●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

他人を裁く事

2006年11月23日 | こころの健康
今日は朝から憂鬱な気分でした

それは、今までのような病気的な鬱状態とは違っていて、普通の人も経験するような「何だか、憂鬱だなぁ」って感じでした。身体も楽だったので、寝込む必要はなかったのですが、気力がなかったのでいつものように寝ていました

夕方になってもスッキリしない気分でしたので、Rieちゃんからのメールをきっかけにして、レボンに直行しました

いろんな話しをしているうちに、私が「なぜ憂鬱なのか?」が見えて来ました。それは、私が昨日のブログに書いたように、家族の態度に対して悲しみや苦しみを感じている反面、自分にもそう言う所があるのがわかったからでした。私自身も相手の家族の方の事よりも、自分の身内の不幸中の幸いにばかり目を止めていて、自分も思いやりがないのに、家族の態度を裁いていたのです。人の事は言えません。その小さいと思えるような罪が私を憂鬱にしていたんだと気付く事が出来ました。

不思議な事に他人を裁いたり、批判した事は後で自分に帰ってきますね。「あなたはどうですか」と言う出来事があるんですよ。そこで自分を省みるようにしてもらえます。
イエスさまは罪を許すために来て下さいましたから、私が過ちに気付いて認めて告白した時点で、許して開放して下さいます。ですから、私も今日の憂鬱の原因が判明してスッキリ!爽やかァ~!

つくづく人を裁く事は、愚かな事だと思い知らされました。先ず、人の悪い所に批判的に気付く時点で、自分にもそんな所があるからなんですよね!?
なぜなら、自分に全くない欠点には、他人の欠点にも気付かない事が多いですから。自分にない欠点や、自分も反省している場合は指摘したとしても、相手を裁いて悪く思ったりしません。そして自分も影響を受けたりしません…反省でした

掛け替えのない命

2006年11月23日 | 思うこと
一昨日からとても疲れています。それは、あんなに大きな出来事があったのですから、仕方がないと思っています。

でも、そうではなくて実家のみんなが、被害者の方が亡くなられて、何かこの問題が終わってしまったかのように、いろいろ話している事に私は怖さと言うか、疲れを感じて来ました。相手の家族の方にとっては、いくらおばあさんだったとしても、とても大切な人だったんです。それは、お孫さんの一つ一つの態度や言葉からも、伝わって来ました。
一人の命が失われたのに、何か「終わったこと」「済んだこと」として、家族が軽く話しているように聞こえたので、私はとても疲れてしまいました

意識不明の時には、甥が自暴自棄にならないように励ますために、「いろんな事があるから大丈夫だから」と言って来ました。甥は純真なところがあるので、真摯に受け止めて生きて行くとは思いますが、回りは忘れようとしている…と言うか、軽く考えようとしている気がするんです。もちろん私の家族に、一生苦しんで生きろ!と望んでいるのではありません。

気丈なおばあさんだったから、これからが被害者のご家族にとっては大変なんです。一人の「命の尊」さと言う物が、飛んでしまっているように感じて苦しいんです。

でも、そう言う私も実家から離れて、今こうして葬儀が終わってしまったら、その事は忘れてしまいます。

ただ甥と妹には、これからも被害者の方やご家族への思いを込めた歩みをして欲しいと祈っています。