無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

誰も私の代わりに死んではくれない

2008年01月25日 | Weblog
「誰も私の代わりに死んではくれない」…この自覚から実存主義は出発する。

人は生まれたときから、時期は分からないが「死ぬこと」が確実に約束されている。

圧倒的権力を誇った秦の始皇帝でさえ、徐福に「不老不死の薬」を求めさせたもののかなわぬ夢と終わっている。

今までと書き方が変ってしまったが、たまにはいいだろう。

私は、哲学のような難解な言葉を使った精神論・存在論が余り好きではない。ただ、今の多くの現代人のように正しい価値判断が出来なくなった人や、それゆえ“仮想的優越感”で、他人を先行否定することで自分の存在を認めよう(周りに自分の存在を認めさせよう)とする人にとっては、“人は何故生きるのか”“何故自殺はいけないのか”“何故、人を殺してはいけないのか”等を考えることは、大切なことだと思う。

「生きていくのに必死なのに、そんなの考えている余裕などない」「大人の言葉遊び」等々批判する人は「貧すれば鈍す」を地でいっている人であり、「衣食足りて礼節を知る」という言葉を忘れてしまっている人である。

こういう人達は、直ぐ「極限状態」の話をする。
昔、小学生の頃仲間と議論した「一本の丸太」の話である。海で遭難し自分が一本の丸太に摑まって浮かんでいるときに、他の遭難者がその丸木に摑まろうとした、摑まらせたら二人とも重みで沈んでしまう。その場合、自分が助かるために相手を蹴って海面に沈めようとするだろう、それが人間の本性だ、いや違う、摑まろうとしている遭難者が自分の子供だったら、その子を摑ませて自分は海底に沈んでいくといった行為もとるだろう、それが人間だ、といったような、人間の性善説・性悪説を問うたディベートであったと記憶している。

余談だが、戦争で沈み行く艦船からボートで脱出した上官たちが、海に投げ出された兵隊がボートにしがみつこうとするのをオールでその頭を殴りつけ海に沈めている光景を生き残りの兵隊さんが証言している。

こういった知識を学校で習わなかった、ディベートをしてこなかった『ゆとり教育』で育った人は、上記の例のような「緊急避難」や自分が殺されそうになったときの「正当防衛」を理由に戦争行為を「止むを得ないもの」と肯定してしまう。

人間も動物だから「弱肉強食の世界」であり「人類の歴史は戦争の歴史」となる。
従って戦争は必然であり、必要悪でもある。…この意見は私の日記の最初のほうで否定しているので見て欲しい。

これは、人間が「考える葦」であり「言語」によって他の動物より以上に他人に自分のことを複雑に伝えることが出来、それにより他の動物に無い社会・文化・文明を築いてきた「現実」を考えない理論である。あとで引用にでてくる「考え過ぎ」の人々なのです。

なぜ殺してはいけないのか ~人類の歴史は流血の歴史です~

仏教の教え=A・スマナサーラ長老

人を殺してはいけないということを、ただ単に当たり前のことだと思わないで、誰にも否定できないような理由を、論理的に、成立させておくべきです。
もし「人を殺してはいけない」が当たり前であるならば、人は人を殺さないはずです。
しかし今までの人類の歴史をかえりみると、見いだされるのはただ一つ、殺戮・殺し合いの歴史です。いろいろな理由をつけて、ある大量殺人者は英雄に、ある大量殺人者は悪人に仕立て上げられ、ほめたりけなしたりされる。現代でも、地球上のどこでも、限りなく人殺しが行われています。国同士で、土地のために、民族が違うということで、殺し合う。肌の色が違うという理由で殺し合う。得体の知れないものを信仰しているにもかかわらず、信仰対象が違っただけでも殺し合う。母国語が違うというだけで殺し合う。大量の財産、金、権力を持つ人々は、それを守るために殺す。財産も金も権力もない人は、それらを奪うために殺す。身を守るために、相手が怖いから、自分が殺されかけたから、いじめられたから、また、いじめるためにも殺す。ひどいことに、ムズムズしていたからたまたま出会った人を殺しました、別に誰でも良かったという言い訳でも、人は殺される。

追求して考えると、「殺すなかれ」の意味は「私を殺すな」ということです。精神的に追いつめられていない限り、殺して欲しいと思う生命はありません。殺して欲しいと思うどころか普通は、叱られることも、無視されることもいやがります。「自分を殺して欲しくない」ということを、他人にあてはめれば、人を殺すなということになります。人を殺してはいけないということが当たり前だと思っているのは、自分を殺して欲しくないと思うことが確固たる事実だからです。それでもなぜ他を殺すかというと、他を殺してでも自分が幸福に生きたいと思うからです。他を殺したら自分も殺されるとわかれば、殺すことをためらいます。故に法律によって、私たちは死刑、終身刑、などで脅されて、人殺しを押さえられています。一方、自分が安全であるならば、他を殺すので、弾道ミサイル、パトリオットミサイルなども開発しているのではないでしょうか。科学の発展の名のもとに、自分の安全を確保したうえで、よりたくさん、また放射能などでじりじり時間をかけて曾孫の時代まで人を殺せるように努力するこの世界は、あまりにも非論理的で残酷です。
 私を殺すなということは、人を殺してはいけないという意味です。私は殺されてもよいと思う人は他人を殺す必要はないのです。何か得することがなければ、他人を殺すことは無意味です。死にたい人に「得」は成り立ちません。そういう人はすぐ自殺します。人が生きているということは、自分が殺して欲しくないということですので、それは他人を殺すなということになります。より普遍的に言えば、人は幸福で長生きしたいのですから、殺してはいけないのです。自分も他人も生きていきたい、死にたくはないと本来思っているので、誰も殺してはいけないのです。

今までのまとめ
•自分の命さえ安全であるならば、殺意を抱く可能性を、みんな持っています。
•自分を殺して欲しくない人は、決して他を殺すべきではありません。

自分は殺されたくはない、という気持ちは、すべての生命が持っています。
…無風注:生存本能といいます。…
「私」を理解すれば、この論理は、簡単に理解できます。
「私は殺されたくない」「幸福に、楽に、長生きしたい」という気持ちは普通です。ですから、我々は生まれたときから必死になって、生きていこうと努力しています。知識として、自分に対する自我意識が現れたら、自分で頑張って生きていることに、また、死を嫌っていることに気が付きます。不思議なことに、自我意識が生まれる前の胎児の時も赤ん坊の時も、生きるために、無意識のうちに必死になって頑張っているのです。「私を殺すなかれ」という気持ちは意識のみならず、無意識のレベルにまで浸透しているのです。これは生命の本能です。自分をモデルにして他の生命を観察すると、生きていきたい、殺して欲しくない、という気持ちは、すべての生命に普遍的であることが発見できます。

 生きたくない、と思う生命なら、努力して苦労して生きる必要はないのです。そのような生命は喜んで自殺を考えるでしょう。でも問題は、自殺の瞬間まで、その生命が苦労して生きてきたということです。いろいろな問題に出遭って、発作的に、自殺という決断になってしまうだけです。もし、生命が生きたくないと思うものであるならば、将棋倒しのようにパタパタと死んでいくでしょう。もし生命が、生きていたくない、死にたいと思う存在ならば、生まれてすぐ、あるいはまた、生まれると同時に死んでしまうでしょう。そうすると、生を持つ瞬間に死んでしまいますので、生命というものがなくなってしまうはずです。しかし事実は、限りない生命がいて、皆必死で生き続けるための努力をしているのです。

すべての生命が、生きていたい、殺されたくないという気持ちを持っている、というのは確固たる事実です。

 死ぬことはとても簡単です。生きることは、逆に、大変むずかしいことです。この事実をよく考えていただきたいのです。にもかかわらず、限りない生命がいて、そのすべてが必死で生き続けたい、死を避けたい、と努力しているのです。我々のまわりに生命がいること、そしてここに私が生きていることが、「生命は、楽に幸せに、長生きしたい、死にたくない」という事実を物語っているのです。努力もせず、何もしないでいるならば、すぐ死んでしまうはずですので、生命はいかなる苦労もいとわず、生きのびるために努力しているということがいえるのです。

 生きるために、他の生命の協力、支えなどは、もっとも必要であり、もっとも大事な要素です。他の生命からの支え、協力、助けなどがあればあるほど、自分は幸せに生きていられます。生きている生命の成功の度合いを測るポイントも、他の生命からの協力と支えを得ているかいないかという点にかかっています。他の生命に迷惑をかけたり、妨害をする人には、他からの協力はなくなりますので、不幸になってしまいます。時には、守りたがっている自分の命さえも失う場合があります。「幸せになりたい」「病気になりたくない」「長生きをしたい」「楽に生きていきたい」と思うならば、またそれらの希望を実現したいならば、方法はただひとつです。自分に関わりのある一切の生命に対して親切であること、慈しみを持つこと、協力すること、助け合うことです。

私が幸せになりたい、ということは、全ての生命は幸せになりたいということです。あなたがたはどうなってもよいのです、私だけ幸せになりたいのです、という論理は成り立ちません。幸せは他人の協力によって実現できるものですから、「私だけ」と思う人の幸せは、あとかたもなく、無惨にも消え去ってしまいます。「人を殺してはいけません」という一般的な言葉の意味、また仏教でいう「生命を殺してはいけない」という言葉の意味も、「私を殺すなかれ」ということだと先月号でお話ししました。私が死にたくない、私を殺すなかれ、という本能は、一切の生命が死にたくない、殺されたくないという事実を示しています。ですから、仏教において論理的な道徳は「人を殺すなかれ」ではなく、「生命を殺すなかれ」です。「不殺生」なのです。
 他人を殺す人は「私を殺すな、でも私はあなたを殺す」と思っているのです。他人をいじめる人は「私をいじめるな、でも私はあなたがたをいじめる」と思っているのです。私を殺すな、でも私はあなたを殺したい、私のものを盗むな、でも私はあなたのものを盗みたい、私をいじめるな、でも私はあなたがたを思う存分いじめたい、という理屈は、いかなる場合でも成り立ちません。そう考える人は、究極的な無知であり、何の理性も持たない人でしょう。「他を殺してはいけない」ということだけは、絶対的な論理です。人に「生きていきたい」という本能があるならば、絶対に、他を殺してはいけません。他を殺す人々は、ただ単なる、無知そのもので、自分の手で自分の首を絞め、殺しているのです。

ここまでのポイント

•人の幸せと成功は、他の協力によります。
•他をいじめ殺す人々の行動は、自分が究極的に無知であることを表しています。
•自分が殺されたくない生命は、他を決して殺してはいけません。

無風注:私はこの「仏教の教え」の生存本能から発生している社会が複雑化したことによる様々な欲について話そうと思ってここまで書いたのだが、今日は、この仏教の教えに書いてあった次の言葉で締めておく。全く纏まっていないが又今度…。

■なにかの問題について考える場合は、なんでもかんでも無差別に考えるのではなく、問題が起きた条件の中で考えるものです。どんな思考でも思考自体には、それほど価値あるものではないのです。単なる観念にすぎないのです。思考に価値があるのは、その思考が実践可能なときだけです。

やはり、少し上の言葉が出てきた背景も載せておかないと、ピンと来ないのでは?と思い、下記に継ぎ足した。

質問:肉や魚や野菜を口にしている私たちは「不殺生戒」を犯していないと言いきることができるのでしょうか。

答え:関係があることは確かです。でも、殺生罪には、自分で殺す、あるいは命令して殺させる、という二つのいずれかの条件が必要です。この場合はどちらにも入りません。

でも、世の中には考えすぎの人々がいます人生における単純な問題でも解決できない割に、ものごとをどこまででも考えてしまうのです。(正当防衛や緊急避難)

彼らは、観念的な答えを見つけるのですが、実践性には欠けているのです。

関係があるだけで、罪になる場合もならない場合もあります。子供が人を殺したとします。もしかすると親のしつけがよくなかったかもしれません。でも、罪を問われるのは、犯人である子供本人であって親ではありません。

会社のためを思って一人の社員が間違いを犯し、告訴されることになった場合でも、社員全員を告訴はしません。犯人だけです。考えてみれば、皆、関係あるのですが。

この世の中で銀行強盗が起こるでしょう。それは社会全般の経済状況が公平でなかったせいで、ある人に収入が入らないようになったからかもしれません。あるいは社会全般に、豪華に贅沢することを賞賛する風潮が蔓延していた結果で、彼には、銀行強盗しか大金を手に入れる方法がなかったのかもしれません。どちらにしても、社会全般に関係があるのです。

戦争も、原子爆弾も、テロや破壊活動も、社会全般に関係があるのです。つまり、どこかで誰かが誰かを殺したならば、ここにいる私も犯罪者になるということです。
このような結論は、あまりにも屁理屈であり、考えすぎであることを理解できると思います。世界がすべて平和で、幸せであるようにと皆努力するべきですが、それはそれほど早い結果が得られるものでもありません。そこまで個人は待っていられません。人生は短いので、とりあえず、自分の一生で罪を犯さないように努力することは具体的で合理的です。
 
殺生戒の意味は「君は、他を殺すな」ということです。

それくらい、誰にでも実践できると思います。

「あの人が殺生している」ということが、あなた自身が困るほど関係あるのなら、やめさせるようにしてほしいのです。

関係ないなら言ってもきかないでしょう。世界全般をよい方向へ持っていきたければ、皆で努力するか、他に命令できる政府などの機関(警察・裁判所・国際機関)に言ってみるしか方法はないのです。

この言葉の最後に上の■の言葉が続きます。

本題とは関係ないが、実存主義の言葉を幾つか載せておく。あなたは簡単にこれらの言葉を否定しないことだ。少なくともあなたよりは考え抜いた人達の言葉である。

■私達は誰一人として、いささかも、そこにそうしていることの理由をもたなかった。なぜ、ここであってあそこでないのか? なぜ、今であって過去や未来でないのか?…分かりやすくいえば、何故私は日本人の貧乏な家庭に生まれてアメリカの富豪の家庭に生まれなかったのか?何故江戸時代やドラえもんの時代ではなく現在なのか?

■全ての存在は偶然であった。偶然=無意味・余計なもの

■人間は一つの無益な受難である。―「存在と無」(サルトル)

■人間は深淵に架けられた一本の綱である。
渡るも危険、途上にあるも危険、後ろを振り返るも危険、身震いして立ち止まるのも危険。
―「ツァラトゥストラ かく語りき」(ニーチェ)―

■ただ一人への愛は一種の野蛮である。なぜなら、それは他の全ての者の犠牲において行なわれるからだ。神への愛もまた同じだ。
―「善悪の彼方」(ニーチェ)―