの宿を貸すのさえ惜しむのか)
 返し               遊女妙(タエ)
世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ(ご出家の身と伺ったので、こんな仮の世の宿に心をお留めにならないようにと思っただけです)
《感想》坊さんの西行(1118-1190)が遊里に泊まりたいとは破戒僧だ。その上泊めてくれないと遊女(妙or江口君)をなじるとは困ったものだ。遊女に諭(サト)されて当然だ。

◎能「江口」(観阿弥原作、世阿弥改作)によれば、遊女「江口君」が実は普賢菩薩であったという。旅僧(ワキ)が、江口の遊女の古跡に立ち、遊女に宿を断られた西行の歌を回想する。里女(前シテ)がその真意を弁明に現れるが、江口の幽霊と告げ消える。西行を泊めなかったのは「この世への執着を捨ててほしい」と告げたかったからだという。やがて遊女(後シテ)が屋形船に乗り川遊びの態で登場する。遊女は罪深い身の上と悲しさを語り舞う。しかし次第にその姿は荘厳、透明となり、遊女は普賢菩薩の姿となる。船は霊獣、白象となって西の空に消える。
《感想》遊女が普賢菩薩の化身だったとの設定は美しい。能「江口」は夢幻能で、全体がワキの見た夢幻という構成になっている。

「特別展 三国志」東京国立博物館:黄巾の乱(184年)から諸葛亮の死(234年)まで!

2019-08-04 08:45:21 | Weblog
「リアル三国志」を合言葉に、中国での最新の発掘成果で漢から三国の時代の実像を紹介。曹操の墓「曹操高陵」など。Cf. 主に黄巾の乱(184年)から諸葛亮の死(234年)までの50年間が『三国志』(『三国志演義』)で描かれる。

(関帝廟壁画、清時代18世紀、内蒙古博物院「曹操、覇橋で袍を進ず」)

《参考》『三国志』(『三国志演義』)の概観
(1)「黄巾の乱」(184-)と「桃園の義」(劉備・関羽・張飛)!
後漢末期、「黄巾の乱」が起こる。黄巾の乱に心を痛める劉備(リュウビ)に2人の豪傑、関羽と張飛が意気投合し、「桃園の義」と呼ばれる義兄弟のちぎりを結ぶ。官軍に義勇軍として参加した劉備は、各地で活躍。黄巾の乱は、首謀者・張角の病死で終息する。
(2)董卓(トウタク):献帝(位189-220)を擁立する!
後漢で実権を握ったのが董卓(トウタク)。少帝を廃し献帝(位189-220)を擁立する。これに対し各地の勢力が曹操の呼びかけに応じ董卓に対し連合軍を結成。袁紹(エンショウ)を盟主に董卓と争う。だが呂布(リョフ)の活躍もあり董卓が抵抗。
(3)袁紹:反董卓連合軍解散(191年)後の最大勢力!
董卓は都・洛陽を焼き払い、自分の根拠地の近くに新しい都を移す(長安)。都が無くなり、連合軍は解散(191年)。各地で、群雄が割拠する。当時の最大勢力は、袁紹(エンショウ)。
(4)「官途の戦い」(200年):曹操(後の「魏」初代皇帝曹丕・位220-226の父)が袁紹を破る!
曹操は、黄巾の残党を加え、急速に勢力を拡大。董卓は、呂布の反乱により殺される。呂布は、その残党との争いに負ける。196年、曹操は、皇帝・献帝を自分の本拠地・許昌に迎える。曹操は当時最大勢力の袁紹と決戦。「官途の戦い」だ。曹操は10倍の袁紹軍を撃破。袁紹はまもなく病死。袁紹の勢力圏は曹操に吸収される。
(5)孫権(後の「呉」初代皇帝・位229 -252):200年に軍閥の後継者となる!
この頃南方では孫策が急速に勢力を伸ばしていたが、200年春、刺客に殺され、孫権が19歳で軍閥の後継者となる。
(6)「三顧の礼」(200年):劉備(後の「蜀」初代皇帝・位221 -223)が諸葛亮を軍師とする!
劉備は優秀な軍師の存在がない事に気づく。当時既に高名な劉備が、膝を曲げ、青年諸葛亮を「三顧の礼」で自陣に迎え入れる。諸葛亮が劉備に戦略と方針を与える。「天下三分の計」だ。曹操に対し、劉備と孫権がそれぞれ領土を分け、劉備と孫権で共に曹操に当たる。
(7)曹操に対し孫権が開戦を決意する!
曹操のつぎの目標は孫権の呉である。曹操は孫権に降伏の勧告をする。諸葛亮は、この呉と連合を結ぼうと考え、単独で呉に赴く。曹操軍100万に対し、呉軍は5万。降伏論が呉で主流だったが、諸葛亮が重臣たちを論破し、孫権は開戦を決意した。
(7)-2 「赤壁の戦い」(208年):曹操軍と孫権・劉備連合軍の戦い!
水上での戦いに強い呉軍。ただ、あまりの戦力差に、呉軍は攻め手をかく。曹操軍も水上の戦闘に慣れず、うかつに攻め込めない。呉軍は事態の打開をはかり、一つの策を打ち立てる。火攻めだ。これが成功し曹操軍の舟は次々に炎上、曹操は、命からがら逃げ出した。これが「赤壁の戦い」だ。
(7)-3 劉備が中国の西方(後の「蜀」)に領土を獲得!
赤壁の戦い後、劉備は本拠地を手に入れ、中国の西方に領土を獲得した。これが諸葛亮の言う、天下三分の計の出発点となった。(後に、「魏」の曹操、「蜀」の劉備、「呉」の孫権に天下が三分される。)
(8)「定軍山の戦い」(219年):漢中をめぐる戦いで劉備が曹操に勝利!
劉備が、曹操の漢中を攻めるが戦は長期にわたり(217-219)、両者とも決め手を欠いていた。が「定軍山の戦い」において、劉備が曹操に勝利する。漢中は劉備のものとなり、劉備が「漢中王」となる。
(8)-2 関羽による曹操への攻撃!
さらに劉備の義兄弟、関羽が曹操に対し攻撃を開始。曹操はこれを大変恐れ、都を移そうかとまで考えた。そして曹操は孫権との合同作戦を決意した。
(8)-3 関羽の死(220)
呉は、当時、呂蒙(リョモウ)が、対関羽の前線にいたが、関羽は彼を警戒。そこで、関羽を油断させる為、呉は当時まだ無名の陸遜(リクソン)を司令官にする。これに油断した関羽が、防御の兵士を、曹操に対する攻撃につぎ込む。後に残る将兵も少ない中、裏切り者が城を明け渡し、関羽は撤退。しかしついに孫権軍に捕らえられ殺された。
(9)220年、後漢が滅亡し、曹丕が「魏」を建国し皇帝を称す!
220年、曹操は病死。息子の、曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐ。曹丕はすぐ、漢の皇帝から、譲り受ける(禅定)という形で皇帝の座を奪う。漢は滅亡。曹丕は「魏」を建国。
(10) 221年、劉備が「蜀」を建国し皇帝を称す!
これに対し劉備も皇帝を名乗り、「蜀(ショク)」を建国した。皇帝となった劉備は、関羽の死に対する恨みから、国内の反対を押し切り、孫権の呉に攻め込む。だがこの戦で、最大の力となるはずの、張飛が、部下に殺される(221年)。それでも劉備は戦いを決行。初めは優勢だったが、「夷陵の戦い」で、陸遜の火計により大敗。劉備はこれに大きなショックを受け、やがて諸葛亮に後を託し病死(223年)。第2代皇帝・劉禅、丞相・諸葛亮。
(10)-2 蜀の2代皇帝・劉禅(位223- 263)、丞相・諸葛亮!
諸葛亮は丞相として、蜀の国を強大化するため、南の地方を制圧し、国内を固め、法律を制定し、魏に対し攻め込む機会をうかがう。
(11) 魏の2代皇帝・曹叡(位226-239)!
魏では、曹操の息子曹丕(初代皇帝)が226年、死亡。その息子が跡を継ぐ(2代皇帝・曹叡。)
(12)諸葛亮「出師の表」(227年):魏への攻撃(「北伐」)!
諸葛亮は「出師の表」(臣下が出陣する際に君主に奉る文書)(227年)を劉禅に対し上奏、悲壮な決意を込め、魏に対し攻撃を開始した。しかし、後継と目していた馬謖(バショク)が、「街亭の戦い」で、命令違反を行い、このため諸葛亮の軍は敗北、撤退した。
(13)229年、孫権が「呉」の皇帝を称す!
229年、呉の孫権も帝位につき、ここに、3人の皇帝(220年・魏の曹丕、221年・蜀の劉備、229年・呉の孫権)による中国支配が成立する。
(14)「五丈原の戦い」で諸葛亮が死亡(234年)!
5度に渡り、「北伐」と呼ばれる、魏に対する戦を仕掛けた諸葛亮だが、5度目の北伐の際、「五丈原の戦い」(234年)で諸葛亮が死亡。(『三国志』の話は、終わりを告げる。)
(14)-2 蜀の滅亡(263年)!
やがて魏が蜀の首都、成都を陥落させ、蜀の第2代皇帝・劉禅は魏に降伏。これによって蜀は滅んだ。
(15)魏の滅亡と晋の建国(265年)!
魏の晋王・司馬炎が、第5代皇帝・曹奐から帝位を簒奪し、晋を建国。ここに魏も滅亡した。(265年)
(16)呉の滅亡、晋の中国全土統一(280年)!
晋の初代皇帝・司馬炎は、呉制圧の大軍を南下させる。呉が晋に降伏。ここに呉は滅び、晋が中国全土を統一した。(280年)

「恐竜博2019」国立科学博物館:恐竜は爬虫類でなく、鳥類に近い!   2019/07/26

2019-08-03 00:42:18 | Weblog
恐竜温血説とは、つまり恐竜は爬虫類でなく、鳥類に近いということだ。言い換えれば鳥類の恐竜起源説だ。デイノ二クス(「恐ろしい爪」)が、こうした発見のきっかけとなった。


デイノケイルス(「怖ろしい手」)は1965年にゴビ砂漠で巨大な前足がみつかった。全身が羽毛で覆われ、頭頂にトサカのような羽毛もあり、どう見ても鳥だ。


恐竜マイアサウラ(「良い母親トカゲ」)はあかちゃんに餌を運ぶ!鳥の親が雛に餌を運ぶのと全く同じだ。


北海道で発見された「むかわ竜」。全身の約80%の骨格が残る。日本にも恐竜が沢山いたのだ!

「クリムト展 ウィーンと日本1900」東京都美術館:人生は戦いなり!

2019-05-18 12:44:14 | Weblog
(1)グスタフ・クリムト(1862-1918)!
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862-1918)は貧しい家庭の7人兄弟の第二子としてウィーン郊外で生まれた。父は彫版師。クリムトは1876年(14歳)、美術工芸学校に入学させられる。1879年(17歳)から美術やデザインの請負をするようになった。
(1)-2 芸術家商会「キュンストラーカンパニー」!
卒業後、1882年、弟のエルンストらと芸術家商会「キュンストラーカンパニー」を設立。以後10年間彼らはウィーンおよびオーストリア・ハンガリー帝国全土に渡る数多くの建物の壁画・天井画の制作を委託された。クリムトは、ウィーンの新しいリンク大通りの建築物の仕事をする芸術家の仲間入りをした。なお1892年(30歳)、芸術家商会は弟エルンストの死で終了した。
(1)-2 19世紀後半、グリュンダーツァイトの時代!
クリムトの子供時代から青年時代は、19世紀後半、ドイツ・オーストリアにおける経済繁栄と大型建築物建造の全盛期、グリュンダーツァイト(Gründerzeit)の時代だった。ウィーンでは、リンク大通りプロジェクトの巨大建築物の建設が、最終段階に入っていた。
(1)-3 ウィーン美術界で名声を確立!
1886-88年(24-26歳)、クリムトはブルク劇場の装飾を引き受け、金功労十字賞を授与された。ウィーン市の依頼で1888年(26歳)に製作した『旧ブルク劇場の観客席』は第一回皇帝賞をうけた。また美術史美術館で装飾の仕事を行った。こうしてウィーン美術界で名声を確立したクリムトは、1891年(29歳)、クンストラーハウス(ウィーン美術家組合)に加入した。
(2)「世紀末」!
クリムトは、古いインテリア装飾のスタイルから脱却した。ジグムント・フロイトが画期的な精神医学の論文(『夢判断』1900年等)を出版した「世紀末」前後のウィーンでは、芸術も新たなる方向を模索していた。象徴主義の影響の下、クリムトは、感情の暗部を持ち、また希望に満ちた幻想的イメージを持つ魂の心象を表現するため、新しい形式言語を探し求めた。
(2)-2  ウィーン分離派結成!(1897年)
1897年(35歳)、保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌う若手芸術家達がウィーン分離派を結成。古典的、伝統的な美術からの分離を標榜した。クリムトは分離派の初代会長に就任し、突然世間の脚光を浴びた。ウィーン市街のカールスプラッツにあるセセッシオン(分離派会館)は、新しい芸術運動の展示会場となった。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。『ヌーダ・ヴェリタス(魂の真実)』(1899年)。

(2)-3 『学部の絵』事件!(1901-02年)
クリムトの一連の事件の中でも1900年(38歳)前後に物議の頂点を迎えたのが、いわゆる『学部の絵』と呼ばれるウィーン大学大講堂の天井画三部作(『哲学』『医学』『法学』)の大論争だ。オーストリアの芸術界は最もスキャンダラスな出来事を目の当たりにした。三部作はクリムトが1894年(32歳)に制作依頼を受けたが、理性の優越性を否定する寓意に満ち、大論争(1901-02年)となり、契約が破棄された。
(3)ジャポニズム展(1900年)!
1900年(38歳)分離派会館で開かれたジャポニズム展は、分離派とジャポニズムの接近を象徴するイベントだった。特に浮世絵や琳派の影響は、クリムトの諸作品の随所に顕著に見て取れる。『ユディト1』(1901年)。この頃、いわゆる「黄金の時代」が始まる。(ジャポニズムを呼び起こした、1867年パリ万国博覧会、1873年ウィーン万国博覧会!)

(3)-2 「黄金の時代」の始まり!(1901年頃)
クリムトは1902年(40歳)、第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作『ベートーヴェン・フリーズ』(1901-02年)を出品したが反感を買う。この作品は、装飾性を優先し、新しい創造性の時代の幕開けを示した。技巧的には、金箔の使用量が増え始めた頃の作品で、「黄金の時代」の始まりの時期だ。
(3)-3 『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903年)!
翌1903年(41歳)、第18回分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903年)は当時のクリムトの状況を示している。
(3)-4 分離派を脱退!
1903年にホフマンらが設立したウィーン工房にクリムトは強い関心を示したが、美術の商業化だとの批判が出た。また写実派と様式派の対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトたちは1905年(43歳)、分離派を脱退。翌1906年(44歳)オーストリア芸術家連盟を結成。『女の三世代』(1905年)。『接吻』(1908年、46歳)は「黄金の時代」の頂点だ。

(4)クリムトの顧客は富裕な上流市民!
クリムトは、上流市民の婦人たちの肖像画を多く手がけた。彼は富裕な上流市民を顧客とした。特に、新しいアートトレンドに対し開放的なユダヤ人のパトロンが何人もいた。『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』(1907年、45歳)。
(5)1910年代!
1910年代(48歳以後)、作品が少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風からも脱却した。なお1914年に第一次大戦勃発。『オイゲニア・プリマフェージの肖像』(1913/1914年、51/52歳)。『赤子(ゆりかご)』(1917/1918年、55歳)。

(5)-2 風景画!
クリムトはかなりの数の風景画も残した。彼はアッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスが愛用され、平面的、装飾的でありながら静穏で、どことなく不安感がある。『アッター湖畔のカンマ―城Ⅲ』(1909-10年)。『丘の見える庭の風景』(1916年)。

(5)-3 モダンアートのパイオニア!
クリムトはモダンアートのパイオニアだった。30年間(1888-1918年)に及ぶ集中的な創作活動と、数多くの栄光、そして、評論家たちとの激しい対立の後、1918年(55歳)、ウィーンで脳梗塞と肺炎により死去した。
(6)多くの女性モデル!
クリムトの家には、多い時、15人もの女性が寝泊りし、何人もの女性が裸婦モデルをつとめた。クリムトは生涯結婚しなかった。多くのモデルと愛人関係にあり、何人かの女性との間に子供をもうけている。
(6)-2 エミーリエ・フレ-ゲ!
しかし、ウィーンのモードサロンのオーナー、エミーリエ・フレ-ゲこそがクリムトの生涯の伴侶だった。クリムトの風景画に描かれ、毎年夏に訪れていたアッター湖を、彼に教えたのはフレーゲだ。クリムトの最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」だった。クリムトの死後、エミーリエは生涯独身を貫いた。
(7)エロスと死!
女性の裸体、妊婦、セックスなど官能的なテーマを描くクリムトの作品は、エロスと同時に、常に死の香りを漂わせる。(若い娘の遺体を描いた作品もある。)また、「ファム・ファタル」(宿命の女)も多用されたテーマだ。そして「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出す。
(8)ユダヤ人のパトロンたち!
クリムトは自身についてあまり語らなかった。輝かしい仕事の成功にも関わらず、クリムトは社会生活に自信が持てなかった。彼はいつも青いスモック(仕事着)を身にまとい、頭髪は乱れ、出身地訛りのある下層階級の言葉で話した。オーストリア皇帝から勲章を授与されていたが、クリムトは上流階級から無視された。彼の顧客は富裕な上流市民、とりわけ新しいアートトレンドに開放的なユダヤ人のパトロンたちだった。
(8)「陽気な黙示録」の時代!
クリムトの人生は、オーストリアの作家ヘルマン・ブロッホが「陽気な黙示録」(私たちは笑いながら死んで行く)と呼んだ時代だ。クリムトはこの時代を、芸術的な探査と解釈のための題材として捉えた。
(8)-2 オーストリア・ハンガリー帝国滅亡!
彼の没年の1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は滅亡した。その後、経済的苦難の時代を迎え、「世紀末」の記憶は色あせた。さらにナチスによる恐怖の時代が訪れ、クリムトのパトロンであった多くのユダヤ人の家族たちが、この恐怖の時代の犠牲となり、あるいは国外亡命を余儀なくされた。

明治座『ふたり阿国』:「ややこ踊り」から「かぶき踊り」へ!さらに「遊女かぶき」の出現! 2019/04/11

2019-04-12 11:31:30 | Weblog
(1)出雲阿国:「ややこ踊り」から「かぶき踊り」へ!
出雲阿国(1572?-?)は、出雲国出身で、出雲大社の巫女となり、文禄年間、出雲大社勧進のため諸国を巡回し、評判となった。1600年に「クニ」(出雲阿国)が「ヤヤコ跳(オドリ)」を踊ったという記録がある。この「クニ」が3年後、1603年に「かぶき踊」を始めたと考えられている。

(2)「かぶき踊」の性的倒錯感!
阿国一座の踊りは、かわいらしい少女の「ややこ踊」から、傾き者(カブキモノ)に男装したお国が、茶屋女に女装した夫・三十朗と、濃密に戯れる場面を含む「かぶき踊」へ変化した。一座の他の踊り手も全て異性装。観客はその性的倒錯感に高揚した。最後に風流踊や念仏踊りと同様、出演者と観客が入り乱れて踊り大団円となった。

(3)「遊女かぶき」:お客にとって遊女の品定めの場だった!
京都での人気が衰えると阿国一座は、江戸を含め諸国を巡業した。かぶき踊は遊女屋で取り入れられ「遊女かぶき」となった。当時各地の城下町に遊里が作られており、全国に広まった。 「遊女歌舞伎」は男装した遊女同士の猥雑な掛け合いで、お客にとって遊女の品定めの場だった。

(4)芸能と売春!&ボスが支配する時代!
芸能者は、芸能で客を集め収入を得ると同時に、売春で生きた。時代は残酷だ。そしてボスが支配する時代だ。日常的暴力、権力の暴力、カネの力、ボス支配、性的欲望の強大。これらの狭間で、弱肉強食、適者生存の世間を、誰もが生きて行く。阿国も一座の座主として、暴力的な時代を生き抜いた。(Cf. 今も似ている。)

(5)阿国一座:北野天満宮に定舞台を張る!
京で人気を得た阿国一座は、伏見城に参上し度々踊った。 当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていたが、やがて北野天満宮に定舞台を張る。

(6)「佐渡島おくに」(お丹)!
劇では、阿国一座に拾われた娘お丹は、やがて一座を離れ「遊女かぶき」で名を売り「佐渡島おくに」として有名となる。権力者の要求を満たし利益を上げる茶屋の大ボス「三郎左」が、お丹のパトロンor雇い主だ。お丹は、天に通じる至上の芸を目指した。(ただし劇中で、遊女のお丹が、売春を拒否することは、ありえない想定だ。)

(7)芸能:「神への捧げ物」かつ生きて行くための「芸」!
芸能は、もともと「神への捧げ物」だが(Cf. 阿国は出雲大社の巫女だった!)、他方で生きて行くための「芸」だ。(「芸は身を助ける」!)この世で生きて行くには、「芸」を高品質の「商品」として生み出し、人々に熱狂的に購入されねばならない。

(7)-2 芸術至上、哲学至上、宗教至上主義的なパトロンたち!
だが芸能の庇護者は、貴族・武家・大商人など、権力and/or金があり、かつ知識人的なパトロンだ。彼らは芸術至上、哲学至上、宗教至上主義的に生きる。彼らに受け入れられ、彼らをパトロンとするためには、芸能者自身が、「地から天へむかって、背筋を伸ばして歩き続ける者」とならなければ無理だ。だがそうした超越的目的のために生きることは、パトロンとの関係を破壊することがある。劇『ふたり阿国』は、そうした次元を扱っている。

(7)-3 補足:生きるためにはボスの庇護が不可欠だ!最初のボスは普通、親だ!
補足:生きるためにはボスの庇護が不可欠だ。最初のボスは普通、親だ。働き自立して生きるようになれば、新たなボスが必要となる。ボスに認めてもらう能力を君は磨かねばならない。ボスと対等な関係が可能な領域が一部できれば、そこで両者は相互に人間となる。そうでない場合は、人間(ボス)にとって君は、道具or家畜or下人or追従者or奴隷だ。あるいは君が人間(ボス)と無関係なら、君はただの風景・妖怪だ。(Cf. 君もボスになれば、ボス同士は互いに対等な人間だ。)


特別展「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館   2019/04/02

2019-04-08 17:30:07 | Weblog
唐で密教を学び帰国した空海が、823年真言密教の根本道場としたのが東寺(教王護国寺)だ。この特別展では、講堂安置の21体の仏像からなる立体曼荼羅のうち、国宝11体と重文4体、合計15体が出品されている。
如来部が、全体の中央に位置する。講堂の本尊となる大日如来を中心に、阿閦(シュク)如来,不空成就如来,宝生如来,阿弥陀如来。(すべて重文)合わせて五智如来と呼ばれる。
菩薩部は、東側に位置する。中央に金剛波羅密菩薩、周囲に金剛薩埵(サッタ),金剛宝,金剛法,金剛業の四菩薩。(すべて国宝。)
明王部は、西側に位置する。不動明王を中心に降三世(ゴウザンゼ),軍荼利(グンダリ),大威徳,金剛夜叉が周囲を固める。(すべて国宝。)
天部は持国天、増長天、広目天、多聞天(以上、四天王)、梵天、帝釈天。(すべて国宝。)
(上記のうち大日如来、金剛波羅密菩薩、不動明王、広目天、多聞天、梵天のみ未出品。)

《感想》
宇宙の真理を、仏教(真言密教)を通して知った空海は偉大な人だ。頭脳も天才的。「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(ヘンジョウコンゴウ)の灌頂名をもつ。嵯峨天皇の勅命で中務省に勤務するなど文章作成能力抜群。また土木知識もありレオナルド・ダ・ヴィンチのような万能人だ。

《参考》東寺講堂・立体曼荼羅



「奇想の系譜展: 江戸絵画ミラクルワールド」東京都美術館(2019/03/12)

2019-03-15 12:24:10 | Weblog
美術史家・辻惟雄氏の『奇想の系譜』(1970 )に基づく岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳に、白隠慧鶴、鈴木其一を加え8人の代表作を展示する。
「執念のドラマ」岩佐又兵衛(1578-1650):戦国時代の血の匂いがする。
「狩野派きっての知性派」狩野山雪(1590-1651):狩野山楽の婿養子で後継者。
「奇想の起爆剤」白隠慧鶴(1685-1768):臨済宗中興の祖。民衆への布教のためで禅の教えを表した絵を数多く描いた。
「幻想の博物誌」伊藤若冲(1716-1800):京・錦小路の青物問屋「枡屋」の主人。40歳で隠居し絵を描くことに専念した。
「醒めたグロテスク」曽我蕭白(1730-1781):江戸時代の画史においてすでに「異端」「狂気」の画家と位置付けられていた。
「京のエンターテイナー」長沢芦雪(1754-179):円山応挙の高弟。串本無量寺に串本応挙芦雪館がある。芦雪の降雪狗児図(コウセツクジズ)の犬がかわいい。
「江戸琳派の鬼才」鈴木其一(1796-1858):江戸琳派の祖・酒井抱一の弟子・後継者。
「幕末浮世絵七変化」歌川国芳(1797-1861):江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人。

「奥村土牛(1889-1990)」展(山種美術館):「絵を通して伝わってくるのは作者の人間性」(土牛)

2019-03-10 20:28:47 | Weblog
(1)
山種美術館の創立者・山﨑種二は、「絵は人柄である」という信念のもと、画家と直接関わり合うなかで作品を蒐集した。特に土牛とは親しく、まだ無名だった時期から交流を続け、135点の土牛コレクションを持つ。
(2)
土牛は、画家志望の父親のもとで10代から絵画に親しみ、梶田半古(カジタハンコ)(1870-1917)の画塾で生涯の師と仰ぐ小林古径(コバヤシコケイ)(1883-1957)に出会う。38歳で院展初入選。40代半ばから名声を高め、101歳におよぶ生涯において、晩年まで制作に取り組んだ。土牛は写生や画品を重視する姿勢を生涯貫き、「絵を通して伝わってくるのは作者の人間性」という自らの言葉を体現する作品を数多く生み出した。
(3)
土牛という雅号は、中国・唐の詩句「土牛石田を耕す」に由来する。その名を糧に、土牛は地道に画業へ専心した。80歳を過ぎて「死ぬまで初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい」と語り、100歳を超えても絵筆をとり続けた。


奥村土牛《舞妓》(1954)