ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

腑に落ちる ‐ アルテ・ピナコテーク

2013年04月26日 |  ∟ドイツの美術館

 ベッドで政治を操った侯爵夫人のお抱え画家とか、せっせと人馬を描き込んだ画家とか、少しマイナーなイメージの絵を採り上げて来た。

 アルテ・ピナコテーク、「そんな絵しか持っていないの」との声もかかりそうだが、次なるは一寸解りにくい絵。
 尤も、解りにくいのは画家じゃなくてモチーフ、主題だけれど。

 Tintoretto_8その絵とは、盛期ルネサンス・ヴェネツィア派を代表する巨匠、ヤコポ・ティントレット(1518-1595 )の、「マルタとマリアの家のキリスト」(写真上)。

 このモチーフ、時代は下がってオランダ黄金期の画家フェルメール(1632-1675)も同じ題、「マルタとマリアの家のキリスト」(写真下/スコットランド王立美術館蔵)で描いていて何年か前に来日、酷暑のなか東京・上野の<フェルメール展>までのこのこ出掛けた。

 話はそれたが当のモチーフ、新約聖書にある一場面、そのくだりを要約して引用する。

 ある村に入ったイエス一行、マルタという女性が家に迎え入れる。
 マルタはもてなしのため忙しく立ち働いていたが、姉妹のマリアは主の足もとに座ってイエスの話に聞き入っていた。

 マルタは、“ 主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい ” と頼む。

 Vermeer_4すると主は、“ マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない ” (ルカ・1038‐42/新共同訳)と諭す。

 その場面が切り取られているのだが、凡庸なペトロ、「えっ、なんで? マルタだけに世話を・・・」と、幾ら聖書を読み返しても首を傾げる始末。
 準備が終わってから姉妹一緒に話を聞けばよいではないかとも、もてなしなどしなくていいから話を聞けと教えればいいじゃないとも。

 新約聖書略解は、“ イエスを迎えもてなすマルタの行為は積極的に評価される。しかし、それは種蒔きの譬えで、御言葉を聞くが途中で人生の思い煩いになどに塞がれてしまい、実が熟するに至らないのと同じこと ” と解く。

 そして、“ 主の言われた『必要なただ一つのこと』とは、神の国の到来を告げるイエスの言葉を聴くこと ” であると教える。
 腑に落ちるような落ちないような、絵を前に幽かにそんな思い、今も残るのであります。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.602

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする