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映画・演劇のレビュー

『銀河鉄道の夜』

2007-09-08 09:13:39 | 映画
 先週、秋原正俊という人の映画を始めて見た。『春の居場所』という小さな作品である。決して満足のいく作品ではないが、ほんの少し気になる部分がある映画で、(これを映画といっていいのか、というくらいに、さりげない作品だ)僕の誤解かも知れないが、この作者はとても微妙な人間の気持ちを丁寧に描きとろうとしているのではないか、なんて思った。

 たった10年程の時間の経過で、あれほど好きだった男の子の顔を見忘れてしまう、そんな女性のことを描いていた。若い頃は熱に浮かされたように人を想ってしまうが、それは一過性の病気みたいなもので、過ぎてしまうと記憶のかたすみにさえ、残らないものなのかもしれない。

そんな風に考えると10代ってある意味で残酷なものに思えてくる。もちろんみんながみんなそうだ、と言っているわけではない。ただ、今まで映画の主人公に限ってはそんな薄情な人物が出てくることはかってなかったのだ。なのに、この映画のヒロインは、大好きだった彼の顔を忘れている。僕はそんな事実に拘ってしまったのである。

 もし、この監督が確信犯なら、そのスタイリッシュな描写も含めて、これはけっこう面白いかもしれないと思った。さらに気になるのは、この監督の、この映画に前後して2,3年(この2005年から2007年の間である)に撮られた4本もの文芸映画が公開されていること。(そのほとんどは、これからリリースされる)

 それらはまともに劇場公開されていないものばかりだ。しかし、そのタイトルを見れば、驚く。日本を代表する文豪の傑作が並ぶ。しかも、映画化不可能なビッグ・バジェットになりそうなタイトルばかりである。それらを低予算で現代を舞台に映画化しているのだ。いったいどんな勝算が彼にはあるのか、それも気になり、まず1本レンタルしてきた。

 それが、言わずと知れた宮沢賢治原作のこの作品である。大傑作『カナリア』そして『檸檬のころ』の谷村美月を主演に迎えたこの映画は、61分の中篇作品。彼女のモノローグ劇仕立てになっている。本来この作品の映画化にはかなりの大予算が必要だが、それを、少年の心象風景として、詩的なイメージの羅列として作る。このバジェットならそんな試みはしかたがない。当然の処置だと思う。しかし、この映画の、そこに胡坐をかくような、安直なシナリオと演出には呆れ果てた。

 10分ほど見て、もうこれは駄目だ、と見切りをつけた。それくらいにこの映像詩には映画としての力がない。これは予算云々の問題ではない。この原作とどう向き合い、そこに何を見出していこうとするのか、という根本的な問題をおざなりにする。ここまで舐めた映画を作って平気でいられる無神経には恐れ入った。ただのシネポエムにすら、なっていない。

 これで、『春の居場所』もただの出来損ないだと判明した。残念ながら見なかったらよかった。そうすれば、美しい夢を抱いたままでいられたのに。

 杉井ギサブローの素晴らしいアニメーション映画『銀河鉄道の夜』がこの世界にはある。あれを超えるような『銀河鉄道の夜』はこの先100年待っても作られるはずがない。それでいいのではないか。あの映画を見てから、ジョバンニとカンパネルラは猫である、としか考えられなくなってしまっている。それくらいにあの映画のインパクトは強い。

 あれだけの作品を作った作家が後年『源氏物語』に挑んだが、失敗している。古典的な文芸大作の映画化がいかに困難を極めるか、ということだ。才能もない人物に安直にやられたら困る。やるのなら本気でしてもらいたい。


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