九想話13年目へ

2010年09月08日 | 健康・病気

昨日の9月7日は、九想話の誕生日です。
(「忘れられた九想話」にこのことを書いてます)
盛大に誕生日の大パーティーをしたいところですが、何もしてません。
所沢に住んでいれば友人は沢山いるのですが、軽井沢にはいません。
中軽井沢に、私が飲みに行くところはありません。
お店はありますが、私はこっちで新しい店に行く気がないのです。
それに車に乗っては行けません。酔っぱらい運転になります。
田舎はこれが辛いです。
こちらで唯一の私の飲む店のパンカーラは昨日休みでした。
営業日でしたら行きたかった。
今日、私は休日なので泊めていただけたら飲めたのです。
しかたなしに家で1人、さみしく飲んでいました。

九想話を書き始めた1998年は平成10年なんですね。
私は3月に、山梨から帰ってきた。
その前年に単身赴任で山梨に行き、暮らしていました。
その会社が東京の本社を山梨に移すというので退社した。
私の帰る本社がなくなったからです。
でもその頃、会社はボロボロで私なりに見切りをつけました。
そのときに退社すると退職金が少し多く支給された。
結局、会社は翌年の1月に親会社から捨てられた。
親会社がある会社に売却し、山梨から移転して静岡に行ったと聞いている。
山梨の本社と熊本事業所が2つの会社に切り売りされた。
(その1年前に、長野・東北事業所は閉鎖になっていた)
そして本社が移転したときほとんどの社員が辞めたと聞く。
実質、1998年に私が退職した会社は現在は存在していない。
そのときの子会社だったところに何人か入っていて、
むかし製造した装置のメンテナンスをしている。

私は、求人広告で見つけた車のウィンドウガラスの加工をする会社に転職した。
40歳までという求人条件だったが、それまで応募者がいなかったのか、
会社が希望した応募者が来なかったのか、45歳の私が採用された。
そのとき採用された一番の理由はパソコンが出来たということでした。
その頃、パソコンを使える人は少なかったんですね。
私は、生産管理として入社した。
ホンダ狭山工場が日々製造する台数分のウィンドウガラスを、
要求された数量を時間通りに納品しなければならない。
車のメーカーは、ジャストインタイム生産システム(カンバン方式)だからです。

ホンダの要求通りに日々の生産計画を立てるのですが、
計画通りに生産がなかなか出来ない。
ガラス・樹脂・部品などの材料が足りないときがある。
プレス機にガラスを入れて周りに熱した樹脂を蒸着させるのだが、
ガラスの曲面とプレス機の型の曲面が合わずによくガラスが割れた。
1直(8時間)に何百枚と私が設定して計画を作るのだが、
予定通りの枚数をクリアすることがなかなか難しかった。
1日を3直24時間交代で工場は稼働している。
毎日まいにち死にものぐるいで生産枚数を死守していかなければならなかった。
ホンダに要求された枚数を欠品するようだと一大事だった。
ホンダから取引停止にされてしまう。

あの頃、なんでこんなことをおれはしなくてはならないんだと思っていた。
仕事で使うのでフォークリフトの資格も取った。
息子たちは高校3年生だった。
双子のあいつらをなんとか大学まで行かせたかった。
早朝、親会社から来るガラスの受け入れをフォークリフトに乗り受領して、
工場の生産枚数を気にしつつ夜遅くまで残業をしていたあの頃。
なにしろ製造は24時間勤務なので、深夜のことまで考えていなければならなかった。
私と一緒に生産管理として入社した男は、ノイローゼのようになってしまった。
ウィンドウガラスの生産状態が家に帰っても気になって、
工場に夜中に来て、そのまま朝までいるなんてことをしていた。
そして精神的におかしくなって退職した。
私は、出来ないものはしょうがないと、家に帰ったら会社のことは忘れるようにした。
会社にいるときは心安まるときがなかった。
そういう意味ではあの頃、私は毎日必死に生きていた。

そういうときに私は、九想話をASAHIネットの「かしの木亭談話室」というところに
毎日書くようになっていた。
小説を書くための文章修行という目的もあったのですが、
あのとき会社に、会話をする人がいなくて、
人と話したいというその欲求不満を九想話という形で解消していたのでしょう。
それが今も続いている。
いつまで書くのだろう?

コメント (4)
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