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映画・演劇のレビュー

『ノルウエイの森』

2010-12-21 23:22:11 | 映画
トラン・アン・ユン監督の『ノルウエイの森』はまるで原作に似ていない。20年以上前に書かれた村上春樹のベストセラー小説がついに映画化される。出版されたときにもいくつものオファーがなされたのに、許可されなかった。村上春樹は自分の小説の映画化を好まない。長編小説が映画化(というか、それだけではなく映像化でもある)されることは、これが初めてのことである。(『風の歌を聴け』は例外)

 さて、こんなにも原作に忠実に作られてあるのに、まるで原作と似ていないとはどういうことなのか。まずはそこから考えてみたい。映画と原作は別物だ、とはよく言われることである。だが、別物なら別にこの原作でなくてもいい。自分でオリジナルを作ればいいことだ、と思う。トランがこの小説に惹かれたのは、ストーリーではないはずだ。大体こんな話ならどこにでも転がっている。わざわざこの小説を持ってこなくてもいい。村上春樹自身も、このストーリー自身が大事だとは思っていないことだろう。では、何が大事なのか。それは、ここに醸し出される空気だ。そして、この中に描かれる絶望的な孤独である。そこを避けて通れない。そして、この映画は原作にあるその部分を忠実に再現しようとした。その結果まるで原作と違う感触を残すものとなる。トランと村上春樹は別の人格だからだ。それぞれが抱える孤独や人生が違うように、この2つの『ノルウエイの森』もまた違うものとなった。これはイメージの問題ではない。どちらがよくて、どちらがダメだ、ということでもない。僕はこれでいい、と思う。

 60年代の終わり、学生運動の時代、大学生だったワタナベ(松山ケンイチ)は、高校の頃、友だちだった直子(菊池凛子)と再会する。同時に大学で知り合った緑(水原希子)という女の子にも心惹かれる。2人の女の間で揺れる青年の心を描くこの恋愛小説は当時(1987年)200万部(手元のチラシには累計1000万部とある)を越えるベストセラーとなり、社会現象にもなった。もちろん、そんなことは今はどうでもいい。ただあの時のことを思い出すと、僕は複雑な気分になる。

 あの頃、僕はこの小説がとても夏目漱石の『こころ』と似ていると思った。もともと漱石と村上春樹はよく似ていた。2人とも求道的で、とても簡単なことばから人の心の底にあるものを掬い取ることが出来る人だ。三角関係の恋愛小説という枠組みだけの問題ではない。ここには大切な人の死によって、すべてが終わってしまった後の人生をどう生きるのかが、描かれる。『こころ』の先生が死を選んだように、直子も死んでいく。残されたワタナベは奥さんと同じように、その後の人生を生きていくしかない。死のほうにポイントを置いた『こころ』より生のほうにポイントを置いた『ノルウエイの森』の方が、とても暗い。そのあたりまえの事実にうろたえる。

 トラン・アン・ユンは60年代の日本をエキゾチックに描くのではなく、記憶のフィルターを通して、克明に描いていく。それは彼が見たこの小説に対する思いであり、日本という国の物語ではなく、ワタナベというひとりの青年の魂の軌跡を村上春樹が生きた60年代というもう今ではどこにもない失われた時代の中で見つめていくことである。その時風景はリアルである必要はない。これはあくまでも心象風景なのだから、トランにとって、あるいはワタナベにとってのリアルであればいい。

 僕はこの映画を見ながら、まるで70年代前半の東宝青春映画を見ているような懐かしさを感じた。それは出目昌伸や森谷司郎が作っていた映画だ。具体的にいうと『放課後』や『二十歳の原点』『別れの詩』といった作品である。60年代が色濃く残る風景や記憶の中にそれらの映画は存在した。そういう意味でこの映画はとてもリアルなのかもしれない。だが、それは原作の持つ雰囲気とは少し違う。映画と小説の違いがこんなにも明確になるって、不思議だ。それくらいトランは丁寧にこの映画を作り上げたということである。この映画の生々しさは生身の役者の肉体を通して、語られるからという当たり前のことだけではない。でもそこがなんだかこの映画を遠いものにしてしまう。

 記憶というファクターをはずしてしまったことで、ワタナベの今が前面に押し出されてしまったからだろうか。撮影監督であるホウ・シャオシェン映画でおなじみの台湾のリー・ピンビンによる淡い映像は奇跡のように美しい。それは作られたものではなく、とてもリアルに「もうどこにもない世界」を描き出している。60年代の日本という幻の彼方に消えてしまった景色の中で、ワタナベの魂の彷徨がとてもリアルに描かれることになった。これは映画にしか出来ない体験である。

 だが、これはあくまでも村上春樹の世界ではなく、トラン・アン・ユンの描く世界だ。それはもちろん正しいことだ。何一つ間違ってない。だが、なんだか物足りないことも事実だ。なんとももどかしい限りだ。


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