無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

昔は良かった、ではダメ・・・「日本人の秩序感覚」まとめ

2008年09月05日 | Weblog
更新が途絶えてしまったが、これは「貧すれば鈍す」で私の日記を書く精神的余裕が全く無くなってしまったことに起因する。
他人のブログを垣間見て、書きたいことは山ほどたまっているのだが、日記に書き留めるほどには自分の頭の中で理解・整理できていない。

でも1ヶ月以上も更新の無い私の日記に「今日は更新されているかな?」と尋ねて来てくれる人に悪いと思い、まとまるか分からないが、更新しようと筆を執った。

日本人の「社会生活に於ける秩序感覚」について3回にわたって書いた。
「祭り」の役割、“ご先祖様”(古代神道)等、まだまだ書かなければ全体を理解してもらえないのだが、ここで少し纏めてみたいと思う。

今日の日記の結論は、タイトルのように「昔は良かった」「今の若い者は…」と、復古主義に走り「昔のやり方に戻そうとするのは間違っている」、というもの。

◎蹟を以って人を観れば、即ち人を知るに足らず。

蹟を以って古(いにしえ)を師とせば、即ち以って古(いにしえ)を願うに足らず。


さて、本題に入る前に先日の櫻井よし子氏の「秋葉原事件は日本国憲法のせい」発言を、ものの見方・考え方が出来ていない現代人の典型として取り上げておく。
「今の憲法のせいで、国民は権利ばかりを主張し、義務を怠り利己主義に走った結果、この様な事件となった。憲法を改正して国民の義務を明確にしなければならない。」といった“最初に結論ありき”の論法である。

この種の発言例として、

■「ガソリンの値段を下げたら、日本は『環境問題に不熱心な国』という烙印(らくいん)を押される。国際的な評価は取り返しがつかないものになる。」

■「この新法(新テロ特措法)が成立しなかったら、日本は『国際貢献をしない国』という烙印を押される。国際的な評価は取り返しがつかないものになる。」…上と全く同じ言い回し

■「日銀総裁が1日たりとも空白になる事など決して許されない。日本経済が混乱し、世界の信用を失墜する」

■「給油活動継続は、国際公約だから…」

■アフガニスタンで誘拐された民間活動団体(NGO)「ペシャワール会」職員、伊藤和也さんが、遺体で発見された。
日本としては、アフガンの平和と安定を回復する国際社会の共同行動の一翼を担う態勢を堅持する必要がある。
アフガンでは、40か国の部隊が900人超の犠牲者に耐えつつ、治安維持や地域復興活動に従事している。それと比べれば、極めて危険が少ない給油活動さえもやめるようでは、日本に対する国際社会の評価は地に墜(お)ちるだろう。
アフガンを安定させ、テロを撲滅する戦いは、日本にとって決して人ごとではない。来月召集の臨時国会で、給油活動延長のための新テロ対策特別措置法改正案を成立させることは必須の課題だ。(読売新聞・社説)


挙げていったら切りが無いほどある。

本題に入る。

私は前に、明治末期には既に「道徳の荒廃」「公共心の欠如」が問題にされていたことを指摘し、今日の状況(上記の様な問題)が決して「日本国憲法」によるものではない、と書いた。

では、どこに原因があるのか?

直近の秋葉原事件の様な事件発生の原因(起爆剤)は、天木氏が指摘するように…。

(引用開始)
23日の報道で、知的障害者に暴行を繰り返した少年たちの事を知った。

知的障害者という絶対的な弱者に暴力を加えるという行為そのものが許しがたい事であるが「自分より弱そうな人を狙った」「身体障害者をいじめて何が悪い」と少年たちがうそぶいている事を知って、心底驚いた。(M:ホームレス襲撃しかり)

本当に驚いた。日本という国が悲しくなった。
私も色々な国に勤務してきたが、これほど人間の心がすさんでいる国は見たことがない。

これほど人間性にもとる若者がいる国は見たことがない。

どんなに貧しい国でも、どんなに政治体制が非民主的な国でも、子供がここまで卑劣な国はなかった。

これは要するに日本という国がここまで無節操になっているということではないのか。

国力とは畢竟、“その国の国民の心の持ち方”である。
国民をここまで無節操にしたものは何か。理由はいくつもあるだろう。

しかし間違いなく政治、政治家の退廃だ。

今の政治状況を見るがいい。あまりにも無能、無責任ではないか。
国民のための政治から離れ、自己保身・生き残りに汲々としていると思わないか。

そして、そのような政治・政治家を放置し、政治をおもしろおかしく取り扱ってきたのがメディアであり、それを許してきたのが我々国民なのである。…引用終り


少し横道にそれるが、昔、若者が犯罪で逮捕された時に「社会が悪い」「政治が悪い、政治のせいだ」といった発言が聞かれ、私はその時「何を甘ったれた考え方しているんだ」と思ったものだ。だが、罪を犯し刑期を終えて出た来た人が“前科者”として働き先が見つからず、刑務所に戻りたくて無銭飲食をし逮捕された事件とかを見ると、シャバ(世間・社会)の風が冷たく、また刑務所に入れば飯が食え、餓死しないで済む、と考えてしまう「社会」は“全く問題が無い”とはいえないのではないか。
全て「自己責任」で済ませては問題解決にならないし、ましてや権力者のやりたい放題を規制している「憲法」の改正では、たとえ“国民の義務”の名のもとに国民を教練し厳罰主義を採ったとしても、それは表面的なもので、決して問題は解決しないと断言できる。自分では死ねないので、誰でもいいから殺して“死刑になりたかった”と考える人を根絶することは憲法改正では不可能なのである。


話を元に戻そう。

少し頭を柔らかくしてここから先を読んでほしい。

「99.9%は仮説」のように貴方の“常識”として考えている、その頭の中の考えを一旦クリヤーして読み進んで下さい。
そうしないと「エコ」(地球環境に優しい)「消費者」(消費者本位)「心の豊かさ」(“もったいない”等、“清貧”の薦め)の嘘に気が付きません。

この解答は「反戦な家づくり」さんのブログに出ています。(上は同ブログのパクリです)

例えば「心の豊かさ」ですが、5人に1人が年収200万円以下という、物質的な豊かさを求められなくなった今の政治状況(社会)の中で「心の豊かさ」を持ち出すことは、“贅沢は敵だ”とか“欲しがりません、勝つまでは”と同じく、“政治の貧困”を国民の心の問題(“痛みを分け合って我慢しろ、我慢出来ない日本人は我儘な利己主義者だ”⇒憲法を改正しなければならない)にすり替えようとする企みが隠されているのです。

また横道に逸れた感があるが、先を進める。

今あなたの頭の中にある“常識”、生まれてこのかたドップリと浸かってきた社会常識、それは「西洋文明の常識」であり「資本主義経済の常識」なのです。

私はいかなる時代の社会秩序感覚も、その時の経済システムに影響されている、と述べた。このことを念頭に置いておいてもらいたい。
そしてもう一つ、今の日本の経済体制が『資本主義経済』であることを否定する人はいないだろう。日本は江戸時代まで自然村的社会秩序、極論すれば自給自足的な経済体制だった。それが明治維新以降、外圧により=列強諸国に植民地化されないために「和魂洋才」「採長補短」を合言葉として西洋文明(主にManufacturing)の摂取に邁進した。

その結果、日本人の秩序意識に何が起こったか。

難しく言えば、日本ではテンニエスのゲマインシャフトからゲゼルシャフトへといった歴史の必然的な過程を経ずに外圧対抗上、形式的にゲゼルシャフト化が進められた為、その精神的歪み(秩序感覚の歪み)は、こんにちも尚、やれ“日本の伝統”だ“日本の文化”だ“職人工芸”だ“武士道精神(大和魂)”だ“隣人助け合い(相互扶助)”だ、といった強烈なゲマインシャフトへの回帰願望となって噴出している。

簡単に言えば、「昔は良かった」である。

それでは「昔は良かった」と感じさせる要因となった“西洋文明の取り込み”は如何なるものだったのか、その西洋文明の精神を取り入れてこんにちの日本人社会の常識になっているものは何か、について書いてみたい。(ここからは『西洋文明の常識』のパクリで構成されています)

今、日本に限らず世界は西洋文明に支配されています。西洋文明の経済システムは「資本主義経済」です。

M:最初に断っておくが私は共産主義者では無い。
こんな“ことわり”を入れておかないと、政府を批判する新聞=“偏向”新聞と同じで、資本主義経済を批判する人=共産主義者(アカ)と決め付けられる、そんな“いやな”時代になった。その為なのだろう『西洋文明の常識』では、“資本主義経済”という言葉を使わずに“西洋文明”としている。中身はほとんどが“資本主義の常識”である。


資本主義経済原理は、自由競争=弱肉強食の生存競争の世界であり、“略奪”“搾取”の世界であり、金儲けの世界であり、大量生産~使い捨て(大量消費)の世界である。

M:また横道に逸れるが、共産主義は資本主義の欠陥を指摘して登場した。
そこでは資本家による労働者の“搾取”が言われ「労働者はこの革命において、鉄鎖(あなたを奴隷として縛り付けているクサリ)の他に失うものは何も無い。労働者が獲得するものは“世界”である。万国の労働者よ、団結せよ!」と説かれた。
資本主義経済は市場経済である。産業革命により大量に生産した商品は市場(消費地)が必要なので列強諸国は市場を求めて世界各国を植民地化していったが、共産主義経済は一国完結型の経済であり、資本主義経済の市場原理に反するものであった。市場拡大が至上命題の資本主義国は、自分の経済体制の批判から出現した市場拡大を阻む社会主義国を放置するわけに行かず、ここに自由主義経済圏と社会主義経済圏の対立が起こった。
私が長々と横道に逸れてまで言いたかったのは、この資本主義経済体制諸国が、本来なら弱肉強食の殺伐とした世界となる『自由競争』の“自由”という言葉を使い、資本主義VS社会主義を“自由主義”VS社会主義とした点である。
イメージは、自由な国VS不自由な国となっている。
国民はイメージに騙されないで本質を捉えて欲しい。
竹中平蔵が進めた「新自由主義」で日本がどうなったか。
日本人はそれまで「女工哀史」や「蟹工船」といった時代を経て資本主義の欠陥に気が付き、それを日本的に修正して今日まで来たのだ。
それを小泉・竹中ラインで新“自由”主義といった資本主義の欠陥を前面に打ち出した政策で、もうすっかり忘れていた言葉=“搾取”が思い出され、「蟹工船」が若者達に実感として受容れられることになった。
日本企業のグローバリゼイション(国際経済での生き残り)の名目のもと、新自由主義が施行され、その結果として、もたらされたものは、大企業の7年連続しての“史上最高を更新”する決算(儲け)と8年連続しての国民所得のダウンであり、格差社会・ワーキングプア・生き残りを掛けた戦い=「勝ち組・負け組」・弱者切捨て(弱肉強食の競争社会では“自己責任”)・福利切捨て(医療費・高齢者・生活保護)により餓死者が出る、自殺大国の日本となってしまった。

昔は経済に活気があった、だから「昔は良かった」と安直に新自由主義政策を掲げることは、昔の資本主義の失態(女工哀史や蟹工船)を再現させるだけである。

『西洋文明の常識』を書く入り口で“批判”ばかり言うと、分かって貰えない人が出てしまう懸念があるが、今日はその“批判”で終わってしまった。
次回から何回かに分けて書くことが私の言いたいことです。今日はここまで…またね。

追:村野瀬さんのブログに次の資料が載っていた。

(引用開始)
1989年 竹下内閣が消費税3%導入。
この年、企業の法人税率は42%から40%に、更に翌年は37.5%に引き下げ。
1997年 橋本内閣が消費税率を5%にアップ。
翌年には法人税率が34.5%に引き下げ。

以来19年間で、国民が負担した消費税総額は累計で188兆円。
一方、企業の法人税は、同じ期間累計で159兆円減った。
大企業の減税分をそっくり、消費税が賄ったと言う事が数字にはっきり出ている。…引用終り

政府が言う“消費税を上げなければ…”は、やっぱり、何か“おかしい”よ。