無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

また雑感

2008年09月26日 | Weblog
前回の水俣病についての「専門家の風土病説」は私の思い込みで、少々訂正が必要のようだ。

ただ、水俣病については、“差別”という、もっとひどい事が起きていた。

水俣病…ウィキペディアより

既に1942年頃から水俣病らしき症例が見られたとされるが、顕在化したのは1953年頃からである。この頃より水俣湾周辺の漁村地区を中心に猫・カラスなどの不審死が多数発生し同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)

当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。
原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。

水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった

その事が現在も差別や風評被害につながっている。…引用終り


M:公害病だと分かった=チッソが海に垂れ流した廃水のメチル水銀が原因でその海域・流域で捕獲された魚介類を摂食していたために発病したことが分かったのち、消費者は当然その海域の魚介類を敬遠、水俣の漁師は生活の道を閉ざされてしまった。

被害者なのに差別される。今の公開された三笠フーズの事故米流通先(お菓子屋さん等)と似ている。

本当に悪いのは誰なのか?

肝臓ガンの発生原因をつきとめるのは困難だ。それをいいことに悪いこと(国民を殺すこと)を平気で行なう…許しがたい行為だ。

水俣病が公害病と認定されるまでの経緯がウィキペディアに載っていたので参考までに引用しておく。

(引用開始)
既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされるが、顕在化したのは1953年頃からである。
1956年になって、新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。

1958年9月、新日窒水俣工場は、アセトアルデヒド酢酸製造設備の排水経路を、水俣湾百間港から不知火海(八代海)に面した水俣川河口の八幡プールへ変更した[7]。しかし、1959年3月から水俣病患者は、水俣湾周辺に留まらず、水俣川河口付近及び隣接する津奈木町や海流の下流部にあたる鹿児島県出水市と不知火海沿岸全体に拡大していった。このことによってアセトアルデヒド酢酸設備排水が水俣病を引き起こすことは明らかになった(これを「壮大なる人体実験」と水俣病関係者は呼んでいる)。

1959年10月、この事実を知った通産省は新日窒に対しアセトアルデヒド製造そのものの禁止はせずに、アセトアルデヒド製造工程排水の「水俣川河口への放出」のみを禁止した。新日窒は通産省の指示に従い、排水経路を水俣川河口から水俣湾百間港に戻し1968年まで排水を流し続けた。

また、同じ1959年の10月に新日窒附属病院の細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告している(猫400号実験)。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた[8]。

同じく1959年には熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表しており、水俣病の原因が新日本窒素肥料水俣工場から排出された水銀である疑いが濃くなった。同年11月12日には厚生省食品衛生調査会が水俣病の原因は有機水銀化合物であると厚生大臣に答申したが、その発生源については新日窒水俣工場が疑われるとの談話を残すに留まり、直接答申者である調査会の「水俣食中毒特別部会」は翌13日に解散させられた。この水俣病の有機水銀原因説に対して新日本窒素肥料や日本化学工業協会などは強硬に反論した。

1960年、政府は経済企画庁、通産省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足させて原因究明にあたらせたが、何の成果も出すことなく協議会は翌年には消滅している。

このころ、清浦雷作・東京工業大学教授はわずか5日の調査で「有毒アミン説」を提唱し、戸木田菊次・東邦大学教授は現地調査も実施せず「腐敗アミン説」を発表するなど、非水銀説を唱える学者評論家(御用学者)も出現し、マスコミや世論も混乱させられた。

一方、1959年12月30日には、新日本窒素肥料は水俣病患者・遺族らの団体と見舞金契約を結んで少額の見舞金を支払ったが、会社は汚染や被害についての責任は認めず、将来水俣病の原因が工場排水であることがわかっても新たな補償要求は行わないものとされた。同時に工場は、汚水処理装置「サイクレーター」を設置し、工場排水による汚染の問題はなくなったと宣伝したが、のちに「サイクレーター」は水の汚濁を低下させるだけで、排水に溶けているメチル水銀の除去にはまったく効果がないことが明らかにされた。このほかこの年には、新日本窒素肥料は、排水停止を求めていた漁業組合とも漁業補償協定を締結した。これらの一連の動きは、少なくとも当時、社会的には問題の沈静化をもたらし、水俣病は終結したとの印象が生まれた。実際には、それまで水俣湾周辺に限られていた患者の発生も、1959年始めころから地理的な広がりを見せており、このあとも根本的な対策が取られないままに被害はさらに拡大していった。その一方、声を上げることのできない患者たちの困窮はさらに深まっていった。

政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。
1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。
(しかし)この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。このとき熊本水俣病が最初に報告されてからすでに12年が経過していた。なお、厚生省の発表においては「熊本水俣病患者の発生は1960年で終わり、原因企業と被害者の間では1959年12月に和解が成立している」などとして、水俣病問題はすでに終結したものとした…後略。(引用終り)

M:この政府の対応は何なのだ!と昔、私が感じた怒りが蘇った。

次に関連しているというか、肥大化し国民の代表である国会議員の言うことを聞かない(=国民を無視して)私利私欲に走るエリート官僚についての記事を引用してみる。



ここまで書いて、数日経ったら他に書きたい事が出てきたので中断する。本当に毎日毎日新らたに「日本国がイヤになる」出来事が湧き出てくる。

これも集中し長期化して腐敗してしまった政治と、それに媚を売るマスメディアの“国民洗脳”報道のせいだ。

次回はそのことについて纏めて、なるべく簡単に書いてみたい。

何故、アメリカの下院議員の任期が2年なのか?民主党と共和党からほぼ同数の大統領(任期=4年、2期まで)が交代で出ているのか?
今度の選挙も政権政党へ、と考えている日本国民は、今、日本が採用している政治体制=議会制民主主義を知らない、“B層”どころか、国が国民に毒を盛ろうが何もいえない知的障害者といえる。(M:私のような老人から言わせるとこのような言い方はイヤなのだが…)

前にも言ったように、賞味期限4日(乃至8日)の鮮魚を50~60日経ってもまだ食べようとしている。

私などは気持悪くなって吐き気を催しているのだが…。

わが国の総理大臣が国民に対し何をやってくれるのか、と見ていた所信表明演説は見ていて思わず途中でテレビのスイッチを消してしまった。また点けたのだが…。