季節を描く

季節の中で感じたことを記録しておく

“ルドン−秘密の花園”展(三菱一号館美術館) 2018/04/03

2018-04-12 11:39:09 | Weblog
オディロン・ルドン(1840-1916年)は、印象派と同世代。
しかし彼の目は、輝く外見の背後に向かう。その限りで、現実的でなく、幻想的だ。
三菱一号館美術館《グラン・ブーケ(大きな花束)》はパステル画で、ドムシー男爵の城館の食堂を飾る装飾の中心だった。


黒い絵は、色の向こう側に見えるものを示す。


あるいは、彩色された絵を描いて、その向こう側に黒い背後を見ることもできる。
ルドンは、初めは黒い絵だが、やがて彩色された絵に移行する。


しかし、ルドンが見ているものは同一だ。
黒い背後とは、この無機物と生命(心)からなる世界を生み出したエネルギー、根源、原型、あるいは目的だ。

「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝」東京国立博物館・表慶館(2018/02/04)

2018-02-07 22:08:04 | Weblog
「人形石柱」カルヤト・アルカァファ出土(前3500~前2500年頃)サウジアラビア国立博物館蔵:簡潔だが装飾的に美しく楽しい。5000年前に、砂漠に立てられた。美は、人間にとって、今も5000年前も同一だ。


「祈る男」タールート島出土( 前2900~前2600年頃)サウジアラビア国立博物館蔵:祈りは、古い時代、5000年も前から、人の心の中で大きな位置を占めた。不思議だ。今は、祈りは、神が力を失い(Ex. 日本)、占める重みがかなり小さくなった。その分、今の科学の時代の人間は、かつてより、不安だ。


「葬送用マスク」テル・アッザーイル出土(1世紀頃)サウジアラビア国立博物館蔵:埋葬されたのは6歳くらいの女の子(お姫様)。大切に埋葬されたことが、遺跡の写真からわかる。顔に金の葬送用マスク、手に金の手袋、胸に金鎖の金製ペンダント、腰に金のベルト、耳に金のイヤリング。心からの葬送だ。

特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」展、東京国立博物館・平成館(2018/01/17)

2018-01-22 17:22:54 | Weblog
国宝・孔雀明王像(北宋時代・11-12世紀、京都・仁和寺蔵)
密教修法の孔雀経法を修する際の本尊画像。孔雀明王は毒蛇を食い殺す孔雀を神格化したもの。


重文・千手観音菩薩坐像・経尋作(平安時代・12世紀、徳島・雲辺寺蔵)
眼病治療のために造られた仏。雲辺寺は、四国八十八カ所第六十六番札所のお寺で、香川県と徳島県の県境にある。別名「四国高野」


重文・降三世(ゴウザンゼ)明王立像(平安時代・11世紀、福井・妙通寺蔵)
像高250cmで大きい。大自在天(シバ神)とその妃烏摩 (ウマー) を足下に踏みつけている。貪(トン)、瞋(ジン)、痴(チ)の三毒(根本の煩悩)をおさえしずめる。「瞋(イカ)るは地獄、貪(ムサボ)るは餓鬼、癡(痴)(オロ)かは畜生」(日蓮)。

『11月歌舞伎公演「坂崎出羽守(さかざきでわのかみ)」「沓掛時次郎(くつかけときじろう)」』国立劇場(2017/11/22)

2017-11-24 10:26:22 | Weblog
「坂崎出羽守」:1921年初演、山本有三作。〈新歌舞伎〉の名作。
坂崎出羽守(宇喜多直盛)は、関ヶ原の戦いで東軍に与し、その功績により津和野3万石(のち大坂の陣の功により加増4万石)を与えられた。1615年大坂夏の陣の際に、家康孫娘で豊臣秀頼正室の千姫を大坂城から救出した。家康は「救出した者に千姫を嫁がせる」と約束していた。この後、千姫の扱いを巡り、直盛と幕府は対立、最終的に千姫を奪おうとする事件を起こした。この計画は幕府に露見し、幕府方は坂崎の屋敷を包囲。直盛は、柳生宗矩の諫言に感じ入り自害する。
《感想》 
坂崎出羽守は、愚直だ。家臣も困るだろう。「無骨一辺倒だった男の恋心と屈辱」!
しかし津和野藩政では、側溝からの蚊の発生に備え、鯉の養殖を創始したり、紙の原料のコウゾの植樹を奨励するなど、功績が大きい。



「沓掛時次郎」:長谷川伸作、1928年発表、新国劇で上演。1934年より新歌舞伎のレパートリーとなる。
一宿一飯の渡世の義理から、博徒の沓掛時次郎は、何の恨みもない三蔵を斬ってしまう。彼は、末期の三蔵に気っ風の良さを見込まれ、その妻子の世話を頼まれる。時次郎は、約束を守り、三蔵の女房おきぬと子供の太郎吉を連れ、やくざの足を洗う。おきぬの三味線に、自分は追分節を唄い、門付けをして歩く。やがて臨月近いおきぬのため、彼は一度誓った堅気の世界から、一日だけ元のバクチ打ちに戻り、けんかの助っ人で金を稼ぐ。しかしおきぬは、出産で赤ん坊とともに亡くなる。太郎吉を連れ、時次郎は故郷沓掛をめざす。
《感想》
「人生の裏街道を歩く男の真心と哀愁」!

興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」東京国立博物館・平成館(2017/10/18)

2017-10-19 12:46:52 | Weblog
愛知・瀧山寺、聖観音菩薩立像(重文)が彩色されて美しい。源頼朝の供養のための仏像で、運慶と湛慶によって制作された。


“レオナルド×ミケランジェロ展”三菱一号館美術館(2017/09/20)

2017-09-24 20:49:50 | Weblog
 ルネサンス期には、「〈自然〉を母として、〈素描〉を父とすると、〈建築〉〈彫刻〉〈絵画〉の3姉妹がいる」という関係が強調されていた。自然に則ってデッサンすることは、各芸術の基本中の基本だった。



 レオナルド作《少女の頭部/〈岩窟の聖母〉の天使のための習作》(左)と、ミケランジェロ作《〈レダと白鳥〉の頭部のための習作》(右)。

日本橋三井ホール「アートアクアリウム2017」(2017/8/18)

2017-08-22 11:52:32 | Weblog
“江戸・金魚の涼”がテーマ。金魚がたくさんいて、にぎやか。約8,000匹。照明もカラフルでにぎやか。人もたくさんいてにぎやか。

特別展「地獄絵ワンダーランド」三井記念美術館(2017/8/18)

2017-08-21 22:09:18 | Weblog
熊野観心十界曼荼羅(日本民芸館所蔵、江戸時代)が興味深い。


①「心」の文字と結ばれた十界の世界、人の一生を表す老いの坂、地獄、亡者を救済する施餓鬼供養など、さまざまな図像がある。
②熊野比丘尼が絵解きに用いたこの宗教絵画は、近世社会で代表的な地獄絵。現在60点ほど残る。
③「十界」は、悟りを開き煩悩のない「四聖シショウ」(声聞ショウモン、縁覚エンガク、菩薩、仏ブツ)と、苦しみに満ちた「六道」(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)からなる。
④日輪と月輪のもと、中央に大きな山。山の頂のすぐ下に阿弥陀如来と諸菩薩の「仏界」と「菩薩界」。山の右端には「声聞界」、左端には「縁覚界」。
⑤その間が「天道」。
⑥山には、「人道」が人の一生で示される。ふもと右側の建物で出産。乳児は鳥居をくぐり、少年から青年へと成長。山の頂の少し前、女性とそれに応える男性。結婚。やがて人生の折り返し。夫婦は坂を下り、老いていく。ついに鳥居をくぐり、死を迎える。「生老病死」を描く。
⑥-2 山の樹木は、幼少期に梅、青年期に桜、壮年期に松、頂を越えたところに紅く色づいた楓、老年期に雪の積もる樹木。人の一生を示す。
⑦一生を終えた男は、三途の川を渡り、奪衣婆に衣をはぎ取られる。衣は樹木に掛けられて、生前の業(罪)の重さが測られる。さらに「業秤(ゴウノハカリ)」によっても罪の重さが測られる。ささいな罪も見逃がされず、たいていの人は有罪とされ、苦を受ける。
⑧四つの苦しみの世界がある。修羅道(常に戦いをする)、餓鬼道(常に空腹だが何も食べることが出来ない)、畜生道(動物として苦役を受ける)。さらに罪の重い者が、地獄へ堕ちる。
⑨平安時代、源信が記した『往生要集』は、地獄が八つの階層から成ると述べる(八大地獄)。針の山(剣山)、舌を抜かれたり、岩で押しつぶされたり…
⑩この絵は、地獄とともに、救済法も描く。それが、画面の中央の施餓鬼供養(お盆の先祖供養)。この供養により、地獄に墜ちた亡者も(一時的に)責め苦を逃れ、運が良ければ地蔵菩薩によって三途の川を逆戻りできる。

特別展「茶の湯」東京国立博物館・平成館(2017/5/14)

2017-05-16 18:14:02 | Weblog
一 足利将軍家の抹茶:唐物荘厳と唐物数寄
 12世紀頃、中国の宋からもたらされた点茶(抹茶)という新しい喫茶法が、次第に日本の禅宗寺院や武家に広まる。彼らは「唐物」で自らのステイタスを示した。
 室町時代、15世紀頃には、足利将軍家に最高級の唐物が集められた。唐物を愛でる「唐物数寄」が、のちの「茶の湯」に大きな影響を及ぼす。

 国宝「青磁下蕪花入」(南宋時代・13世紀、アルカンシエール美術財団蔵):中国の青磁は鎌倉時代以降、日本へ大量に運ばれ、茶碗、花生、香炉など茶湯道具として珍重された。


二 佗茶の誕生:心にかなうもの
 15世紀末になると町衆が力をつけ、連歌や能、茶、花、香などを楽しむ。そうしたなか、珠光(1423〜1502)や「下京茶の湯者」と呼ばれる人々が、唐物だけではなく、好みに合った「高麗物」、「和物」へと向かい、茶湯道具に対する価値観が変化する。この「侘茶」は、武野紹鷗(1502〜1555)ら、次の世代へ広がる。
 
三 佗茶の大成:千利休とその時代
 安土桃山時代、侘茶を継承した千利休(1522〜1591)によって茶の湯は天下人から大名、町衆へと、広く深く浸透する。天下人、豊臣秀吉の茶頭となった利休は、珠光以来の伝統を受け継ぎ、唐物に比肩する侘茶の道具を見い出しただけでなく、新たな道具を創り出す。続いて、古田織部(1544〜1615)が、利休の精神を継ぐ。

 重文「黒楽茶碗 銘 俊寛」長次郎(安土桃山時代・16世紀、東京・三井記念美術館)


四 古典復興:小堀遠州と松平不昧の茶
 江戸時代、太平の世において、小堀遠州(1579〜1647)は、武家の茶を再興し「きれいさび」と称される新たな茶風を確立した。また、江戸時代後期、すでに茶の湯が形骸化していたといわれるこの時代、松江藩主・松平不昧(1751〜1818)は、古典をたどり、道具を収集、評価した。

 重文「油滴天目」中国・建窯(南宋時代・12〜13世紀、九州国立博物館蔵):松平不昧は名器を、宝物、大名物、中興名物と細かく分類、評価した。本作品は古田織部所持と伝わり、不昧の『雲州蔵帳』に「大名物」と記載されている。

“国立新美術館開館10周年、チェコ文化年事業、ミュシャ展” 国立新美術館(2017.05.11)

2017-05-13 18:07:16 | Weblog
 アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)(1860-1939)。チェコ語表記ではムハ。オーストリア帝国領モラヴィア(現代のチェコ)生れ。

(1)アール・ヌーヴォーの旗手(1895年、35歳)
 ミュシャ、19歳、ウィーンで夜間のデッサン学校に通う。23歳、エゴン伯爵がパトロンとなる。25歳、ミュンヘン美術院に入学。28歳、パリにてアカデミー・ジュリアンに通う。
 彼の出世作は1895年(35歳)、舞台女優サラ・ベルナールの「ジスモンダ」のポスターである。この作品は、パリにおいて大好評を博し、彼はアール・ヌーヴォーの旗手となる。
 煙草用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)などのポスター制作もおこなう。
 ミュシャは、また、装飾パネルも多く手がける。連作『四季』(1896)など。
 パリでの初期苦闘時代、ミュシャは雑誌の挿絵によって生計を立てた。次第に認められ、パリの大出版社、アルマン・コランの挿画家として活躍。最初に高い評価を得たのが、『白い象の伝説』の木版画33点(1894年)だった。


 (2)万国博覧会ボスニア・ヘルツェゴビナ館の壁画装飾(1900年、40歳)
 1900年、万国博覧会でボスニア・ヘルツェゴビナ館の壁画装飾を手がけたことがきっかけとなり、ミュシャはその活動を変える。作品制作のため、現地を訪れたミュシャは、オーストリア帝国支配下の現地の人々の窮乏ぶりに驚き、「僕は今まで何をやっていたんだ・・・」と思う。
 そして後半生を、画業を通しスラヴ民族の意識高揚のために尽くそうと決意する。
 彼の生まれ故郷チェコも、同じスラヴ民族として、繰り返し異民族であるゲルマン系民族の侵攻に苦しんだ。

(3)『スラヴ叙事詩』制作の3者契約(1909年、49歳)
 愛国主義に目覚めたミュシャは、『スラヴ叙事詩』制作を決意する。それは、スラヴの諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという「汎スラヴ主義」にもとづく。スメタナの組曲『わが祖国』(1882年初演)を聴いたことで、構想を抱いたといわれる。
 パトロン探しと資金集めに、ミュシャは、1905年一旦、アメリカへ渡る。1909年、パトロンのチャールズ・クレイン、プラハ市と3者契約を締結し、チェコへ帰郷。『スラヴ叙事詩』制作に専念する。

(4)チェコスロバキア共和国成立と『スラヴ叙事詩』の発表(1918-9年、58-9歳)
 第1次大戦後、1918年、オーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立。ミュシャは、新国家のため紙幣、切手、国章などのデザインを無報酬で請け負う。
 1919年、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』が初めて展覧会で発表された。さらに、完全版が1928年に再度発表される。しかし彼が描いたアカデミックなスタイルの具象画は、「時代遅れ」とみなされ、評判は今ひとつだった。


(5)ナチスドイツによるチェコスロバキアの占領・解体とミュシャの死(1939年、79歳)
 1939年春、ナチスドイツがチェコスロバキアを占領・解体すると、ミュシャは「愛国者」として逮捕される。ミュシャ(78歳)は厳しく尋問され、釈放の4ヶ月後、死去する。
 『スラヴ叙事詩』は、彼の没後、長らく美術史から姿を消す。

(6)チェコスロバキア独立(1945年)&共産党政権(1948年成立)によるミュシャ黙殺
 第二次大戦後、チェコスロバキアは独立を果たす(1945年)。さらに、1948年に共産党政権が成立。共産党政権は、愛国心との結びつきを警戒し、ミュシャの存在を黙殺した。
 『スラヴ叙事詩』は、わずかに毎年夏、ミュシャの生まれ故郷にあるモラフスキー・クルムロフ城でひっそりと公開されるのみだった。
 しかし、チェコ国民のミュシャへの敬愛は生き続け、プラハの春翌年の1969年には、ミュシャの絵画切手数種が制作された。
 世界的には、1960年代以降のアール・ヌーヴォー再評価とともに、ミュシャは、改めて高い評価を受けた。

(7)ビロード革命による共産党政権崩壊(1989年)&『スラヴ叙事詩』がチェコ・プラハ市の市民会館へ戻る(2012年)
 1989年、ビロード革命で共産党政権が崩壊。
 1993年、連邦解消法に基づきチェコ共和国とスロバキア共和国が分離(ビロード離婚)。
 ミュシャの『スラヴ叙事詩』の再評価が進み、2012年、チェコの首都、プラハ市の市民会館へ戻った。