無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

衣食足りて礼節を知る

2008年01月07日 | Weblog
前回の続きで『■敵・差別民・下級層をつくって国民の不満をそちらに転嫁する』のテーマで書こうと思ったのだが、正月の他のブログを見ているうちに気が変った。

上記テーマで(1)士農工商の身分制度に於けるエタ・ヒニン (2)ナチス・ドイツのユダヤ人、皇国日本の朝鮮人 (3)秀吉の朝鮮出兵(権力者=農民出の秀吉に対する武家社会からの批判・不満をかわす為)等をもとに、今の政府のやり方の具体例を挙げてみたかったのだが、あとにする。

■貧すれば鈍す

今日のテーマの別の言い方である。以下、色々な人のブログを無風老人得意の『くっつけ』で自分の意見の様に書いてみた。

昔は、「テレビが国民を『一億総白痴化』する」と言われた時代があった。今は、“国”が国民の教育訓練を支配しマスメディアを使って、すべての国民の思考を停止させようとしている。

少し余談であるが、教育基本法が“改正”され、国が国民の教育訓練を行なうことになり、それを、地方自治体に押し付けた(地方自治体が計画を立て訓練を実施しなければいけなくなった)ため、各地方で行なわれるその『訓練』が、やたらとニュースに取り上げられている。今日もどこかの地方で『被災地』新潟の人を招聘し災害に対する講演・討論会が開催される、といったニュースが流されていた。都道府県・市町村で計画を立て訓練を実施しなければならないため、毎日『訓練』のニュースが意図的に流されることになる。

私が恐ろしく感じたのは、私の住む町に回ってきた広報車のアナウンスである。
「こちらは『第十三分団』です。空気が乾燥しています、火の元には充分注意してください。」
何故、「○○(=地方名)消防署です」ではないのか?
「こちらは、『第十三分隊』です」といった軍隊の広報アナウンスに慣れさせる為の布石か?と、おもわずゾッとした。

余談はさておき、本題を続ける。

昭和33年に教育指導要領が法規化され、以来、国が『教科書検定』等で教育に干渉してきたのだが、もっとも教育内容が難解だった'70年代(=国民に考える力がついていた時代)に、自民党支持率が極小値をとった。

当時の教育は、『詰め込み教育』と言われ批難され、政府によって『ゆとり教育』へと転換された。

しかし、子供は、躾けられ、模倣し、知識を詰め込み教養をつけ、大人になっていくのである。
『スルメを見てイカがわかるか』で養老孟司氏は「落語の修業のように師匠の模倣を突き詰めていくと、どうしても師匠に似ない点が出てくる。それがその人の個性だ。」といっている。
即ち、子供は知識を詰め込まれ、躾けられ、模倣して学習した後に、個性が出てくるのであって、「『詰め込み教育』は子供の個性を潰してしまう。子供の個性を生かす『ゆとり教育』を!」は『偽』である。

■『教養を身につける』ことは『他人の事を思いやる心を持つ』ことだ。

上記の意味が良く分からなかったので、『教養』についてネットで調べると…。

「教養とは何か」別府昭郎(明治大学教授)…全部は略、必要な部分のみ引用。

  3 態度決定、判断力としての教養

    自然、人生、社会におけるある生活態度・精神態度の形成

  4 情報を消化し、意味づけ、発信する力としての教養
 
    •情報を入手する(聞く、読む)
    •過去の経験や情報と新しく入手した情報とつきあわせて、意味・関連を読みとる  
    •判断・決断する
    •発信する
    •反応をみる  
    •結果を考える、反省する 

  こうして身に付けた『教養』によって、

    1.事実と解釈(主観的判断)とのちがいの認識
    2.他人の意見と自分の意見(解釈)の峻別
    3.客観的事実と主観的印象(思いこみ)を明瞭に区別する

  上記の分別がつき

    *ものごとを論ずる最低の条件が満たされる。

     あることを論ずるばあい、それに関する基本的文献を読み、基礎的知識や考え方、概念を身につけ、
     基本史料にあたり、基本的な事実関係や歴史的事実を頭に入れておくのが前提条件となる。
     この前提条件が身に付く。   

    *問題の核心をとり出す能力が身に付く。

     どこに問題の核心があるか。混沌としてあいまいな事態の中から、それを腑分けして、問題の核心を
     とり出してくる能力が身に付く。

    *反論、説得する能力が身に付く。

     相手の議論の一つ一つを、具体的に事実をもって論拠を示して、反論していく。
     あるいは、部分的には、同じ意見になるところもある。


なるほど、こうして観て行くと、『教養』が『人を思いやる心』に通じることが分かる。

さて、'70年代の教育により知恵のついた国民の政府批判に業を煮やした政府文部省は『ゆとり教育』への転換を行ったが、これは「被支配層にはほどほどの教育を施しておけばよい、その上で、優秀な支配層が被支配層を導いていけばよい」と言った思想が背景にある。
『ゆとり教育』が支持された背景には前に述べた「個性の尊重」と同時に、三浦朱門(作家)の「私の妻(曽野綾子)は二次方程式も解けないが、日常生活に不便はない」とか「これからはかけ算の九九を言えなくて中学を卒業する子も出るだろう。すべての生徒がある程度のレベルをマスターできると思うのは錯覚だし、マスターさせようとするのも愚かしい」と言った考えが裏にあったからである。

さて、この『ゆとり教育』の結果…。

(他のブログ引用)
ひょんなことから高校生の授業を教室の後ろで観覧する機会があったのだけど教師が、わかる人?と聞いても誰も手を挙げない。どう考えても誰も分からないといった問題ではない。分かっていても手を挙げないのである。
ちょっと自分の記憶を遡ってみると、確か中学校にあがったあたりから手を挙げなくなった。
これはたぶん、小学校での教育の成果で「あまり平均から離れることはよくない」という生徒の“常識”が作用してるのかな、と思う。

で、気になったのは中学から高校にかけての6年間、こういう学生生活を過ごしていると、少なくとも授業では、ほとんど自分でacquire(獲得・取得)した知識ってほとんどなくて、inject(注入)された知識ばっかりになっちゃうんじゃないのかってこと。
スルメ...で、養老孟司が、「落語の修業のように師匠の模倣を突き詰めていくと、 どうしても師匠に似ない点が出てくる。 それがその人の個性だ」(前述)というようなことを言っていて、そうだとしたら ゆとり教育ってものすごくポイントを外してるってことになる。
だってゆとりを持たせようが、『自分で突き詰めていく過程』を経ないので個性なんて発露しようがない。

とりあえず、わざと出来ないフリをしないといけないような気持ち悪い状況はさっさと解消してほしい。
それともみんな「気持ち悪い」と思ってないのかな。…引用終り

無風注:幼稚園の運動会の“かけっこ”でゴールの前で先に着いた子供が後の子供を待って遅れた子供と一緒に手をつないで同時にゴールインさせる、といった考えにも似た「気持悪い」ものを感じる。

上記ブログは「スルメ…」の中の*教育は社会の構成要員としての“常識”を刷り込むためのもの、*日本が天才をなかなか生まないのは「子供=国民のあるべき姿」を平均という点として社会が了解しているから。つまり社会(政府)が生徒=国民の(教育)範囲として「ここからここまでの間にいればいいよ」と低レベルの平均点で押さえているから。を問題視してブログを展開している。

いずれにしろ、この「ゆとり教育」の成果はテレビの番組のいたるところで見ることが出来る。国民を『総白痴』にさせたテレビは、それを悟らせないために、より“お馬鹿さん”を集めたクイズ番組ともいえないようなバラエティ番組を企画し高視聴率を稼いでいる。正月に観た番組で、芸能タレントが質問を読んでそれに解答する、というのがあって、質問が読めなくて質問の意味が分からず視聴者の爆笑を買うのである。
例えば三択で「くり・くり?・くり?、このなかでXXものはどれ?」と質問を読む。その読み違えを推測して回答者が回答する形式で、この質問は「栗(クリ)・粟(アワ)・票(ひょう)、このなかで穀物(こくもつ)はどれ?」というもの。アワが正解。
前にも書いたが、他の番組でも「こんなこと分からない訳が無い」と人を笑わせる珍回答をするタレントを『ヤラセ』じゃないか、と家族に訊いたらテレビに出ているそのタレントは答えを『本当に知らないんだよ』との返事が返ってきたことがあったが、このときも家族は「これでもAさん(質問者)は勉強して以前よりマシになったのよ」と、その努力を称えて笑い転げていた。

白痴化した国民に、自分以上に『お馬鹿さん』をみせて優越感に浸らせ笑わせる番組も「如何なものか」と思うが、それ以上に『ゆとり教育』の成果を見せられた感じがして暗い気持になった。

日本では小学校・中学校までは『義務教育』である。
つまり、9年間は学校で勉強して『教養』を身に付けているはずである。9年間も「読み書き・そろばん(算数)」を教わっていれば、必ず読める“常識”的な字句を読めないタレント。政府が行なった『ゆとり教育』で、学校は9年間も子供に何を教えているのか?

『ゆとり教育』は政府が国民を支配しやすくするために、国民の教育水準を下げようという考え方に基づいている。
『ゆとり教育』の結果、日本はいまや先進国の中でもっとも子供たちが勉強をしない国になってしまった。これではダメだ。先に書いたように十分な知識という土台があって初めて「考える力」が身につく、教養が身に付く、他人を思いやる心が育まれるのである。

この教育の現状が「国家の品格」藤原正彦氏に江戸時代の教育の高さ(文盲率の低さ)を挙げさせ、読み書きそろばん(国語・算数)をもっと徹底させる授業を提言させ(この部分は私も大賛成であるが)、「江戸時代」は良かった「武士道精神」は日本人の心だ、とまで言わせてしまう結果となった。

この『ゆとり教育』による日本人の知性の欠如=教養の欠如=他人を思いやる心の欠如に、『新自由主義』が追い討ちをかける。

■衣食足りて礼節を知る。貧すれば鈍す。

猫の教室2007/12/09より引用

格差社会の進行による精神の荒廃が心配だ。

(他のブログ引用)
貧すれば鈍す=体勢が貧して効率や利益に焦点が当たり始めると倫理観や正義感など社会的な信義則(信義誠実の原則)が失われる、の意で、世の中の腐敗や堕落を嘆く言葉だ。

例えば自らの保身を図ろうとして嘘を付いたり誤魔化したり、果ては人の足を引っ張ったり。
あなたも、「誰も見ていないからこれくらい構わないだろう」なんて思ったことがあったら、かなりヤバイと自覚した方が良い。

貧すれば鈍す、は貧乏になると人のことまで気が回らないという意味のようだが、ネットで見る限り、世の中の人たちは物質的な貧乏だけでなく心の貧乏も対象にしている。心の豊かな人と言うのは、例えば、信義則を守り正義感、倫理観に秀でた人たちで、己の保身よりも他者の幸福や社会の発展などを願う博愛的な存在である。一時の利益や地位よりも恒久的な達成感や満足感に価値を見出す人たちだ。一方の心の貧乏な人と言うのは、己の既得権を死守することによって物質的な地位や価値を確保し続ける人たちで、己の地位に胡坐をかき、ひとたびそれが侵害されようものなら攻撃を仕返す存在である。目先の利益や物欲の満足が一番大切なのだ。最近良く見かけるセレブといわれてチヤホヤされている人たちにこのタイプの人が多いような気がする。日本語のセレブには本来的な名士と言う意味よりも、成金・成上がりモノという意味が多分に入っているような感じだ。…引用終り

(猫の教室さんの引用に戻る)

「プレカリアート」(不安定な労働者層)と言う言葉を目にするようになったのは、ここ半年ほどでしょうか?テレビなどのマスコミではまだ認知された用語ではない様です。

「不安定な」と言うのは、立場、地位、収入が不安定な労働者のことを指します。つまり、今のフリーター、派遣社員、ワーキングプアと呼ばれる、未組織労働者などすべてを意味する言葉です。

 この言葉が象徴しているのは、新自由主義により格差社会が現出し、それが進行して、持てる者と持たざる者、と言う階級社会(下流階層)を現出したことを意味します。

つまり一つの階級をさす言葉であるわけです。かつての「プロレタリアート」と事実上同義であって、新自由主義が横行したイタリア、ベルルスコーニ政権、イギリス、ブレア政権などのもとで、階級格差が広がったのを受けて生まれた言葉です。

 日本を見てみると、格差を現わす『ジニ係数』(説明略)は、20世紀終盤以降、急激に上昇を続けており、格差は明らかに拡大しています。

格差社会の進行に伴い、貧困層が確実に増加している。

この上さらに、労働による世帯収入よりも生活保護費のほうが高いとして、生活保護費を下げるという本末転倒な政治を行っているのが政府(政権政党=自民党)である。
ただ今の日本は世界の水準に比べれば、まだ貧困の度合いは高く無いと思う。
日本の場合、アメリカと同様にそこそこの貧乏人が数多くいる社会で、食うや食わずと言った途上国の貧困とは少し違う。

 しかし、この状況で私が不安視するのは、貧困に関する不満のエネルギーが、レイシズム(人種差別主義)や、貧困者同士の争いに向けられるという、精神の荒廃を招かないかと言うことである。

現代の貧困の原因は政府・政権政党によって進められた新自由主義のせいである。
貧困者の怒りは政府にこそ向けられるべきであり、社会保障を充実させるリベラル的政策が求められる。
そうしない限り、日本は、就業意欲も低下し、荒廃したアメリカのような殺伐とした国家に成り果てるだろう。

その時、国民の目を逸らすのに使われるのは「戦争」だ。(テロ含む)

「貧すれば鈍する」と言う言葉が古くからある。他のブログを見ていると、非常に幼稚な体制服従、弱者蔑視の発言が多いことに驚く。

つまり、小泉改革とやらで「痛み」を押し付けられ、生活が苦しくなっているにも拘わらず、依然、保守・自民党や、右翼思想を支持している人々が多いことを危惧する。

無風注:「政治の世界が分からなくても政治のよしあしを判断することは簡単に出来る」→「国民の生活が苦しくなる政治は、悪い政治である

政府(政権政党)によって痛みを受けているはずの人(国民)からの政権政党支持がある。
ここに、私は「貧すれば鈍する」と言う人々の存在を想定することができる。

他国の例ですが、ベルリンの壁崩壊後のドイツで、一時的にノイエ・ナチス(ネオナチ)が、勢力を伸ばしたことがありました。
 旧東ドイツから流入する、「教育は受けているが低賃金でも働く労働者」が増え、旧西ドイツでの低学歴低賃金労働者が、割を食って職を失った時期です。
 ノイエ・ナチスは、この失業者(若者が多かった)の不満を吸収し、攻撃の矛先を植民地政策時代から関係の深かったトルコからの労働者や、ヨーロッパ共同体の成立で、越境して働きに来ていたイタリア人労働者を暴力で排斥する行為を行いました。

 経済的貧困の不満は、たやすく、レイシズム(人種差別主義)や、ファシズム、極右と結びつきやすいことを端的に示しています。

現在の、コイズミカイカクの犠牲者の怒りは、本来自民党に向けられるべき問題で、リベラル政策を採る、民主党やその他野党への支持に代わるべきところ、依然、自民党が高い支持率を保持しています。無風注:福田内閣発足当時の支持率53~58%と'70年代を経験している老人からみると「異常」としか言いようが無い。

また、ネット言論上では、中韓をただひたすらに誹謗中傷するだけのブログや、歴史修正主義者による、沖縄県民蔑視発言などが横行し、決して富裕層とはいえない人々が、「自分とは違う」と言うだけの理由で、レイシズムに陥って、保守・極右を支持して弱者を叩いているのが現状です。

私は、これこそが「精神の荒廃」であると考えています。…引用終り

「猫の教室」さんは、このあとのブログで「何故、弱者が差別主義や保守支持になるのか」の社会心理学的分析を行なっており、ためになるので一読願います。

だいぶ長くなったので、「猫の教室」さんの次の言葉で本日の締めとしておく。

自民党(政権政党)の支持率が落ちたことに対し…。

国民はしっかりと判断しているといえるかもしれません。
しかし、一方で、新自由主義(格差社会と貧困層)と社会福祉削減をもっとも進めた小泉元首相に対し、未だに大きな支持がある現状を見ると、まだまだ「騙されやすい人々」が存在すると思うのです。