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高校演劇の台本を使い、内藤裕敬が関西小劇場界の精鋭を集めて芝居を作る。内容は女子高のクラブ予算会議でのドタバタを描くものだ。高校演劇コンクール向けの装置もほとんど必要のない1時間の台本である。それを高校生たちとほぼ同じ条件のもと、自分たちなりの見せ方をする。
アレンジし直すのではなく、オリジナルのテイストを大事にして、それを損なうことなく自分たちのものとする。これは内藤さんなりの高校演劇への挑戦状だ。彼らのやり方を上から目線で踏襲するのではない。高校生をリスペクトしつつも、自分たちがそれをやったなら、どう見せるのかを試みる。
女子高生をむさいおじさんたちが演じることは、お約束なので、あまり違和感はない。それどころか、彼らはとてもチャーミングだ。2人女性を入れたのもいい。そうすることで、バランスがよくなった。どうしてもおじさんばかりでは、おふざけになる可能性があった。そこを避けるためにも女性は必要だったのだ。
もちろん、この作品にはリアルであることは、この際必要ない。だが、彼らが演じる部長たちが、お笑いを目指したおふざけではなく、真面目に女子高生を見せる。そこがいい。更にはこの台本の緩さを、彼らの演技がとても上手にフォローしていることも興味深い。さすがだ。本来なら、そこは高校生たちのそれぞれの個性でもたせるところで、そのへんがきっとこの台本がみんなから愛されて何度も上演された理由であろう。基本設定さえ守れば、アドリブにより、いかようにもアレンジが可能なのだ。そういう意味でこれは『青木さん家の奥さん』に似ている。内藤の台本で唯一高校生たちのヒット作になっているのも、あの作品だ。内藤は自分の作品が高校生によって、演じられるのを何度か見て、そこに刺激を受けたのかもしれない。
この作品の最大のポイントはラストだ。みんなが去っていったあと、夕焼けに染まる生徒会室でたたずむ。無力感と、でも、何かをやり遂げた充実感もある。高校生が高校生である瞬間がそこにある。内藤が描きたかったものも、そこに尽きる。
アレンジし直すのではなく、オリジナルのテイストを大事にして、それを損なうことなく自分たちのものとする。これは内藤さんなりの高校演劇への挑戦状だ。彼らのやり方を上から目線で踏襲するのではない。高校生をリスペクトしつつも、自分たちがそれをやったなら、どう見せるのかを試みる。
女子高生をむさいおじさんたちが演じることは、お約束なので、あまり違和感はない。それどころか、彼らはとてもチャーミングだ。2人女性を入れたのもいい。そうすることで、バランスがよくなった。どうしてもおじさんばかりでは、おふざけになる可能性があった。そこを避けるためにも女性は必要だったのだ。
もちろん、この作品にはリアルであることは、この際必要ない。だが、彼らが演じる部長たちが、お笑いを目指したおふざけではなく、真面目に女子高生を見せる。そこがいい。更にはこの台本の緩さを、彼らの演技がとても上手にフォローしていることも興味深い。さすがだ。本来なら、そこは高校生たちのそれぞれの個性でもたせるところで、そのへんがきっとこの台本がみんなから愛されて何度も上演された理由であろう。基本設定さえ守れば、アドリブにより、いかようにもアレンジが可能なのだ。そういう意味でこれは『青木さん家の奥さん』に似ている。内藤の台本で唯一高校生たちのヒット作になっているのも、あの作品だ。内藤は自分の作品が高校生によって、演じられるのを何度か見て、そこに刺激を受けたのかもしれない。
この作品の最大のポイントはラストだ。みんなが去っていったあと、夕焼けに染まる生徒会室でたたずむ。無力感と、でも、何かをやり遂げた充実感もある。高校生が高校生である瞬間がそこにある。内藤が描きたかったものも、そこに尽きる。