今年も金蘭会の卒業公演を見ることができたのがうれしい。3年間の集大成である。彼女たちがここで金蘭演劇を生きた時間のすべてが、この作品の中には表現されている。彼女たちの不幸はコロナだ。コロナ禍で、満足な活動ができなかった。さらには、下の学年の部員たちも従来のように多くはない。今までの先輩たちによる金蘭演劇を知っているけど、それと同じようなものが作れない。状況が変わってしまったからだ。それでも、伝統を引き継ぎ、伝え、残し、実践する。過酷な環境のなかで精いっぱい戦った。その軌跡の先に、今回のこの作品がある。そんな11人の戦士たちはとても立派だと思う。
以前もこれを取り上げようとしたことがあったらしい。サジキドウジという劇団の東憲司作品。その時はHPFの作品として、だ。スケールの大きな作品である。だけど、その時は断念した。そのへんの事情は分からない。もちろんそれは彼女たちの代のお話ではない。ずっと前の(17,8年前!)先輩の時代の話らしい。そんな古い台本を引き出してきて、今回取り上げることにした。彼女たちはこの台本のどこに心惹かれたのだろうか。確かにこれは金蘭の過去の傑作『人魚伝説』や『ジャップドール』にも通じる世界だけど。
芝居を見ながら、なんだかとても違和感がある。お話に乗れない。それってなんだか不思議だった。金蘭の芝居を見て今までこんなことを感じたことは(たぶん)なかったはずだ。芝居自体はいつものように金蘭らしい芝居である。台本がよくないのではないか、と思った。昭和39年、博多の炭鉱町を舞台にして、そこに生きる浮浪者の少年たち。二人の少年の出会い。彼らの姿を追いかけながら、2時間半のドラマは綴られていく。幻の贋作少年に導かれて。
ストーリーの表面はわかりやすい。だけど、その底に流れるものが伝わらない。だから芝居は上滑りしていく。見ていて観客である僕の方が焦るほどだ。こんなはずじゃなかったのに、と。今回、卒業公演ということで基本3年生だけで演じることに問題があったのか。彼女たちはひとりで何役もこなしフル回転で舞台上を駆け回る。だけど、芝居に厚みはない。
ここに登場する貧しい大人たちや子供たちの姿から、この芝居はどこにたどりつこうとしたのか。11人が演じるこの群像劇からは、その帰着点が見えないのだ。それは台本の問題なのか、芝居自体の詰めの弱さか。緊張感が持続しない。お話はある意味単純だ。だから、少年の痛みや苦しみが伝わりやすい。だけど、それが残念だが、空回りしていく。見終えたとき、すごく残念な気分になった。
だけど、反対に、だからこそ、その悔しさが心に沁みた。そんな気がする。そこには幻を追いかけて、生きる姿がある。芝居自体の完成度云々をここでいうのではなく、この作品がもっと遠くを目指したにもかかわらず、たどり着けなかった無念が心に沁みるのだ。だから、ここは到達点ではない。だからすがすがしい。