夢と狂気の映画の都ハリウッド

2023年05月15日 | テレビ


映像の世紀バタフライエフェクト ハリウッド 夢と狂気の映画の都
(NHK総合 午後10:00-午後10:44)を観た。 ↑ クリックして下さい。
NHKプラスで観られます。(配信期限 :5/22(月) 午後10:44 まで)

>20世紀初頭、発明王エジソンに高額な特許料を求められた映画人たちは、
>自由に映画を作れる場所を求めて西海岸のハリウッドにたどり着く。小さな
>田舎町は第一次世界大戦を経て世界最大の「映画の都」となり、1930年
>代にはジュディ・ガーランドなどが活躍する黄金期を迎える。しかし、その
>輝きに魅せられて集まって来た若者たちを待っていたのは、彼らの夢を飲み
>込み肥え太るモンスターだった。夢と狂気が渦巻く百年の物語。
(公式サイト)

今夜は、夢と狂気が渦巻くハリウッドの物語だった。
アメリカ中の映画に夢を持った若者たちがハリウッドに集まり、
5,000人ほどの町だったハリウッドは、映画が発展して15万人に膨れあがった。
成功したものはハリウッド近郊のビバリーヒルズに豪邸を構えた。
ハリウッドを牛耳っていたのは、ワーナーブラザーズ・20世紀フォックス・
パラマウントピクチャーズなどの5つの巨大映画会社だった。
その映画会社を「ビックファイブ」と呼んだ。
「ビッグファイブ」を興したのはユダヤ人だった。
ヨーロッパでの迫害から逃れてきたユダヤ人は、新天地アメリカの新興産業で
思う存分商才を発揮した。
俳優から映画館主まで多くのユダヤ人が活躍した。
ハリウッド最大の祭典アカデミー賞を作ったのもユダヤ人だった。
ビッグファイブの中でひときわ存在感を放ったのが、MGMである。
率いたのは「ハリウッドのライオン」と呼ばれたルイス・B・メイヤー、
「国民の創生」の配給を手がけたユダヤ人実業家である。
メイヤーが作り上げたのは、無名の若者を発掘し巨額の費用をかけてスターに育てる
「スターシステム」と呼ばれる手法だった。
メイヤーの作ったスターシステムは、嫌われ者だった役者たちを庶民の憧れの的へと変貌させた。
メイヤーが特に目をかけていたスターがいた。
ジュディガーランド、僅か13歳でMGMと専属契約を結ぶと、
愛くるしい風貌と大人びた歌声で一世を風靡した。
代表作となったのは1939年公開の「オズの魔法使」つかい。
ジュディは この映画でアカデミー賞を受賞し国民的スターとなった。
MGMがジュディに付けたキャッチコピーは、GIRL NEXT DOOR
(ガール ネクスト ドア)「近所の女の子」。
その親しみやすさから世代を問わず人々に愛された。
しかしジュディのそのイメージは、メイヤーが綿密に計算し作り上げたものだった。
ジュディ自身もプライベートに至るまで徹底的に管理されていた。
ジュディは当時16歳。成長期を迎えていた。
MGMはジュディの少女らしさを維持するために、ダイエット薬として 覚醒剤をのませ、
食事はスープとチーズしか与えなかった。
更にジュディは ハリウッドにはびこる忌まわしい洗礼も受けていた。
ハリウッドでは女性に対するセクシャルハラスメントが、珍しくなかった。
映画会社の大物が女優に役を与える見返りに性的な関係を迫ることは、
「キャスティング・カウチ」と呼ばれた。
キャスティングカウチはフィクションなんかではない。
「いい役を手に入れるために監督にすべてをさし出すの」
ある女の子はこう言ったわ。
「オペラ歌手が声を使うのと同じに、私たちは身体を使うだけ」

長年の薬物摂取の影響が現れジュディの心身は、限界に近づいていた。
NGを連発。このころ不眠や極端な体重の増減に苦しんでいた。
撮影現場に無断欠席を繰り返すようになったジュディは、
降板させられMGMからも解雇される。

1941年アメリカが第2次世界大戦に参戦すると、ハリウッドは戦時体制に切り替わった。
ハリウッドの映画人たちは政府や軍の求めに応じて、戦争遂行に全面的に協力した。
ウォルト・ディズニーも戦争協力を惜しまなかった。
プロパガンダ映画の制作はハリウッドを大いに潤した。
だが葛藤を抱える映画人も少なくなかった。

戦争が終わるとアメリカは空前の繁栄を迎える。
世界中が疲弊する中で アメリカだけが豊かさを謳歌していた。
世界にアメリカの豊かさの夢を振りまいたのがハリウッド映画だった。
1951年に公開された「欲望という名の電車」、
主演のマーロン・ブランドのTシャツ姿が話題を呼び、
それまで下着として扱われていたTシャツが、
若者のファッションアイテムに生まれ変わった。
1955年の「理由なき反抗」。
作業着だったジーンズがジェームズ・ディーンによって爆発的に世界に普及していく。
ハリウッド映画はアメリカの資本主義の広告塔として、
特別な価値を持つ産業と位置づけられた。
それゆえ政府はハリウッドに資本主義を脅かす思想共産主義が入ることを恐れた。
実際にハリウッドには共産党員が多くいたといわれる。
1940年代後半から50年代にかけて赤狩りの嵐が吹き荒れた。
MGMのメイヤーや ウォルト・ディズニーも公聴会に召喚された。
赤狩りに積極的に協力した俳優がいる。ロナルド・レーガンである。
戦時中に共産党に入党していた脚本家 ダルトン・トランボ。
アカデミー賞にもノミネートされた脚本家だった。
トランボは証言を拒んだため議会侮辱罪で投獄。
釈放後も偽名での執筆を余儀なくされた。
1953年に公開されたアカデミー賞作品「ローマの休日」、
脚本を書いたのはハリウッドを追放されたトランボだった。
しかしクレジットに記されているのは別人だった。
トランボにアカデミー賞のトロフィーが贈られたのは、受賞から40年後のことだった。

戦後、映画に強力なライバルが台頭する。新興メディアテレビである。
人気テレビ番組「アイ・ラブ・ルーシー」。
人気女優のルシル・ボールが織り成す痛快なコメディー番組は、最高視聴率70%を記録した。
しかし 70年代に入るとハリウッドは よみがえる。
ジョージ・ルーカスやスピルバーグら新世代の映画監督が、次々に大作を送り出していく。
一時は10億ドルを切っていた全米の興行収入も、70年代半ばには20億ドルまで回復した。
社会や人間の暗部をありのままに描く社会派の傑作も数多く生まれた。

2018年 ハリウッドで一人の映画プロデューサーが逮捕された。
数々のアカデミー賞作品を手がけた大物だった。
長年にわたり 女優たちに性的強要を繰り返してきたことが、
被害女性たちの告発によって明るみに出たのだ。
この告発をきっかけに性被害に耐えてきたハリウッドの女性たちが立ち上がった。
掲げた合言葉は「Me Too(私も)」。
すると 声は映画界以外にも広がった。
そして ハリウッドに端を発した「Me Too」の波は、
国境を超えて 世界の女性たちに一大ムーブメントを巻き起こした。
1969年6月27日ニューヨーク。
教会の周りを2万人の群衆が埋め尽くした。
一人のハリウッドスターに別れを告げるためだった。
ジュディ・ガーランドである。
睡眠薬の過剰摂取により47歳の若さで この世を去った。
MGMを解雇されたあとも薬物中毒や自殺未遂を乗り越えながら、
最後までハリウッドで生き続けた。
ハリウッドというモンスターにすべてをささげたジュディは、こんな言葉を残している。
「どこに行こうと、何をしていようとハリウッドを離れて生きることなんてできないんです。
 ハリウッドの映画に出ることは、女の子が持つ最高の野望だと今でも思っています」
 努力は必要だし、落とし穴もあるけどどんな職業でもあることです。
 もう一度やれと言われたら、同じ選択同じ間違いをおかしたでしょう。
 それが生きるということだから」

素晴らしいドキュメンタリー番組でした。
ぜひ観て下さい。

 

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