吉田修一の青春小説の傑作を、前田司郎の脚本、沖田修一監督(なんとこの2人は中学、高校の同級生だったらしい)で贈る。原作は、とても幸せな気分にさせられる小説で、発売当初は、これを吉田修一が書いたなんて信じられないと思った。でも、彼は、今ではエンタメもなんでもこいの作家になって、もう驚かない。この小説が彼のターニングポイントになったのだろう。
それにしても、この(一見)なんでもない(ように見える)青春小説の映画化作品が、なんと2時間40分! ということには驚く。どうしてそんなことになった? プロデューサーは上映時間の規制はしなかったのか。この手の映画で、こういう上映時間は普通あり得ない。だが、見終えて、これでなくてはならなかった、と思う。そこには確かなこの作者の覚悟のほどが伺える。渾身の力作である。
だから、この映画をただお気楽な青春映画だと舐めてかかると大変なことになる。こんな一見のんきそうなルックスをしているけど、これは今年1番の傑作だ。青春映画というジャンルのひとつの在り方を示唆する。先にも書いたが吉田修一はこの作品や、『悪人』くらいからどんどん自分の間口を広げていった。それはなんでもこい、になったというのではない。自分の可能性に限界なんかないという当たり前の事実に気付いたのだ。だから、無理なくなんでもこなすようになった。だが、それは器用貧乏にはならない。なぜなら、彼は確固とした信念のもと、どこででも自分を見せられるからだ。それはこの小説の世之介の生き方に似ている。
この小説を得て、前田、沖田コンビは燃えた。まるでイオセリアーニのように「のんしゃらん」と、描く。そんな世之介をここに見せようではないか、と思ったのだろう。彼らは自然体で無理なく、原作以上の世界を展開して見せた。沖田監督は先の2作品ではまだまだ自分を持て余してきたが、親友の(たぶん)前田とコンビを組むことで、まだ自分が何者でもなかった頃の自分たちをここに描きとめることが出来た。これはそんな奇跡のような映画である。
18歳の頃。何を考えて生きていたのだろうか。もう、あまり思い出せないけど、きっといろんなことを考えていたのだろうな、と思う。まぁ、きっと今考えると、屁でもないようなことなんだろうけど、本人たちは必死だったはずだ。それでなくては18歳じゃない。
長崎から東京に出てきた世之介の大学での1年間を追いかけた。彼が出会った仲間たちとの群像劇である。1987年の春から88年の春まで。具体的に法政大学と出るのに、背景となる時代は明確には示されない。冒頭の新宿の駅前には、斎藤由貴のアクシアの巨大なポスターが貼られて、街頭ではキスミントの宣伝キャンペーンが行われている。漠然と80年代後半くらいか、と思い見始める。終盤になり、病院の赤ん坊のベッドの誕生日が書かれたところに、88年の文字が目に入る。
途中でいきなり16年後の話が随時挿入されていく。それは世之介が死んでしまった後の世界だ。世之介は、駅のホームから線路に落ちた人を助けようとして、韓国人留学生とともに、電車に轢かれて命を落とした。(この事件は映画にもなっている)みんなは、なんとなく彼を思い出す。たまたま世之介のことを思い出す一瞬が、ドラマの中に唐突に挿入される。35歳になった彼らの現在が、ここにはもういない35歳の世之介を想像する。きっと、まったく変わっていないだろうなぁ、と思う。(彼らは世之介が死んだことをきっと、知らない) 慌ただしく過ごす毎日の生活の中で、すっかり忘れてしまっていた大学時代の友人の記憶がよみがえる。そんな一瞬。ほんの少し気持ちが暖かくなる。あの頃、みんな若かったなぁ、と思う。そして、世之介という調子のいいやつがいたよな、あいつどうしているかな、なんて思う。
特別なことなんか、何もなかった1年間。それが、かけがえのないものだったと思いだせる。映画は、そんななんでもない毎日を淡々と見せていくだけの3時間である。誰もがこの上映時間に驚く。でも、この長さがこの映画の肝だ。実際は先にも書いたが2時間40分なのだが、本当は4時間くらいにして、見せたいはずだ。でも、この幸せな時間が、いつまでも続くと思うなよな、と思う。
あの頃は、ずっとこんな風にして、生きていけるのではないか、と思っていた。というか、きっと何も考えていなかったのだろう。ただ、毎日が永遠のようにすら思えた。この映画の距離感がとても心地よい。ドラマチックから遥か遠くにあるのに、この愛おしき日々が、かけがえのないものだと、自覚する。それはあの頃からもうとても遠くにいるからだろうが、それが誰にもはっきりわかる。なんでもないことのひとつひとつが何よりも大切だった頃。
まわりがどんなに浮かれていたのかも、気付かなかった。自分はマイペースだったからか、それとも目の前のことで精いっぱいだったからか。バブルなんて、知らなかった。なんてのんびりしていて、平和な時代だったのか。
大学1年の頃、誰もが同じように、何かを期待して、ここに来たはずなのに、それが何だったのか、思い出せないし、きっとそのうち、考えもせずに、生きていた頃。懐かしさよりも、愛おしさで一杯になる。
それにしても、この(一見)なんでもない(ように見える)青春小説の映画化作品が、なんと2時間40分! ということには驚く。どうしてそんなことになった? プロデューサーは上映時間の規制はしなかったのか。この手の映画で、こういう上映時間は普通あり得ない。だが、見終えて、これでなくてはならなかった、と思う。そこには確かなこの作者の覚悟のほどが伺える。渾身の力作である。
だから、この映画をただお気楽な青春映画だと舐めてかかると大変なことになる。こんな一見のんきそうなルックスをしているけど、これは今年1番の傑作だ。青春映画というジャンルのひとつの在り方を示唆する。先にも書いたが吉田修一はこの作品や、『悪人』くらいからどんどん自分の間口を広げていった。それはなんでもこい、になったというのではない。自分の可能性に限界なんかないという当たり前の事実に気付いたのだ。だから、無理なくなんでもこなすようになった。だが、それは器用貧乏にはならない。なぜなら、彼は確固とした信念のもと、どこででも自分を見せられるからだ。それはこの小説の世之介の生き方に似ている。
この小説を得て、前田、沖田コンビは燃えた。まるでイオセリアーニのように「のんしゃらん」と、描く。そんな世之介をここに見せようではないか、と思ったのだろう。彼らは自然体で無理なく、原作以上の世界を展開して見せた。沖田監督は先の2作品ではまだまだ自分を持て余してきたが、親友の(たぶん)前田とコンビを組むことで、まだ自分が何者でもなかった頃の自分たちをここに描きとめることが出来た。これはそんな奇跡のような映画である。
18歳の頃。何を考えて生きていたのだろうか。もう、あまり思い出せないけど、きっといろんなことを考えていたのだろうな、と思う。まぁ、きっと今考えると、屁でもないようなことなんだろうけど、本人たちは必死だったはずだ。それでなくては18歳じゃない。
長崎から東京に出てきた世之介の大学での1年間を追いかけた。彼が出会った仲間たちとの群像劇である。1987年の春から88年の春まで。具体的に法政大学と出るのに、背景となる時代は明確には示されない。冒頭の新宿の駅前には、斎藤由貴のアクシアの巨大なポスターが貼られて、街頭ではキスミントの宣伝キャンペーンが行われている。漠然と80年代後半くらいか、と思い見始める。終盤になり、病院の赤ん坊のベッドの誕生日が書かれたところに、88年の文字が目に入る。
途中でいきなり16年後の話が随時挿入されていく。それは世之介が死んでしまった後の世界だ。世之介は、駅のホームから線路に落ちた人を助けようとして、韓国人留学生とともに、電車に轢かれて命を落とした。(この事件は映画にもなっている)みんなは、なんとなく彼を思い出す。たまたま世之介のことを思い出す一瞬が、ドラマの中に唐突に挿入される。35歳になった彼らの現在が、ここにはもういない35歳の世之介を想像する。きっと、まったく変わっていないだろうなぁ、と思う。(彼らは世之介が死んだことをきっと、知らない) 慌ただしく過ごす毎日の生活の中で、すっかり忘れてしまっていた大学時代の友人の記憶がよみがえる。そんな一瞬。ほんの少し気持ちが暖かくなる。あの頃、みんな若かったなぁ、と思う。そして、世之介という調子のいいやつがいたよな、あいつどうしているかな、なんて思う。
特別なことなんか、何もなかった1年間。それが、かけがえのないものだったと思いだせる。映画は、そんななんでもない毎日を淡々と見せていくだけの3時間である。誰もがこの上映時間に驚く。でも、この長さがこの映画の肝だ。実際は先にも書いたが2時間40分なのだが、本当は4時間くらいにして、見せたいはずだ。でも、この幸せな時間が、いつまでも続くと思うなよな、と思う。
あの頃は、ずっとこんな風にして、生きていけるのではないか、と思っていた。というか、きっと何も考えていなかったのだろう。ただ、毎日が永遠のようにすら思えた。この映画の距離感がとても心地よい。ドラマチックから遥か遠くにあるのに、この愛おしき日々が、かけがえのないものだと、自覚する。それはあの頃からもうとても遠くにいるからだろうが、それが誰にもはっきりわかる。なんでもないことのひとつひとつが何よりも大切だった頃。
まわりがどんなに浮かれていたのかも、気付かなかった。自分はマイペースだったからか、それとも目の前のことで精いっぱいだったからか。バブルなんて、知らなかった。なんてのんびりしていて、平和な時代だったのか。
大学1年の頃、誰もが同じように、何かを期待して、ここに来たはずなのに、それが何だったのか、思い出せないし、きっとそのうち、考えもせずに、生きていた頃。懐かしさよりも、愛おしさで一杯になる。