ようやくイマージュの53号が発刊された。本来ならもっと早く刊行されるはずだったのだが、2月17日に木村年男さんがなくなり、3月11日には福森慶之介さんも亡くなり、態変は、劇団の中心を担う2名を相次いで失った。そんななかで、急遽、53号は彼らの追悼特集号となった。
以下の原稿は、もともとはその53号のために書いたものである。だが、特集のページ数の問題もあり、残念ながら没原稿になった。だけど、せっかく書いたのだから、ここにアップしておきたい。内容は小劇場って何なのかを、改めて考えてみたものだ。
今こそ、小劇場演劇を
小劇場演劇というものについて、改めて考える。ウィキペディアには「小劇場(しょうげきじょう)とは小さな劇場のことであるが、小劇場を拠点とした演劇集団(劇団)及びその活動(小劇場運動)を指すこともある。小劇場運動は日本で1960年代から現代演劇の中心であった新劇に対抗する形で始まり、アングラ演劇とも呼ばれた。1970年代以降、つかこうへい、野田秀樹、鴻上尚史、三谷幸喜らが活躍した。小劇場出身者もより大きな舞台やマスコミで活動するようになったため、現在ではその境は昔ほどはっきりとはしたものではなくなっている。」とある。
先日、太陽族の新作(『異郷の涙』)を見ながら「なんだか芝居が遠いなぁ」と思った。つまらないわけではない。それどころか、いつものように力強い作品で、とてもいい芝居だと、思う。だが、この遠さは何だ? 原因はすぐに、わかった。要するに、ここが「中劇場」(ドーンセンター)である、というただそれだけのことがこの要因なのだ。あまりに単純な話に呆然とする。
キャパシティー100から200くらいの小さな劇場。それが小劇場の定義だろう。僕は少なくともそう理解している。400くらいまでいくと、もう小劇場とは言えない。小劇場は、手を伸ばせば役者に届く(あるいは、届く、ような気がなる)そんな劇場のことだ。小劇場で行われる芝居を小劇場演劇という。これは物理的な問題なのだが、それは作品の本質にも通じる。さらには作り手の意識、観客の生理にまで影響を及ぼす。これは芝居や映画、小説というジャンルの問題ではない。小劇場演劇はふつうの演劇とは別のものなのかもしれない。そんなことを感じる。客席と舞台の一体感。単純にそんなふうに呼ぶのも憚られる。だが、そこにある共犯関係は小劇場の肝だ。一種の共同幻想とすら呼べるものがそこにはある。一方的なものではない、ということがここまで明確な表現ジャンルは他にはないのではないか。だから、先の太陽族の新作は小劇場のルールで作られてあるから、面白いのに、中劇場で公演されたから胸に迫らなかったのであろう。作品の完成度とは別次元の問題がそこにはある。
関西の小劇場シーンにおいて一番重要な拠点はウイングフィールドである。たった「100人の戯空間」と銘打たれるこの小さなビルの6階にある箱は、その劇場自体が重要なのではない。そこを運営しているスタッフの姿勢が重要なのである。オーナーの福本年雄さんを中心にしてここに集うスタッフは、ただ劇場を経営していくことだけを考えているのではない。民営のささやかな空間において可能な、むしろ、そういう空間だからこそ可能な、人とのふれあいを重視する。それは以前に書いたウイングカップの記事の中でも触れたとおりだ。(イマージュ50号「ウイングカップ2010」参照)
ウイングフィールドにとってこのウイングカップの開催は、ただのイベントではない。これは運動だ。だから、当然、昨年も継続して第2回のウイングカップ2011が開催された。参加劇団は少し減ったがそんなことは問題ではない。規模が大きいか、小さいかなんて瑣末な話だ。大事なことはその中身である。1昨年以上に各劇団のレベルは向上している。さらには3劇団も継続して参加している。(うちひとつは直前で公演中止になったが、そういうことは小劇場では時にある)それはこの企画に共鳴し、参加したからわかる魅力を理解したからであろう。ウイングは人を大事にする。稽古場を訪れアドバイスを与えたり、事前、事後のフォローを大切にする。それは上から目線での作業ではなく、ともに作品を立ち上げる姿勢の賜物なのだ。小劇場の精神はここに尽きる。提供する側と、与えられる側という、棲み分けはない。先に言った観客と演者の垣根がない、ということもこれと同じだ。奇麗事ではなく、観客とともに芝居を作ることが、小劇場の最重要課題であろう。そこをウイングはちゃんと理解している。
今回最優秀作品賞を受賞したのは、2VS2『二対二名人の16連射』である。作品自体の完成度はともかくとして、何よりもまず、彼らの「おもてなしの態度」に感動する。見せるという行為に最大限の心配りをする。90分程の上演時間の細部まで、観客の反応を計算して、作られてある。それは観客におもねると言うのではない。伝えたい気持ちが、ちゃんと伝わるように考えるという姿勢なのだ。コント集なのだが、軽いお話とは裏腹に作品自体は繊細でよく目が行き届いてある。
僕は今回初めてこの集団に接したのだが、作品自体もとてもスマートでおもしろいものだった。内容は事前にチラシで、全エピソードが告知されている! 全体の構成も実によく出来ている。個々の作品は、上手いし、スタイリッシュで、おしゃれだ。全体が予定より短く75分というのもいい。テンポよく切り上げ、無駄がないすっきりした作りとなっている。いたずらにだらだらしないのがいい。アイデアも豊富で、それをきちんと作り込み、無理なく見せる。最初の思いつきを形にしていく過程で、それを大事に育てようとする姿勢が結果的に作品のレベルをひき上げることにつながる。そんな当たり前のことがしっかり出来ているのがいい。見せ方は大事だ。いくらいい思いつきであっても、それが身内受けにしかならないのなら、意味はない。観客にしっかりと伝わって初めて意味を持つ。コントだからこそ、簡単に作られるのではなくちゃんと練られてあるべきなのだ。そのへんを彼らは実によく理解している。
余談だが、下ネタ大好きというのもいい。それが、いやらしさにはつながらず、彼らの子供っぽさへとつながるのだ。いい歳した大人が、うんこ、ちんこで大騒ぎ出来るのもいい。『ウディ・アレンのSEXのすべて』のパクリも楽しい。余裕のある遊び心が、無邪気な少年っぽさと、大人のおもてなしのもとに展開される。内容がない、という批判は当然出て来るだろうが、今はまず、エンタテインメントとして極めることが第一だ。そういう意味でも今はこれでいいのではないか。
今回惜しくも最優秀賞は逃したが、優秀賞を受賞したのは本上百貨店『キラキラ』だ。これまでは短編を書いてきた本上功大が挑んだ本格的長編作品である。この作品は、一見すると、ハートウォーミングのようにも見える。『めぞん一刻』みたいなアパート、管理人さんと住人たちのお話である。管理人は女子高校生で、彼女の母親が男と駆け落ちしてしまったので、彼女がここの住人の面倒を見ている。みんなの食事を用意して、世話をする。ここに住んでいるのは、たった3人。小学教師の30代女性、20歳の大学生男子、そして、一世を風靡した女流小説家(たぶん、30歳くらいか)。その小説家の恋人で、無職のヒモ男も、ここに居着いている。この男がちょっとしたトラブルメイカーとなる。設定はあまりリアルではないけど、この状況を受け入れたなら、そこで展開していくこととなるお話はけっこうスリリングだ。
それにしても、変な芝居である。主人公の女子高生の真面目過ぎるところに、イライラさせられる。ちょっと天然ではないかと思わせるが、彼女の一途さが作品に一本筋を通す。いろんなことを理解した上で、邪悪なものには染まらない覚悟のようなものを感じさせる。
登場人物は彼女を含めて5人とこれはかなり少ない。だが、いずれも個性的に色分けされている。このアパートで暮らす「おバカ」な人たちの姿を小説として綴っている作家の女性も含めて、みんななんらかの悪意がある。無意識であってもその悪意は伝わる。特にこの作家のヒモである男(2VS2の長橋秀仁)の突き放したような対応はちょっと怖い。
カマトトぶっているようにも見える主人公と無邪気な大学生という若い2人と、それぞれがいろんな意味でずるい大人たち、という図式がきちんと描かれる。ここまで明確に子供と大人という区分けをされると、このドラマがリアルではなく、象徴的なものである意味がよくわかる。この対比からドラマは展開していくのだが、どこまでが作者の意図なのかはよくわからない。本当なら、もう少し登場人物を増やしたほうが、いい気もするが、作者である本上さんは最小限の人数に絞り込むことで、この作品をシンプルな人間関係の縮図として提示したかったのだろう。
ファーストシーンで提示されたみんなでささやかなクリスマスパーティーをしたいと願う少女の想いは実現することはない。それどころか、作家とヒモはここを去っていく。ここに住む人たちを小馬鹿にして、面白おかしく書いていた作家は自分が描いていることが表層的なことで、小説とはいえないレベルのくだらない物だと認識している。だから、彼らをモデルにして、連載していることがばれたとき、悪びれることなく素直にあやまる。自分の書いているものは、小説ですらない。彼女はエッセイと言うが、本当はそれも違うだろう。本当のことをそのまま書いているように見えて、何も本当のことなんか書けていない。彼女には人の気持ちなんかわからない。
とても緊張感のあるいい芝居だと思う。だけれども、このままでは全体の作りが中途半端で、意図は伝わらない。大体作者の意図がどこにあるのかもわかりにくい。どこまで確信を持って、作者がやっているのかわからないのは微妙なところだ。でも、そこに可能性はある。この作者のちょっといびつな人間観察は確かにおもしろいのだ。
作品としての完成度という面では昨年の最優秀賞を受賞した、ともにょ企画には及ばない2作品ではあるが、いずれも、どこにもないような自分たち独自の視点を持ち、これからどんどん成長してくる可能性を持つ集団だ。「若手応援シリーズ」と銘打つこの企画としては、その性格上こういう集団にこそ賞を与えるのが正しいありかただろう。今の時点での実力を評価するのではない。今後必ず優れた作品を作るであろう劇団を断固として応援する、その姿勢をウイングは貫く。選考会で僕は「今年は受賞作なしでもいいのではないか」と述べたのだが、劇場側から断固として拒絶された。その姿勢もすばらしい、と思う。
今年1月、初めてこのウイングフィールドを使用した小劇場の老舗である青い鳥『ボクと妹のいる風景 東京』は、まるで、劇団自体が初心に戻ったような新鮮で刺激的な作品だった。そして、あの作品の何よりの魅力はこのとても小さな空間サイズと作品事態がぴったり一致することによって生まれるものであったというその当然の事実である。その1点に尽きる。なぜ、こんなにも何もない小さな空間が作品を輝かせるのだろうか。そこに小劇場の存在意義が隠されていることは明確であろう。
それは作り手の力量を超えたものを現出させるところにある。観客とのコラボによる幻想空間を共有することで生まれる感動が、そこに生じるからである。手の届くところに役者がいて、彼らの圧倒的な存在感が、作品を形作ることを我々が直に目撃する。この共犯関係が小劇場の感動なのだ。そういう意味でも、まさにオーソドックスの極みをいくKUTO-10『楽園!』はそのことをはっきり伝えてくれる傑作である。本稿の最後はこの作品の話で終わる。
久々に刺激的な芝居に出会えた、と思えた。こういう芝居を見ると、芝居を見ていて好かったなぁと、しみじみ感じる。これは演劇的想像力を刺激される心地よい作品なのである。ここには何一つ特別な仕掛けがあるわけではない。だいたいセットもほとんどない。衣装もふつう。ビデオによる映像を使っているくらいで、あとは何もない。(まぁ、狸の置物はたくさんあるけど)なのに、どんどん引き込まれる。
主人公である元OL(岩井由紀)と「もっかい様」と彼女が呼ぶへんなおっさん(保)に導かれて、もうひとりの主人公である、まるでさえない訪問販売のセールスマン、アバラ(工藤俊作)は「楽園」を目指す。作品はロードムービーのスタイルを取る。彼らが旅の途上で出会う怪しい人々とのやりとりが、お話のメインだ。やがて、辿り着く「楽園」とはどこなのか。そこで彼らは何を思い、何を感じることとなるのか。それが描かれる。
まさに小劇場の王道を行くタイプの作品なのである。そして、とてもシンプルな作品でもある。これを従来のサリngROCKのやり方で見せたなら、もっとポップで弾けた芝居になったことであろう。舞台美術もこんな簡素にはせず、ちゃんと立て込んで、衣装も派手で、目に楽しい作品になったはずだ。だが、今回演出を担当した山口茜はそうはしない。そういういらないもの(!)は極力削ぎ落として、シンプルな骨格だけで見せる。台本に書かれたドラマをできるだけ簡単に見せる。その結果、作品はサリngROCKには出来なかったものを手に入れることとなる。 それは、ここには何もない、という認識である。90分の芝居が手にしたものは、その空虚さだけであるという事実に愕然とする。だが、その事実の潔さがこの作品の感動なのだ。どうしようもない現実と向き合うことを拒否して「楽園」幻想に逃げようとした赤の他人である2人が、それぞれの現実と向き合うことで、今、自分に必要なものを見出す。当たり前の現実と向き合うその最後の瞬間に、彼女は楽園への扉を開く。感動的な幕切れだ。こんなにも単純なラストがここまで胸にしみるのは、この芝居には一切、まやかしや嘘がないからである。
もっかい様が、居酒屋「楽苑」(楽園ではない)の店主で、このなんでもない居酒屋で、酒を飲み、うだを巻き、その日の憂さを晴らすサラリーマンたちの中にOLが好きだった課長もいる。つまらない不倫をして、つまらない課長から棄てられて、会社も辞めさせられて、絵に描いたような展開の果て、ひきこもりの生活をしてきた彼女と、同じように会社をクビになり、仕事もないまま、すがるように蒲団の訪問販売なんていう無口な彼には絶対に不可能な仕事をしながら、まるで蒲団が売れないまま日々を過ごす中年男である彼が出会い、もちろんそこにはロマンスのかけらもないまま、2人は旅に出る。いんちき宗教団体がなんと2つも絡んできて、彼らの旅は続く。 同じ所をぐるぐるまわるこのお話はサリngROCKのいつものやり方で、堂々巡りから抜け出せないまま、収束していくのが従来のパターンだった。
だが、今回は違う。それは自分の劇団で作るのではなく、外部団体からの依頼で書いた台本だったから可能だったのではない。これは先にも書いたが演出の力である。本人がこの芝居を演出したなら、きっといつもと同じパターンのものになったはずだ。そして、それはそれで素晴らしい作品になる。だが、今回、山口茜の演出によって、作られたこの作品は従来の突劇金魚とは違う客観的な視線を持ち、その結果、作品が、いつものように閉じることなく、開かれたものとなった。このほんのちょっとした違いがサリngROCKの世界をここまで変貌させることとなる。見事だ。
この作品が、ここまでつき抜けたものとなったのは、大人の役者たちの踏ん張り(と、言いつつも、実は肩の力の抜けた芝居)と、若い役者たちとのアンサンブルが成功したからだろう。従来なら袋小路に陥り、右往左往するサリngROCKの魅力をあえて封印した演出が成功の理由だ。
いかにも、小劇場が好みそうな芝居である。でも、このスタンダードがなかなか最近はなかった気がする。だからこれは、僕にとってなんだかとてもうれしい芝居だったのだ。小劇場であることの魅力が全開した作品を見ることで、これが「小劇場」でよかったと改めて思う。芝居が小劇場であることの意味を充分噛みしめて、その可能性を存分に発揮する作品とこれからも出会いたい。(了)
以下の原稿は、もともとはその53号のために書いたものである。だが、特集のページ数の問題もあり、残念ながら没原稿になった。だけど、せっかく書いたのだから、ここにアップしておきたい。内容は小劇場って何なのかを、改めて考えてみたものだ。
今こそ、小劇場演劇を
小劇場演劇というものについて、改めて考える。ウィキペディアには「小劇場(しょうげきじょう)とは小さな劇場のことであるが、小劇場を拠点とした演劇集団(劇団)及びその活動(小劇場運動)を指すこともある。小劇場運動は日本で1960年代から現代演劇の中心であった新劇に対抗する形で始まり、アングラ演劇とも呼ばれた。1970年代以降、つかこうへい、野田秀樹、鴻上尚史、三谷幸喜らが活躍した。小劇場出身者もより大きな舞台やマスコミで活動するようになったため、現在ではその境は昔ほどはっきりとはしたものではなくなっている。」とある。
先日、太陽族の新作(『異郷の涙』)を見ながら「なんだか芝居が遠いなぁ」と思った。つまらないわけではない。それどころか、いつものように力強い作品で、とてもいい芝居だと、思う。だが、この遠さは何だ? 原因はすぐに、わかった。要するに、ここが「中劇場」(ドーンセンター)である、というただそれだけのことがこの要因なのだ。あまりに単純な話に呆然とする。
キャパシティー100から200くらいの小さな劇場。それが小劇場の定義だろう。僕は少なくともそう理解している。400くらいまでいくと、もう小劇場とは言えない。小劇場は、手を伸ばせば役者に届く(あるいは、届く、ような気がなる)そんな劇場のことだ。小劇場で行われる芝居を小劇場演劇という。これは物理的な問題なのだが、それは作品の本質にも通じる。さらには作り手の意識、観客の生理にまで影響を及ぼす。これは芝居や映画、小説というジャンルの問題ではない。小劇場演劇はふつうの演劇とは別のものなのかもしれない。そんなことを感じる。客席と舞台の一体感。単純にそんなふうに呼ぶのも憚られる。だが、そこにある共犯関係は小劇場の肝だ。一種の共同幻想とすら呼べるものがそこにはある。一方的なものではない、ということがここまで明確な表現ジャンルは他にはないのではないか。だから、先の太陽族の新作は小劇場のルールで作られてあるから、面白いのに、中劇場で公演されたから胸に迫らなかったのであろう。作品の完成度とは別次元の問題がそこにはある。
関西の小劇場シーンにおいて一番重要な拠点はウイングフィールドである。たった「100人の戯空間」と銘打たれるこの小さなビルの6階にある箱は、その劇場自体が重要なのではない。そこを運営しているスタッフの姿勢が重要なのである。オーナーの福本年雄さんを中心にしてここに集うスタッフは、ただ劇場を経営していくことだけを考えているのではない。民営のささやかな空間において可能な、むしろ、そういう空間だからこそ可能な、人とのふれあいを重視する。それは以前に書いたウイングカップの記事の中でも触れたとおりだ。(イマージュ50号「ウイングカップ2010」参照)
ウイングフィールドにとってこのウイングカップの開催は、ただのイベントではない。これは運動だ。だから、当然、昨年も継続して第2回のウイングカップ2011が開催された。参加劇団は少し減ったがそんなことは問題ではない。規模が大きいか、小さいかなんて瑣末な話だ。大事なことはその中身である。1昨年以上に各劇団のレベルは向上している。さらには3劇団も継続して参加している。(うちひとつは直前で公演中止になったが、そういうことは小劇場では時にある)それはこの企画に共鳴し、参加したからわかる魅力を理解したからであろう。ウイングは人を大事にする。稽古場を訪れアドバイスを与えたり、事前、事後のフォローを大切にする。それは上から目線での作業ではなく、ともに作品を立ち上げる姿勢の賜物なのだ。小劇場の精神はここに尽きる。提供する側と、与えられる側という、棲み分けはない。先に言った観客と演者の垣根がない、ということもこれと同じだ。奇麗事ではなく、観客とともに芝居を作ることが、小劇場の最重要課題であろう。そこをウイングはちゃんと理解している。
今回最優秀作品賞を受賞したのは、2VS2『二対二名人の16連射』である。作品自体の完成度はともかくとして、何よりもまず、彼らの「おもてなしの態度」に感動する。見せるという行為に最大限の心配りをする。90分程の上演時間の細部まで、観客の反応を計算して、作られてある。それは観客におもねると言うのではない。伝えたい気持ちが、ちゃんと伝わるように考えるという姿勢なのだ。コント集なのだが、軽いお話とは裏腹に作品自体は繊細でよく目が行き届いてある。
僕は今回初めてこの集団に接したのだが、作品自体もとてもスマートでおもしろいものだった。内容は事前にチラシで、全エピソードが告知されている! 全体の構成も実によく出来ている。個々の作品は、上手いし、スタイリッシュで、おしゃれだ。全体が予定より短く75分というのもいい。テンポよく切り上げ、無駄がないすっきりした作りとなっている。いたずらにだらだらしないのがいい。アイデアも豊富で、それをきちんと作り込み、無理なく見せる。最初の思いつきを形にしていく過程で、それを大事に育てようとする姿勢が結果的に作品のレベルをひき上げることにつながる。そんな当たり前のことがしっかり出来ているのがいい。見せ方は大事だ。いくらいい思いつきであっても、それが身内受けにしかならないのなら、意味はない。観客にしっかりと伝わって初めて意味を持つ。コントだからこそ、簡単に作られるのではなくちゃんと練られてあるべきなのだ。そのへんを彼らは実によく理解している。
余談だが、下ネタ大好きというのもいい。それが、いやらしさにはつながらず、彼らの子供っぽさへとつながるのだ。いい歳した大人が、うんこ、ちんこで大騒ぎ出来るのもいい。『ウディ・アレンのSEXのすべて』のパクリも楽しい。余裕のある遊び心が、無邪気な少年っぽさと、大人のおもてなしのもとに展開される。内容がない、という批判は当然出て来るだろうが、今はまず、エンタテインメントとして極めることが第一だ。そういう意味でも今はこれでいいのではないか。
今回惜しくも最優秀賞は逃したが、優秀賞を受賞したのは本上百貨店『キラキラ』だ。これまでは短編を書いてきた本上功大が挑んだ本格的長編作品である。この作品は、一見すると、ハートウォーミングのようにも見える。『めぞん一刻』みたいなアパート、管理人さんと住人たちのお話である。管理人は女子高校生で、彼女の母親が男と駆け落ちしてしまったので、彼女がここの住人の面倒を見ている。みんなの食事を用意して、世話をする。ここに住んでいるのは、たった3人。小学教師の30代女性、20歳の大学生男子、そして、一世を風靡した女流小説家(たぶん、30歳くらいか)。その小説家の恋人で、無職のヒモ男も、ここに居着いている。この男がちょっとしたトラブルメイカーとなる。設定はあまりリアルではないけど、この状況を受け入れたなら、そこで展開していくこととなるお話はけっこうスリリングだ。
それにしても、変な芝居である。主人公の女子高生の真面目過ぎるところに、イライラさせられる。ちょっと天然ではないかと思わせるが、彼女の一途さが作品に一本筋を通す。いろんなことを理解した上で、邪悪なものには染まらない覚悟のようなものを感じさせる。
登場人物は彼女を含めて5人とこれはかなり少ない。だが、いずれも個性的に色分けされている。このアパートで暮らす「おバカ」な人たちの姿を小説として綴っている作家の女性も含めて、みんななんらかの悪意がある。無意識であってもその悪意は伝わる。特にこの作家のヒモである男(2VS2の長橋秀仁)の突き放したような対応はちょっと怖い。
カマトトぶっているようにも見える主人公と無邪気な大学生という若い2人と、それぞれがいろんな意味でずるい大人たち、という図式がきちんと描かれる。ここまで明確に子供と大人という区分けをされると、このドラマがリアルではなく、象徴的なものである意味がよくわかる。この対比からドラマは展開していくのだが、どこまでが作者の意図なのかはよくわからない。本当なら、もう少し登場人物を増やしたほうが、いい気もするが、作者である本上さんは最小限の人数に絞り込むことで、この作品をシンプルな人間関係の縮図として提示したかったのだろう。
ファーストシーンで提示されたみんなでささやかなクリスマスパーティーをしたいと願う少女の想いは実現することはない。それどころか、作家とヒモはここを去っていく。ここに住む人たちを小馬鹿にして、面白おかしく書いていた作家は自分が描いていることが表層的なことで、小説とはいえないレベルのくだらない物だと認識している。だから、彼らをモデルにして、連載していることがばれたとき、悪びれることなく素直にあやまる。自分の書いているものは、小説ですらない。彼女はエッセイと言うが、本当はそれも違うだろう。本当のことをそのまま書いているように見えて、何も本当のことなんか書けていない。彼女には人の気持ちなんかわからない。
とても緊張感のあるいい芝居だと思う。だけれども、このままでは全体の作りが中途半端で、意図は伝わらない。大体作者の意図がどこにあるのかもわかりにくい。どこまで確信を持って、作者がやっているのかわからないのは微妙なところだ。でも、そこに可能性はある。この作者のちょっといびつな人間観察は確かにおもしろいのだ。
作品としての完成度という面では昨年の最優秀賞を受賞した、ともにょ企画には及ばない2作品ではあるが、いずれも、どこにもないような自分たち独自の視点を持ち、これからどんどん成長してくる可能性を持つ集団だ。「若手応援シリーズ」と銘打つこの企画としては、その性格上こういう集団にこそ賞を与えるのが正しいありかただろう。今の時点での実力を評価するのではない。今後必ず優れた作品を作るであろう劇団を断固として応援する、その姿勢をウイングは貫く。選考会で僕は「今年は受賞作なしでもいいのではないか」と述べたのだが、劇場側から断固として拒絶された。その姿勢もすばらしい、と思う。
今年1月、初めてこのウイングフィールドを使用した小劇場の老舗である青い鳥『ボクと妹のいる風景 東京』は、まるで、劇団自体が初心に戻ったような新鮮で刺激的な作品だった。そして、あの作品の何よりの魅力はこのとても小さな空間サイズと作品事態がぴったり一致することによって生まれるものであったというその当然の事実である。その1点に尽きる。なぜ、こんなにも何もない小さな空間が作品を輝かせるのだろうか。そこに小劇場の存在意義が隠されていることは明確であろう。
それは作り手の力量を超えたものを現出させるところにある。観客とのコラボによる幻想空間を共有することで生まれる感動が、そこに生じるからである。手の届くところに役者がいて、彼らの圧倒的な存在感が、作品を形作ることを我々が直に目撃する。この共犯関係が小劇場の感動なのだ。そういう意味でも、まさにオーソドックスの極みをいくKUTO-10『楽園!』はそのことをはっきり伝えてくれる傑作である。本稿の最後はこの作品の話で終わる。
久々に刺激的な芝居に出会えた、と思えた。こういう芝居を見ると、芝居を見ていて好かったなぁと、しみじみ感じる。これは演劇的想像力を刺激される心地よい作品なのである。ここには何一つ特別な仕掛けがあるわけではない。だいたいセットもほとんどない。衣装もふつう。ビデオによる映像を使っているくらいで、あとは何もない。(まぁ、狸の置物はたくさんあるけど)なのに、どんどん引き込まれる。
主人公である元OL(岩井由紀)と「もっかい様」と彼女が呼ぶへんなおっさん(保)に導かれて、もうひとりの主人公である、まるでさえない訪問販売のセールスマン、アバラ(工藤俊作)は「楽園」を目指す。作品はロードムービーのスタイルを取る。彼らが旅の途上で出会う怪しい人々とのやりとりが、お話のメインだ。やがて、辿り着く「楽園」とはどこなのか。そこで彼らは何を思い、何を感じることとなるのか。それが描かれる。
まさに小劇場の王道を行くタイプの作品なのである。そして、とてもシンプルな作品でもある。これを従来のサリngROCKのやり方で見せたなら、もっとポップで弾けた芝居になったことであろう。舞台美術もこんな簡素にはせず、ちゃんと立て込んで、衣装も派手で、目に楽しい作品になったはずだ。だが、今回演出を担当した山口茜はそうはしない。そういういらないもの(!)は極力削ぎ落として、シンプルな骨格だけで見せる。台本に書かれたドラマをできるだけ簡単に見せる。その結果、作品はサリngROCKには出来なかったものを手に入れることとなる。 それは、ここには何もない、という認識である。90分の芝居が手にしたものは、その空虚さだけであるという事実に愕然とする。だが、その事実の潔さがこの作品の感動なのだ。どうしようもない現実と向き合うことを拒否して「楽園」幻想に逃げようとした赤の他人である2人が、それぞれの現実と向き合うことで、今、自分に必要なものを見出す。当たり前の現実と向き合うその最後の瞬間に、彼女は楽園への扉を開く。感動的な幕切れだ。こんなにも単純なラストがここまで胸にしみるのは、この芝居には一切、まやかしや嘘がないからである。
もっかい様が、居酒屋「楽苑」(楽園ではない)の店主で、このなんでもない居酒屋で、酒を飲み、うだを巻き、その日の憂さを晴らすサラリーマンたちの中にOLが好きだった課長もいる。つまらない不倫をして、つまらない課長から棄てられて、会社も辞めさせられて、絵に描いたような展開の果て、ひきこもりの生活をしてきた彼女と、同じように会社をクビになり、仕事もないまま、すがるように蒲団の訪問販売なんていう無口な彼には絶対に不可能な仕事をしながら、まるで蒲団が売れないまま日々を過ごす中年男である彼が出会い、もちろんそこにはロマンスのかけらもないまま、2人は旅に出る。いんちき宗教団体がなんと2つも絡んできて、彼らの旅は続く。 同じ所をぐるぐるまわるこのお話はサリngROCKのいつものやり方で、堂々巡りから抜け出せないまま、収束していくのが従来のパターンだった。
だが、今回は違う。それは自分の劇団で作るのではなく、外部団体からの依頼で書いた台本だったから可能だったのではない。これは先にも書いたが演出の力である。本人がこの芝居を演出したなら、きっといつもと同じパターンのものになったはずだ。そして、それはそれで素晴らしい作品になる。だが、今回、山口茜の演出によって、作られたこの作品は従来の突劇金魚とは違う客観的な視線を持ち、その結果、作品が、いつものように閉じることなく、開かれたものとなった。このほんのちょっとした違いがサリngROCKの世界をここまで変貌させることとなる。見事だ。
この作品が、ここまでつき抜けたものとなったのは、大人の役者たちの踏ん張り(と、言いつつも、実は肩の力の抜けた芝居)と、若い役者たちとのアンサンブルが成功したからだろう。従来なら袋小路に陥り、右往左往するサリngROCKの魅力をあえて封印した演出が成功の理由だ。
いかにも、小劇場が好みそうな芝居である。でも、このスタンダードがなかなか最近はなかった気がする。だからこれは、僕にとってなんだかとてもうれしい芝居だったのだ。小劇場であることの魅力が全開した作品を見ることで、これが「小劇場」でよかったと改めて思う。芝居が小劇場であることの意味を充分噛みしめて、その可能性を存分に発揮する作品とこれからも出会いたい。(了)