青龍神界鏡

次はまた首相してみんかお前。
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上京堀川うえいあはね北小大門町奥入リ朧月見夜百十二

1583年04月26日 00時00分00秒 | 投稿

黒烏龍茶と極めて酷似する、冷水仕立ての茶が、大きな急須、器、台車を運ぶ給仕を従え、歩み出て来る。
茶の器の素材は、“香港広域で物事を正しく運用する上で付随する疲弊を、人生の破砕被害を厭わず、世にて霧散しようと試みる”だった。
その判定を、世より確かに受けし者のみが、茶の前に立っていた。
ねおは、茶の逸話と等深部なる重みを、すぐに察する事が出来たが、それは常にだった。

春巻きと似る、京和菓子が出て来る。
北海道産の小豆あずき、由来の餡あん、宇治産の茶葉由来のウグイス餡、抹茶由来の粉、白玉と水飴の抱き合いが中に満ちている。

春巻き状、“おぅうぅおぅふ、ふふぅ”、製法が名の由来、は人数を無視し、皿に十四本載っている。

純白の皿は高級料亭用達、難波の食器製造会社製で、非、平行四辺形、底の中央から二辺にかけては貝殻の様相。
素材は月製の陶器指向原料。
縦幅は十六糎、上辺は二十五糎。
現代では、非常識なまでの高級志向が呆れを誘うのみ。
次は、突如、現在との食事の機に、失敗に出逢って頂く。
すき焼きの、残り、取り箸が鍋から摘ままずに終わった、蒸留されし、否定の“否”は、視認上印象、堅さと柔さについては、作為にて巧妙に人の喫食を誘うかに見える。
しかし、これとの卵、しらたき、人参、白菜の根との白いところ、根菜、根が付いとるカイワレ、炊かれていない白米、玄米、脱穀、ヒエ、刈られたばかりのアワ、寒天のごった煮は高さ、僅か七粍の台座の上で、実にまずそう。
石素材であるこの台座は月から難波へ転送されていた。
客は唖然となる。
しかし、僅かな側面が、貝の紋様状に装飾されている台座は喰えと迫る。
十一糎、二十三糎の台座に載る一つの塊には、啞然気味なる喫食検討系思考が喰い込むばかり。
当惑の時は続く。
程なくすると給仕が現れ、ごった煮を、下げる代わりに水差しと人数分の透明な器を置く。
現代の日本、大きな店舗を国道に面して構えたる和食料理店に、水差しは普通に見える。
金星、京産大傍の倉、雲上品目専門卸屋、ねお。
作為にてやや曇りを鈍く呑む、透明なプラスチック製のこれには、氷水が入っている、ように見える。
実際に、そうだった。


縁取りは、盛り上がっておらず普通。
伏見の銘水が、清滝きよたき、と西京区、善峰川ぜんぽうがわ、の支流から冬に採れた氷、そぞろみぞれ状態と、ほぼ等比収まっていた。
竈の、配膳姿勢は徹底的だった。
かくなる、在り様を、瞬時すら、言語で、適宜追唱しての再確認など、認め続けずには、高きなる水源と瀑布、奔放なる夫婦めおと、神代じんだい、よりの惟神かんながら、なる交わい、あるのみ、らしかった。

伏見、清滝、善峰は、何故、京のお外よりの稀人まれびと、御手製の急須にて、交わりしであろうか。
かくなる、理性上の問いが、竈を襲うとして、そこに立つ者は、すぐさま、問いを、どうにか吹き飛ばす、何らか、高尚そうな、蘊蓄うんちく、を述べるべし。
人が言語営為に頼りたがりての、儚きすがり仕草への衝動を、竈の内にて、蒸発出来ずと、言語で仮定する。
そうした人が一人、立つとあらば、の先の話として、ともかく、当該衝動については、水を沸かせる湧水地ゆうすいち、近隣の谷間に、どうにかして、流し込み続けるべし。
このように、大した意味の無い放言を人に言わしめ続けるなど、自他に与える疲弊の観点より、実に論外。
この判定が原点也。
調理に身を委ねる者が、調理関連功利以外を、どうにか析出せしめるべく、人を惑わせる。
これを、許さん。
水を扱う、ならば調理人は必ず、湧水地を意に止める。
この、大傾向を利用する事に、俯瞰上、異議は発生し得ぬ筈。

まず人は、何気無く、他者が磨きし価値を、取り扱う。
竈の間で不可避である、かくなる正鵠は湯気に蒸発せしめてしまう。
それとは、水と、これがまとわりつく対象、主体、客体との二者、取り、受け、非弁別事態である。
立派御知性者の数瞬後、必ず。
価値の研磨には、大いに、水を要す。
ところで竈の間での、協力作業は、水の代わりに、自己の体重を、研磨の過去に乱入せしめゆく。
体重とは、利発さとは無縁なる、足にまとわりつく脂肪が価値の中央である。
調理人は、水の湧水地を忘れずべし。
常識は云う。
しかし、竈の間での協力作業は、湧水地の観念を、汚染しいく主体は、他者であると仄めかしいく気運を、拡散する。
他者の研磨仕事は、自己が数瞬前に為した、と俯瞰上、ほざく手仕草が存在する、が故である。
多様な経路を経て、とにかくこの故は、上述の気運の拡散を実現していく。
竈の間の常識、他者との協力作業は、云う。
水と、湧水地の間の純正なる繋がりなど、無視して仕事を進めていこうではないか、と。
湯気が多く沸く、調理が関わるとする。
ならば、竈の間の常識は、水と、これがまとわりつく対象、主体、客体との二者、取り、受け、非弁別事態を、蒸気にて、竈の間に、充満せしめてしまう。
つまり、誰が何を扱うとして、許容的に振る舞わせいく。

竈の間で、云わずべき事柄を、こうして云い続ける。
すると、水は、湧水地を、蒸発せしめる、との振る舞いに頭部を覆う、顔の筋肉を委ねいく事になる。
恥、にてこれも云わずべし。
蒸気粒子を、皮膚の下に多く溜める顔は、無言のまま、水の交わりとの、一湧水地を特に好み狙う、蘊蓄衝動を竈の間に充満せしめゆく。
湧水地を知らぬ者が、湧水地の傍の谷間に、言語衝動を溜めているかどうか。
これは、竈の間の、重要判定を構成する。
人の仕事の名誉や、素材の純正さ、これの確保裁量の純正さを、脅かし得る協力に関する、適切な警戒意識の醸成が目的ではない。
何故、二種以上の素材や水が、交わっているのか、調合されているのか、との問いを突如浴びせられし者は、湧水地を知らぬとして、湧水地の傍に存在を仮定さる谷間に、言語衝動を、溜めているであろうか。
言語指示を受けずのまま。
常日頃、竈に立つに当たり、放言をかまし続け、その口の洗練が、谷と峰、いずれの家屋の書架をも照らすべし、などの指示を言語にて、受ける、与えるは論外。
竈の頭部は、疲弊あるのみ。

何故、二種以上の素材や水が、交わっているのか、調合されているのか、との問いを突如浴びせられし者は、湧水地を知らぬとして、湧水地の傍に存在を仮定さる谷間に、言語衝動を、溜めているであろうか。
この問いは、竈にて、永遠。
推し量る、しかない。
別の表現で、何故を問い、言語衝動の有無を知るには。
言語衝動が、谷間に溜まっておらず、とする。
ならば、その者とは、いや、竈の間総体とは、だらしなく言語衝動を、調理の洗練功利以外に向けて垂れ流しいくとの仮定が、立派に成立すべき事態の長。
言語指示にては、成立は期待出来ずである、統御を竈の何者かが、突如自己中心的に欲している。
統御とは、言語衝動の集約事態を、概括する。
非倫理であるが、ある者が竈にて、この概括利益を、他者との面談対話を伴わずのまま、一方的に欲している。
伏見、清滝、善峰は、竈の在り様を、どうにか調べるべく、否、望み通りに在らしめるべく、配剤の成立が、何者かにより、手配されておった模様だ。
竈の在り様を、調べるべく、伏見、清滝、善峰との配剤を、何者かが巧妙に手配。
竈は、かくなる成文を許さぬ筈。
必ず、左脳より彼方上空を飛び続けし、鴇とき、の翼、眼、鳴き声へ憧れを認める両脳者の存在を、予定し。
問いとその功利の周囲を、二度ほど、うろつきし者は無指示のまま、伏見、清滝、善峰を水差しにて交わらせ続ける事が出来る。
うろつき、にて伏見、清滝、善峰を集め続ける者とは、そうした、整髪料髪型での楽屋巡り、権勢の誇示と人材融通を恥じる事態を避け続けるべく、すべからく、高き峰にての水源と瀑布の問いを頭部に浴びる。
何故、水源と瀑布は、我が頭の内にて、交わろうと、調理されようとしているのか。
抵抗、回避を、明晰言語上、蒙昧な態度上、いずれも通じ、どうにか実現出来ないだろうか。
出来ないのだ。
高尚な新料理に向け、頭部の中で、素材、人材、調理法を融通しまくる事からの回避は。
伏見、清滝、善峰は竈の品格維持に向けての、配剤だった。
御客にお出ししたい銘柄の条件なら、満たしてはいたが、実のところ、竈はより強く、喉を潤したいと願っており、この願いを叶えるべくの配剤が真相であった、と明晰に告白すべき立ち位置が竈也。

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