習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『ロビン・フッド』

2010-12-21 00:06:23 | 映画
 リドリー・スコットがなぜ、今、ロビン・フッドを映画にしなければならなかったのか、その一番大切な部分が全く伝わってこない映画だった。作品としてはとてもよくできているし、ラストの海岸でのイングランドと、海から押し寄せてくるフランス軍の対決シーンのスペクタクルも凄い。彼にとっては、『グラディエーター』『キング・オブ・ヘブン』に続く歴史スペクタクルであり、その流れの先にこの映画があるのは、当然のことなのだろうが、それでも2010年という時代に、なぜロビン・フッドの伝説を語る意義があるのか、そこがまるで感じられない。これだけでは僕は納得がいかない。

 もちろんこれはただのヒーローものではない。ケビン・コスナーによる『ロビンフッド』とは違うのだ。描かれる時間があれよりずっと以前の話で(ということは、もちろんショーン・コネリーとオードリー・ヘップバーンのコンビによる『ロビンとマリアン』のような、2人の晩年を題材にしたものでもない)リドリーは『キングダム・オブ・ヘブン』で十字軍を描いているからこれはあの映画の続編として、捉えることも出来る。十字軍遠征からの帰途から話は始まる。
 
 これはよく知られているような、暴君ジョン王の圧政に苦しむ人々を助け、義賊として、シャーウッドの森で自由に生きるロビンフッドの物語ではない。歴史の巨大な渦の中に揉まれて、自分の生きる場所を捜し求める若者(と、言っても、ラッセル・クロウが演じるから、オジさんにしか見えないのだが)の物語は、自分探しの定番にぴったりと収まってしまう。そういう意味ではとてもわかりやすい映画なのだが、それだけではやはりつまらない。もう少し何かが欲しかった。これだけの大作なのだ。

 凄まじい迫力と圧倒的なビジュアルで描かれる「これぞエンタテインメントの王道―本格派スペクタクル超大作!」(宣伝文句)というのは、その通りなのだが、今、これを見る意味が感じられない以上僕には退屈な映画でしかなかった。封切から7日目の梅田、夜の回の上映なのに、劇場はガラガラ(50人もいなかったのではないか)だった。お客さんは正直だ。

 ケイト・ブランシェットのマリアンがとても勇敢で、クライマックスの戦場で、戦う姿も勇ましい。先日見た『ヤマト』の黒木メイサといい、このケイトといい、女たちはとても強くて逞しい。こういう映画が今のはやりなのだろう。だが、この点も、ただそれだけでは、なんとも言い難い。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« よしもとばなな『もしもし下... | トップ | 『ノルウエイの森』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。