何時の間にか、秋の初めの祝日に敬われる歳になった。
捻くれ酔狂、年齢がその固まりの中に入っただけのこと、一括りにしなさんな、と見っともなく嘯いているが。
ところで朝日に、「おやじのせなか」という連載がある。
その企画を真似たのか、TBSが著名なTV脚本家を並べて一話完結のドラマにしたので、一度、チャンネルを合わせたが、余り面白くないので以降は視ていない。
その親父(おやじ)、想い返してみれば、余りにも知らないことが多いことに気付いた。
確かなことと言えば無口で、笑うことも余りなかったように憶えている。
身内が言うのも変だが賢い人だったが、人を疑うことを余り知らない不器用な人だった、と今になれば思う。
裕福でもないのに保証人になって苦労しているのを覚えているが、若い頃に苦労したらしく、その時に多くの方から受けた恩を幾許でも返せればと思っていたのだろうか、頼まれれば断れない性格だったのかも。
親父、母親と違ってドラマにもなりにくい、そんな存在でもあるが、背中で教えるなんて当節骨董屋を探してもなかなか見つからないようだ。
朝日の連載を読む度に、顧みて自分はどのような存在なのか?と思う。
背中と目尻の皺に教えることのすべてがある、そんな老爺でありたいとは思うが、まだまだ青くありたい自分がいて、果たせそうにない。
捻くれ序に、この敬老の日という祝日(9/15)、手放しで喜んでもいられないようだ。
この日の朝日に、“ 詩人の伊藤比呂美さんと考える「食われない介護」” の見出しがあって、なんだ?と目を惹いた。
その記事で伊藤さんは、“ 父親の介護で、どこかに「もう少しできた」と後悔を持つことで謙虚でいられた。それで自分が(被介護者に)食われないで済んだんじゃないかな ” と話されていたのが印象に残った。
写真は、「ペンタス」と「サフィニア」、初夏から秋頃まで息長く咲くらしくあやかりたいものだが、一方で、長生きするのも考えものだとも。
悲しいけれど、それもまた現実のよう、祝いの日にそんなことを少し考えた。
Peter & Catherine’s Travel. Tour No.865
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