ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

フェルメール

2010年02月10日 | ベネルクス

 風俗画で名を成したフェルメール
 フェルメールの前に、ともにオランダ絵画黄金期を築き、画業や生活などで真逆にあったレンブラントに少し触れておきたい。

 Photoレンブラントは、1606年ライデンに生まれた。
 アムステルダムに出て工房を構え多くの弟子を使い、聖書や神話の世界や愛する妻サスキア(写真上)とその忘れ形見ティトスを、そして、自像画などに多くの傑作を残した。

 なかでも、グレコの「オルガス伯爵の埋葬」、ベラスケスの「ラス・メニーナス」とともに三大集団肖像画と評される「夜警」などで新ジャンルを確立、栄光と挫折の華々しくも賑やかな63年の人生を送った

 そのレンブラントから26年遅く、デルフトで宿屋を生業とする家に生まれたフェルメール。
 父の勧めもあり画家の道に進んだ。

 Photo_2画業者のギルドである聖ルカ組合の理事に就いたりするものの、レンブラントとは対象的に43年の短い人生にさしたるエピソードもなく、終生デルフトを離れることもなかったとされる。

 宗教画から風俗画へと画風を変えた彼が、生涯に手がけた作品は僅か三十数点とされ、寡作のうえ子どもを多くなしたこともあって、金銭的には不遇をかこったようだ。

 69年頃になって、レンブラントも知己の知識人で、政治家でもあった総督書記官ホイヘンスにより徐々に作品の評価が高まった。
 ものの、画家の没後は、急速に忘れられた存在になってしまったとされる。

 19世になって印象派の台頭によってこのPhoto_3野への評価が回帰。
 フランス人のトレ・ビュルガーが、彼に関する初の本格的なモノグラフ・論文を発表、自らをフェルメールの発見者として位置付けた。

 そして今、寓意性に富んだ作品は多くの人を集め、所蔵する美術館のステータスを高めてもいる。

 前書きが長くなったが、まずは、アムステルダム国立博物館(写真中)からその旅を始めよう。

 ここには、4.4×3.6mの大作、「夜警」の近く、フェルメールが生涯を過ごした町を描いた0.4×0.5mの小品、「デルフトの小路」(写真下)がある。

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