ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
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それは、想い出という名の心の糧 

レンブラント(8) 「窓辺の女」

2017年07月22日 |  ∟ドイツの美術館

 ※ ドイツ ‐ ベルリン/ゲマルデ・ギャラリー編 (26) ‐ 中欧美術館絵画名作選 (78)

 最愛の妻サスキアを失い、生後9月の息子ティトゥスを残されたレンブラント・ファン・レイン(1606-1669)、乳母兼家政婦としてヘールトヘ・ディルクを雇う。

 オランダ南西部ゼーラント州の農家の出で未亡人だった彼女、サスキアとは正反対、教養はないものの賢明で頑健だったとされている。

 三十六歳の男盛りのレンブラント、程なくしてヘールトヘを愛人にしたため世間から非難を浴び、顧客離れや放埓な生活もあって画業も次第に陰り始める。

 サスキアの遺産は、遺言により再婚すれば没収されることに決まっていたこともあって、ヘールトヘはサスキアが遺した宝石などの全財産を、ティトゥスを受取人とする遺言書を登録する。

 その数月後、ヘンドリッキエ・ストッフェルスとの関係をヘールトヘに知られたレンブラント、婚約不履行で毎年多額の手当の支払いを命じられた。

 ところが彼女がサスキアの宝石を質入れしたことで今度は彼が訴えた。
 二年近く続いた裁判でヘールトヘは更生施設に収容されたものの、彼が望んだ手当の支払い義務からは解放されなかったという。

 その裁判でレンブラント側の証人として法廷にも立ったヘンドリッキエを描いた 「窓辺の女」(1656-57年)が今回の作品。

 本作のイメージは沈痛、当時の家政婦の象徴とされていたキーを首にかけ、窓に手を置く彼女の胸に去来するのは困窮する家政、それともレンブラントの放蕩だったか。

 レンブラントは、彼に誠実だったヘンドリッキエを必ずしも大切にしなかったとされている。
 が、モデルとしては優れた作品を描いてい、それは、「<自画像‐職人の装い>」(1652年/美術史美術館蔵)との対画とされる 「<ビロードのベレー帽を被ったヘンドリッキエ・ストッフェルス>」(1652年/ルーヴル美術館蔵)にも見られるという。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1348


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