今日はまたシリーズもの?の話を中断して、八ツ場ダム建設の異常な報道ぶりについて少し書いてみたい。
「57年間、国に翻弄され続けてきた住民の為にも建設を続行してくれ」という。
「まだ7割しか代替住宅が出来ていないので他の町に移住した人は『今更中止とは!』と怒りを露わにしている」「県議会で国に建設続行を求める意見書が採択された」等々、毎日毎日「すぐに解決しないと住民は生活していけない」ような報道振り。今まで57年間『ダムの早期建設』の住民運動等は一切無かったのにである。
逆に、この八ツ場ダム建設に関しては数十年にわたる、住民の『建設反対運動』の歴史でもあった。(住民200名が上京し国会に中止を陳情する等)
それなのにテレビでは新政権の『ダム建設中止』に反発し、『ダムをつくれ!』という声ばかりが流れてくる。
「ダム建設を白紙にするのはやめてほしい」「ようやく家を移したのに政権が変わったからといって、今になって建設中止はおかしい」といった旅館経営者から地元のおばさんまでダム建設一色である。
この地域の住民は長年にわたり『ダム建設反対』だった。それが手のひらを返したような推進一色の報道は、部外者である多くの国民には奇異に映る。
いったい、何が隠されているのか。
(M:私は普段、こんな書き方をしないので、いつも読んでもらっている人はアレっと思われたかもしれないが、その通り、例の夕刊紙の請け売りです。ねたバレですがそのまま続けます)
これは“やらせ”じゃないか。怪しいにおいがプンプンする。
9月23日の前原国交相の視察では、地元民が『中止を白紙撤回しないと』と対話をボイコット。テーブルについた県知事・町長・県議らは、口々に国の方針転換を攻め立て、それをマスメディアは大々的に取り上げ、前原国交相を悪者に仕立てた。
しかし、群馬県といえば総理大臣を4人も出した保守王国で、町議から代議士、知事まで「政治家は自民党にあらずんば人にあらず」というお国柄で、長野原町には古くから地元のドンもいる。
そんな自民保守王国の中で、町長や県議・知事が中止批判をしても、額面通り『地元の声』とは受け取れない。
「きっこの日記」でも『地元住民の声』は、その自民党系町議会議員が住民を装った“やらせ”報道だ、と指摘している。
夕刊紙でも…。
テレビに出て『ダム建設中止に怒りを露わにする地元住民』は、群馬を牛耳ってきた『自民党の関係筋』ばかりだという。
そうでない(多数の)地元住民は「おかしいと思っても口に出せない。あからさまにダム建設中止を訴えれば、あとで何をされるか分からない」と語る。
長期独裁政権は、岩国市の例のように自分たちの意のままに言うことを聞く者は優遇し(カネを出し)、逆らう者はシメあげる(カネを出さない・村八分にする)、というやり方をとってきた。
しっぺ返しを恐れているから反対の声が聞こえてこないわけだ。(夕刊紙より)
M:前原大臣や民主党議員が地元説明に向かうバスに住民がまるで昔の直訴でもするようにバスの窓から民主党議員に(直訴状を)手渡す場面がテレビに映し出された。
「何と書いてあったのですか?」というテレビのインタビューに対し「中止に向け頑張って下さい、と書いてありました」と答えていたが、何で中止賛成意見がこんな直訴状的にしか表明されないのか、不思議であった。しかし地元の中止賛成意見はその一場面だけで後は延々と今更中止は無いだろう、政府(民主党政権)に“翻弄される”地元民がかわいそう、といった論調の映像が続き、私の怒りはマスメディアの方に向いていたので深く考えなかったが、この夕刊紙の記事で初めて『なるほど』と頷けた。
あるブログに、八ツ場ダム建設の歴史が出ていた。長いので私の意見にとって都合のよいところだけを引用しておく。
■八ッ場ダム計画の歴史
1947年・昭和22年
カスリーン台風により利根川流域など大洪水。利根川治水計画の見直しが始まる。
1949年・昭和24年
利根川改修改訂計画の策定で洪水調節目的をもつ上流ダム群の建設が計画される。
1952年・昭和27年5月
建設省より長野原町長にダム建設調査の通知が届き、現地調査が開始された。
「悪夢に似た戦争もおわって早や7年、いかに国家のためとは云いながら、先頃になってようやく定まった雀の涙程の遺族補償のほか見るべき対策何一つなく、殺され損・焼かれ損で、後は一切ご破算に願われてしまったこんにち。
(その戦争の傷跡も癒えぬのに)何で私たちが「自らの身を以て、利根川水系下流同胞の人柱たる決意を持とう」(国の為に自分たちの生活を犠牲にしよう)という、ほとんど絶望に似た“あきらめ”の境地に到達することができようか。」(長野原町報より意訳)
1953年・昭和28年2月
ダム建設反対の住民大会が開かれる。
住民ら上京し、地元の中曾根康弘議員、建設省に決議文を手渡し反対陳情。
吾妻川が強酸性の河川であることから、ダム計画は表面的には一時中断。
1965年・昭和40年3月
群馬県、住民にダム建設を発表。
1965年・昭和40年5月
八ッ場ダム連合対策委員会発足(萩原好夫委員長)。
選挙区の福田赳夫氏、蔵相就任の挨拶のため現地入り。
「ダムは昭和42年度ごろには着工し、昭和44年ごろには完成させたい」と建設推進を表明。
1965年・昭和40年12月
条件つき賛成派の委員長に反発した住民多数派675名、反対期成同盟を結成。連合対策委員会は解散。
1966年・昭和41年1月
選挙区の中曾根康弘代議士、現地で「ダムというものは軽々しく造るものではない」と発言し、反対派の期待を集める。
八ッ場ダムは「福中対立」(福田赳夫VS中曽根康弘)の構図に。
1966年・昭和41年2月
長野原町議会、ダム反対を全会一致で決議。
1966年・昭和41年7月
200名の抗議団、上京し反対陳情。
1966年・昭和41年9月
橋本登美三郎建設大臣、国会において「八ッ場ダムは地元の了解なしに建設を強行する考えはない」と答弁。
1967年・昭和42年9月
建設省、現地出先機関を開設。
町議会、反対期成同盟773名の請願を採決し県議会に反対陳情。
「私ども川原湯、川原畑、林、横壁の区域は急傾斜の処であるので、ダムができると殆んど水没し、再生の土地はない」(長野原町議会議事録より)。
1967年・昭和42年12月
ダム反対の総決起大会開かれる。
「遠く父祖より受け継し 故郷の田畑吾が住居 湖底に沈めてなるものか ダム反対に決起せよ 」(「八ッ場ダム絶対反対の歌」より)。
1969年・昭和44年3月
群馬県議会、「ダム建設促進決議案」を4年にわたる継続審議の末、13回目に採択。
1973年・昭和48年
水源地域対策特別措置法(水特法)公布。
抵抗激しい八ッ場ダムの地元対策といわれた。
この年、建設省内部で吾妻渓谷保全を名目にダム予定地が600メートル上流に変更される。
1974年・昭和49年4月
川原湯地区の反対期成同盟委員長樋田富治郎氏、町長に当選(~1990年)。
反対運動は盛り上がるが、この後、町政は県・国による締めつけに苦しむことになる。
1976年・昭和51年4月
八ッ場ダム計画を組み込んだ利根川・荒川水系水資源開発基本計画(フルプラン)を閣議決定。
1976年・昭和51年8月
神田群馬県知事、県議会(福田派)より「ダム建設に消極的」と批判を受け退陣。
ダム推進派の支持を受けた清水一郎知事が誕生し、ダム推進を表明。
国・県により反対派の切り崩しが進められていく。
1980年・昭和55年
群馬県は地元に生活再建案を提示。八ッ場ダム建設の諸手続きが進められる。
1985年・昭和60年
町長と知事は生活再建案についての覚書を締結。反対運動が転機を迎える。
1986年・昭和61年7月
八ッ場ダム建設に関する基本計画が告示される(完成予定2000年度)。
1990年・平成2年
建設省、生活再建案に基づく「居住地計画」を水没世帯に配布。
1992年・平成4年
「反対期成同盟」は「対策期成同盟」に変わり、反対運動の旗を降ろす。
町県国の三者で「用地補償調査に関する協定書」締結。建設省、用地補償調査を開始(~1999年)。
1994年・平成6年
建設省、付帯工事に着手。八ッ場ダム関連の付け替え区間を含む上信自動車道(群馬県渋川市~長野県東部市)が地域高規格道路の指定を受ける。
1995年・平成7年
建設省、第二次土地利用計画として代替地の計画案を発表。
1999年・平成11年6月
水没五地区の代表による連合補償交渉委員会(萩原明朗委員長)が設置される。
1999年・平成11年7月
「八ッ場ダムを考える会」発足。
2001年・平成13年6月
「利根川水系八ッ場ダム建設事業の施行に伴う補償基準」に水没五地区連合補償交渉委員会が調印。これより個別補償交渉が開始される。
2001年・平成13年9月
八ッ場ダムの完成を2010年度に延長する基本計画変更を告示。
2003年・平成15年11月
国土交通省、八ッ場ダム事業費変更案(2110億円→4600億円)を発表。
2004年・平成16年9月
八ッ場ダムに関する基本計画の二度目の変更が告示され、事業費が4600億円に増額される。
2004年・平成16年9月
八ッ場ダムをストップさせる市民連絡会、関係各都県に対して住民監査請求。
2004年・平成16年11月
同会各都県の「ストップさせる会」は、八ッ場ダム事業への支出差止めなどを求める住民訴訟を各地方裁判所に起こす。
2007年・平成19年 6月
水没予定地の代替地の分譲を開始。
2007年・平成19年12月
国土交通省、事業工期を2015年度末に延長する計画の変更が必要になったと公表。
2008年・平成20年9月
八ッ場ダムの事業工期を2010度→2015年度に変更し、建設目的に「発電」を追加する第三回目の計画変更が告示される。
2009年・平成21年1月
国土交通省、八ッ場ダムの本体工事の入札を官報で公告。
2009年・平成21年 4月
八ッ場ダム推進議連1都5県の会発足。
淡々と読んでいっても、ダム建設中止を訴える地元民と、それを押さえつけ計画を変更しながらもダム建設を推進してきた国・県・町の関係が分かろうというものだ。
倍以上に増額された4600億円の予算の7割(3200億円)がダムの本体工事未着手・各種付替え工事完了5~10%・鉄道だけが75%完了の時点で既に使われてしまっている。
今日は詮索しないが、“住民への補償金”と言う名の「地元対策費」の支払にも、かなり問題があるようだ。
新聞には各戸別で補償額が異なるため詳細は秘密とのことで公表されていないが、噂(不確実情報)として1件(家)10億円出したところもあるように書かれている。
いずれにしても、これだけマスメディアが『中止反対』報道ばかりする裏には、長期独裁政権による癒着の構造、即ち、先に書いた保守王国のお国柄や、ダム受注業者等に176人の天下り官僚が巣食っている、といった事情が見え隠れしている。
また、次回からもとのシリーズものに戻したい。今日はこれまで、またね。
「57年間、国に翻弄され続けてきた住民の為にも建設を続行してくれ」という。
「まだ7割しか代替住宅が出来ていないので他の町に移住した人は『今更中止とは!』と怒りを露わにしている」「県議会で国に建設続行を求める意見書が採択された」等々、毎日毎日「すぐに解決しないと住民は生活していけない」ような報道振り。今まで57年間『ダムの早期建設』の住民運動等は一切無かったのにである。
逆に、この八ツ場ダム建設に関しては数十年にわたる、住民の『建設反対運動』の歴史でもあった。(住民200名が上京し国会に中止を陳情する等)
それなのにテレビでは新政権の『ダム建設中止』に反発し、『ダムをつくれ!』という声ばかりが流れてくる。
「ダム建設を白紙にするのはやめてほしい」「ようやく家を移したのに政権が変わったからといって、今になって建設中止はおかしい」といった旅館経営者から地元のおばさんまでダム建設一色である。
この地域の住民は長年にわたり『ダム建設反対』だった。それが手のひらを返したような推進一色の報道は、部外者である多くの国民には奇異に映る。
いったい、何が隠されているのか。
(M:私は普段、こんな書き方をしないので、いつも読んでもらっている人はアレっと思われたかもしれないが、その通り、例の夕刊紙の請け売りです。ねたバレですがそのまま続けます)
これは“やらせ”じゃないか。怪しいにおいがプンプンする。
9月23日の前原国交相の視察では、地元民が『中止を白紙撤回しないと』と対話をボイコット。テーブルについた県知事・町長・県議らは、口々に国の方針転換を攻め立て、それをマスメディアは大々的に取り上げ、前原国交相を悪者に仕立てた。
しかし、群馬県といえば総理大臣を4人も出した保守王国で、町議から代議士、知事まで「政治家は自民党にあらずんば人にあらず」というお国柄で、長野原町には古くから地元のドンもいる。
そんな自民保守王国の中で、町長や県議・知事が中止批判をしても、額面通り『地元の声』とは受け取れない。
「きっこの日記」でも『地元住民の声』は、その自民党系町議会議員が住民を装った“やらせ”報道だ、と指摘している。
夕刊紙でも…。
テレビに出て『ダム建設中止に怒りを露わにする地元住民』は、群馬を牛耳ってきた『自民党の関係筋』ばかりだという。
そうでない(多数の)地元住民は「おかしいと思っても口に出せない。あからさまにダム建設中止を訴えれば、あとで何をされるか分からない」と語る。
長期独裁政権は、岩国市の例のように自分たちの意のままに言うことを聞く者は優遇し(カネを出し)、逆らう者はシメあげる(カネを出さない・村八分にする)、というやり方をとってきた。
しっぺ返しを恐れているから反対の声が聞こえてこないわけだ。(夕刊紙より)
M:前原大臣や民主党議員が地元説明に向かうバスに住民がまるで昔の直訴でもするようにバスの窓から民主党議員に(直訴状を)手渡す場面がテレビに映し出された。
「何と書いてあったのですか?」というテレビのインタビューに対し「中止に向け頑張って下さい、と書いてありました」と答えていたが、何で中止賛成意見がこんな直訴状的にしか表明されないのか、不思議であった。しかし地元の中止賛成意見はその一場面だけで後は延々と今更中止は無いだろう、政府(民主党政権)に“翻弄される”地元民がかわいそう、といった論調の映像が続き、私の怒りはマスメディアの方に向いていたので深く考えなかったが、この夕刊紙の記事で初めて『なるほど』と頷けた。
あるブログに、八ツ場ダム建設の歴史が出ていた。長いので私の意見にとって都合のよいところだけを引用しておく。
■八ッ場ダム計画の歴史
1947年・昭和22年
カスリーン台風により利根川流域など大洪水。利根川治水計画の見直しが始まる。
1949年・昭和24年
利根川改修改訂計画の策定で洪水調節目的をもつ上流ダム群の建設が計画される。
1952年・昭和27年5月
建設省より長野原町長にダム建設調査の通知が届き、現地調査が開始された。
「悪夢に似た戦争もおわって早や7年、いかに国家のためとは云いながら、先頃になってようやく定まった雀の涙程の遺族補償のほか見るべき対策何一つなく、殺され損・焼かれ損で、後は一切ご破算に願われてしまったこんにち。
(その戦争の傷跡も癒えぬのに)何で私たちが「自らの身を以て、利根川水系下流同胞の人柱たる決意を持とう」(国の為に自分たちの生活を犠牲にしよう)という、ほとんど絶望に似た“あきらめ”の境地に到達することができようか。」(長野原町報より意訳)
1953年・昭和28年2月
ダム建設反対の住民大会が開かれる。
住民ら上京し、地元の中曾根康弘議員、建設省に決議文を手渡し反対陳情。
吾妻川が強酸性の河川であることから、ダム計画は表面的には一時中断。
1965年・昭和40年3月
群馬県、住民にダム建設を発表。
1965年・昭和40年5月
八ッ場ダム連合対策委員会発足(萩原好夫委員長)。
選挙区の福田赳夫氏、蔵相就任の挨拶のため現地入り。
「ダムは昭和42年度ごろには着工し、昭和44年ごろには完成させたい」と建設推進を表明。
1965年・昭和40年12月
条件つき賛成派の委員長に反発した住民多数派675名、反対期成同盟を結成。連合対策委員会は解散。
1966年・昭和41年1月
選挙区の中曾根康弘代議士、現地で「ダムというものは軽々しく造るものではない」と発言し、反対派の期待を集める。
八ッ場ダムは「福中対立」(福田赳夫VS中曽根康弘)の構図に。
1966年・昭和41年2月
長野原町議会、ダム反対を全会一致で決議。
1966年・昭和41年7月
200名の抗議団、上京し反対陳情。
1966年・昭和41年9月
橋本登美三郎建設大臣、国会において「八ッ場ダムは地元の了解なしに建設を強行する考えはない」と答弁。
1967年・昭和42年9月
建設省、現地出先機関を開設。
町議会、反対期成同盟773名の請願を採決し県議会に反対陳情。
「私ども川原湯、川原畑、林、横壁の区域は急傾斜の処であるので、ダムができると殆んど水没し、再生の土地はない」(長野原町議会議事録より)。
1967年・昭和42年12月
ダム反対の総決起大会開かれる。
「遠く父祖より受け継し 故郷の田畑吾が住居 湖底に沈めてなるものか ダム反対に決起せよ 」(「八ッ場ダム絶対反対の歌」より)。
1969年・昭和44年3月
群馬県議会、「ダム建設促進決議案」を4年にわたる継続審議の末、13回目に採択。
1973年・昭和48年
水源地域対策特別措置法(水特法)公布。
抵抗激しい八ッ場ダムの地元対策といわれた。
この年、建設省内部で吾妻渓谷保全を名目にダム予定地が600メートル上流に変更される。
1974年・昭和49年4月
川原湯地区の反対期成同盟委員長樋田富治郎氏、町長に当選(~1990年)。
反対運動は盛り上がるが、この後、町政は県・国による締めつけに苦しむことになる。
1976年・昭和51年4月
八ッ場ダム計画を組み込んだ利根川・荒川水系水資源開発基本計画(フルプラン)を閣議決定。
1976年・昭和51年8月
神田群馬県知事、県議会(福田派)より「ダム建設に消極的」と批判を受け退陣。
ダム推進派の支持を受けた清水一郎知事が誕生し、ダム推進を表明。
国・県により反対派の切り崩しが進められていく。
1980年・昭和55年
群馬県は地元に生活再建案を提示。八ッ場ダム建設の諸手続きが進められる。
1985年・昭和60年
町長と知事は生活再建案についての覚書を締結。反対運動が転機を迎える。
1986年・昭和61年7月
八ッ場ダム建設に関する基本計画が告示される(完成予定2000年度)。
1990年・平成2年
建設省、生活再建案に基づく「居住地計画」を水没世帯に配布。
1992年・平成4年
「反対期成同盟」は「対策期成同盟」に変わり、反対運動の旗を降ろす。
町県国の三者で「用地補償調査に関する協定書」締結。建設省、用地補償調査を開始(~1999年)。
1994年・平成6年
建設省、付帯工事に着手。八ッ場ダム関連の付け替え区間を含む上信自動車道(群馬県渋川市~長野県東部市)が地域高規格道路の指定を受ける。
1995年・平成7年
建設省、第二次土地利用計画として代替地の計画案を発表。
1999年・平成11年6月
水没五地区の代表による連合補償交渉委員会(萩原明朗委員長)が設置される。
1999年・平成11年7月
「八ッ場ダムを考える会」発足。
2001年・平成13年6月
「利根川水系八ッ場ダム建設事業の施行に伴う補償基準」に水没五地区連合補償交渉委員会が調印。これより個別補償交渉が開始される。
2001年・平成13年9月
八ッ場ダムの完成を2010年度に延長する基本計画変更を告示。
2003年・平成15年11月
国土交通省、八ッ場ダム事業費変更案(2110億円→4600億円)を発表。
2004年・平成16年9月
八ッ場ダムに関する基本計画の二度目の変更が告示され、事業費が4600億円に増額される。
2004年・平成16年9月
八ッ場ダムをストップさせる市民連絡会、関係各都県に対して住民監査請求。
2004年・平成16年11月
同会各都県の「ストップさせる会」は、八ッ場ダム事業への支出差止めなどを求める住民訴訟を各地方裁判所に起こす。
2007年・平成19年 6月
水没予定地の代替地の分譲を開始。
2007年・平成19年12月
国土交通省、事業工期を2015年度末に延長する計画の変更が必要になったと公表。
2008年・平成20年9月
八ッ場ダムの事業工期を2010度→2015年度に変更し、建設目的に「発電」を追加する第三回目の計画変更が告示される。
2009年・平成21年1月
国土交通省、八ッ場ダムの本体工事の入札を官報で公告。
2009年・平成21年 4月
八ッ場ダム推進議連1都5県の会発足。
淡々と読んでいっても、ダム建設中止を訴える地元民と、それを押さえつけ計画を変更しながらもダム建設を推進してきた国・県・町の関係が分かろうというものだ。
倍以上に増額された4600億円の予算の7割(3200億円)がダムの本体工事未着手・各種付替え工事完了5~10%・鉄道だけが75%完了の時点で既に使われてしまっている。
今日は詮索しないが、“住民への補償金”と言う名の「地元対策費」の支払にも、かなり問題があるようだ。
新聞には各戸別で補償額が異なるため詳細は秘密とのことで公表されていないが、噂(不確実情報)として1件(家)10億円出したところもあるように書かれている。
いずれにしても、これだけマスメディアが『中止反対』報道ばかりする裏には、長期独裁政権による癒着の構造、即ち、先に書いた保守王国のお国柄や、ダム受注業者等に176人の天下り官僚が巣食っている、といった事情が見え隠れしている。
また、次回からもとのシリーズものに戻したい。今日はこれまで、またね。