●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

たったひとりのために

2018年04月22日 | 思うこと





先日、教会でスペシャルゴスペルカフェがあり、コンサート、

ゴスペル発表会、ウクレレ隊、ゴスペルフラで盛りだくさんでした。

そして、たくさんの方々が来て下さって、最後には椅子が足りなくなるほど。 

私もとても楽しませてもらいました。




フリータイムの時に、ある方といろいろなお話をしていたのですが、

「あのね、私たちってたくさんの人達が来られた!とか、

多くの人が救われたとか、そちらの方に目が行くんだけど、

神さまって、たった一人のためにさえ、大きな集会を開かれる事があるのよね。」と。




そうかも知れない!と納得しました。

今日のこのカフェも、私のために開かれたのかも知れないし、

他のある人のために、開かれたのかも知れない。

その結果である実は、ずっと後にならないと分からないかも知れません。

でも、イエスさまの目は「多くの人々」に向いているのではなく、

一人一人の上に注がれているんですね。

私が若い時にイエスさまを信じた「特別集会」も、

わたしのために用意されていたかも?

(それぞれが、自分のためにと思って下さいね・笑)

すると、下記の御言葉が浮かんで来ました。



「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、

その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、

その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。」

(マタイによる福音書 18:12)



イエスさまの目が、私に注がれているとすれば、

なんて素敵で喜ばしい事でしょう!

みんなで礼拝します!

でも、私とイエスさまの時間でもあるんです。

感謝ですねー( v^-゜)♪

神さまに立ち返る方法

2018年04月19日 | 思うこと



普段から、よく夫に言われることが、

「イエスさまを見上げて、信頼し委ねたらいいよ。」

なのですが、調子が悪くて落ち込んでしまうと、見上げ方を忘れてしまいます。

夫の場合は、毎日の習慣のお祈りを始めると、

段々、この世の事から切り離されて、イエスさまの恵みに入れるらしいです。

ところが、その習慣を持たない私は、(同じようにしても、形式的になってしまう)

なかなか立ち返り、委ねて平安を得る事が難しいのです。

病状が悪くなると尚更、自分に囚われてしまい、穴蔵の中にいるようです。




先日も、この負の連鎖に入りそうになりましたが、

ふと、お風呂に入ろうと思い、湯船に浸かりながら、

神さまを礼拝しました。

その時、私が過去にどのような気持ちで、イエスさまの元に帰ったかを、

ふと思いだしました。

私は、取るに足りない者だから、せめてイエスさまの御衣にでも触れば!

子犬でもテーブルの下のパンくずは頂きます!

この2つの信仰でした。



「それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。」

(マルコによる福音書 5:28 )




人それぞれ、イエスさまに近づき方があるように思います。

大事なことは、いつもその原点に帰る事かな、と思います。

マリアのように、香油を注ぐ人もいるでしょう。

放蕩息子のように、帰る人もいます。




それぞれにどんな方法でもいいと思います。

イエスさまは、温かくその信仰を認めて受け入れて下さいます。

それがどんなに小さな信仰でも、他者には見えないほどのものでも。




そして、きっかけさえ掴めていれば、迷子になってもすぐに帰れます。

私は、主の服の裾をしっかり掴んで着いて行こうと思います。

実際は、神さまの方がちゃんと私を捕まえて下さっているのですが。

感謝ですね~