ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

抜き書き 〜「語られないもの」としての朝鮮学校〜

2018年02月22日 16時43分59秒 | 
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…大阪府教育委員会が作成した「在日外国人生徒進路追跡調査報告書」によれば、本名から通名を名乗るようになった人のうち、42.6%の生徒が高校進学の際に通名に変えている。それに高校卒業以降通名を名乗る人は、全体の73.6%に達している。また名前を通名に変えた理由については、「就職のため」(20%)と答えた人が最も多かったことと、経済活動ができる高校時代から通名を使う人が多いことは、本名が主食の障害になる現実を示している。この場合、通名という選択は一種の戦術と見なすこともできるが、本名を使っていた頃の自分に比べてパッシングをしている自分に「卑屈な朝鮮人」のイメージを発見している生徒も多く、その戦術の選択がいかに主体的でないかを如実に物語っている。

…在日コリアン性との本名使用率が他の外国人生徒に比べて著しく低い実態の背景には、被植民地経験と創氏改名の記憶、差別と適応、日本文化への同化などの歴史・文化的要因があることは間違いない。民族教育の硬直性を解体し、「柔軟なアイデンティティ」の可能性を探ることは、変化しつつある在日コリアン社会を考えるときには依然として有効である。しかしながら、それがより現実的なものになるためには「柔軟なアイデンティティ」への実践が、再び「アイデンティティの危機」を招いてはならない。

…個人としての在日コリアン、民族教育と在日コリアン社会、日本社会を重層的な構造の同心円として把握するとき、個人の自由と共同体の意志が持つベクトルはいつも「日本」という変数をのぞいては考えることができないのである。民族教育の対象でもあり、実行者でもある在日コリアンのある部分を構成する「日本的なもの」は、鄭暎惠の告白のように母語としての日本語だけではない。日本で生まれ、日本の教育システムの中で育った在日コリアンの多くは、日本的な価値観も内面化しているのである。鄭暎惠は、在日コリアンの民族運動において民族アイデンティティを過度に強調することが偏狭なナショナリズムを助長する危険があり、「ダブル」「帰化者」に対する差別と排除をもたらしていると批判する。

…在日コリアンたちが内面化した日本的オリエンタリズムは姜尚中のいう「オリエンタリズム解釈」と関係がある。オリエンタリズムとは、差別的な位階性を内面化させることによって、自分のアイデンティティを固定させる文化的ヘゲモニー装置であるが、この装置は体制の安定化を図る。このような装置が作動する世界体制の中で、人間主義的普遍主義が体制への包摂を担当し、レイシズムが排除の役割を分担して、補完しあいながら体制の安定を図っているという分析は、現在進行中の多民族共生を志向する在日コリアンの民族教育が置かれている状況について理解するにおいても、有効な視角だろう。

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「語られないもの」としての朝鮮学校 Song Kichan
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抜き書き〜「語られないもの」としての朝鮮学校〜

2018年02月22日 11時20分59秒 | 
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…「誇り」より先に必要であると考えられるのが、「民族意識」と呼ばれるエスニシティである。自らアイデンティティの障害を経験してきた教師たちは、子どもにはまず「エスニシティ」を植え付けることが大切であると信じている場合が多い。それは、子どもたちに、自分が日本人ではないという事実をはっきりと認識するよう仕向けることでもある。エスニシティの確保は、日本人と自分の「違いの確認」から出発する。しかしながら、言語や文化、思考法、好む食べ物にいたるまで実質的にはほとんど同質的である現状において自分を周囲の日本人から区別する説得的な術を子どもたちに教えることは非常に難しい。
 したがって,民族学級における教育は、まず日本人との「区別」の創出に、第二に「区別」に基づく「誇り」の創出へと向けられる。民族学級で在日コリアンの子どもたちに教えられる「区別」の過程には、人為的な「民族的象徴」が使用される。

…在日コリアンの若い世代の台頭とともに、1970年代から大阪地域を中心に活発に展開された民族学級型民族教育は、既存の祖国志向的民族教育からの脱却を図っていた。そのため、教育現場のなかで「祖国」の持つ国民国家のイメージを積極的に活用することはあきらめざるを得なかった。そこで、民族学級の現場では、相対立する政治的実態を持つ「祖国」の代わりに「民族」という抽象的な概念と、それにまつわる様々な象徴をやや本質的に、そして戦略的に使ってきた。そのような実践の結果、教育対象である在日コリアンの子どもたちに「日本人」でない自分を発見する「エスニックな自覚」を抱かせることには一定の成功を収めてきた。

…教育社会学は金泰泳は、過去、一世たちにとって「自由」として機能していた「民族」が、二、三世にとっては「不自由」として機能するのは、時代の変化につれて「個人」を抑圧するイデオロギーと化した従来の本質主義的民族アイデンティティに頼ってきた民族教育や民族運動の言説に原因があるとみた。
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「語られないもの」としての朝鮮学校 Song Kichan
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