●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

Merry Christmas!の意味

2018年12月24日 | 日記
巷でもクリスマスムードでいっぱいですから、

私もクリスチャンとして、ちゃんとクリスマスの記事を書こうと思います。

よく聞くクリスマスソングに、「きよしこの夜」ってありますね。

途中…「救いの御子は~まぶねの中に~」とあります。

神さまであるイエスさまが、馬小屋で産まれたシーンです。

でも、イスラエルの馬小屋とは私たちにとっては実感が湧かなくて、

どんなに素晴らしい事が起きたのか分かり難いですよね?




ですから、現代に例えてみると、

スラム街の日々殺人事件が起きているビルの路地裏に…

「産まれて下さった!」

民族紛争が日常的に起きて、憎しみ合っている乾いた土地に…

「産まれて下さった!」

戦争とその難民で溢れかえっているテントの中に…

「産まれて下さった!」

毎日、怒鳴り合いの絶えない田舎の仲の悪い家族のいる家に…

「産まれて下さった!」

災害で、家や家族やすべてを失い放心状態でいる人々の中に…

「産まれて下さった!」



そもそも、このままでは何の希望もなかった人類の中に、

本当の希望となるため、生きて!死ぬために産まれて下さったんです。

私たちは、本来本当の神さまに出会うことも出来ないぐらいに離れ、

「神なく望みもない者でした。」




なのに、キリストは私たちのこの荒れた世界に赤ちゃんとして来て下さったんです。

イエスさまには、私たち人間を助ける義務はありませんでした。

しかし、ただただ愛したいだけのために、この世に産まれて下さいました。



そして私たちに希望が与えられました。

イエスさまの十字架の死と復活を信じる者に、新しい命を与えられたからです。

今、この荒れ廃れた世界に希望があるとすれば、それはキリストです。



よく世界を見て下さい。いつかは良くなると思いますか?

人類は、戦争や紛争をやめると思いますか?

幸いに今の日本は平和ですが、人々の心はどうでしょう?

生きやすい世の中ですか?



だから、イエスさまはご自分を犠牲にして下さいました。

これがクリスマスが素晴らしい理由です。

メリークリスマス!

「ちゃんとしなきゃ!」の束縛

2018年11月27日 | 日記
いつ頃からか?

「ちゃんとしなくちゃ!」と思い続けるようになりました。

思春期になってから「ちゃんとしてない自分」に目覚めましたが、

そこまで自分を責めていた訳ではありませんでした。




クリスチャンとなり、最初勤めた会社でも、楽しく仕事してましたので、

きちんと仕事してないとは思っていませんでした。




多分、二十歳過ぎて地元に帰った頃からだと思います。

いつも「ちゃんとしなくちゃ!」と言う強迫観念がまとわりついて来たのは。

元々持っていた「劣等感」に拍車をかけるような環境の中で、

「自分は特別に悪い人間だ!」「常識も分からないダメな人間だ!」

だから、みんなのように「ちゃんとしなきゃ!」と思い初めました。




ところが、そう思えば思うほど、空回りしたり失敗したり、

叱られたりで散々でした。

その間に、自分のイライラを周りの人にぶつけたりもしていました。

その間に結婚もして子育てもしていましたが、

「ちゃんとしてない自分」がいつも私を苦しめました。

もう、どうしたらマトモな人間になれるのか分からないので、

更に混乱して、ひたすら苦しむ日々でした。

数十年、この事で苦しんだと告白します。不安神経症にもなりました。

まるで、出口のないトンネルに迷い込んだかのようでした。




ところが、最近ふとその

「ちゃんとしなくちゃ!」をほとんど感じなくなったと気付きました。

漠然とした思い出はありますが、もう追いかけて来ないと感じるんです。



今がちゃんとしたからではありません。

「ちゃんとしておられる」イエスさまに信頼しているからです。

私は、自分の中に「確かさ」を求めていましたが、そこにはなく、

私の内側におられるイエスさまの確かさで生きることを知りました。



私には、究極のちゃんとしたイエスさまがおられるので、

びくびくしなくても生きて行けるようになりました。

全てイエスさまの恵み!

神さまを愛していると知ること

2018年11月12日 | 日記


先日から、神さまを愛することについて考えています。

私たちクリスチャンは、神さまに愛されている事は知っています。

十字架の愛、恵み、祝福などたくさん頂いて、感謝もしています。

だからといって、自動的に神さまを深く愛するようになるとは限りません。

もちろん、そんなイエスさまは好きです。

大好きだと言って賛美もします。奉仕もします。捧げることもするでしょう。

でも、心から愛することとは、もう少し違うような気がします。




たとえば誰でも中学生ぐらいの頃には、好きな人が出来るでしょう。

私は大人になるまでは、いつも片思いでしたが、

人を好きになる事だけでも、もうかなり幸せを感じたものです。

その人の行動を目で追いかけ、少し見られただけで嬉しくなり、

用事があって名前を呼ばれただけなのに、喜びがはち切れそうでした(笑)




そこで思うのですが、人は愛されるだけでは充分な満足はなく、

「愛する」時、「愛し合う時」に、本当の満足感を覚えるものだと思うのです。

イエスさまが私のために死んで下さった事は有難いし、

罪の赦しは嬉しいし、心から感謝してはいるとしても、

まだ心底から愛する気持ちになれない事もあると思います(実感として)。



ちょっと的外れな例えかも知れませんが、

先ほどの中学生の女の子がある日いきなり、

見たこともない、とても素敵な男子に熱烈な告白された時のようです。

頭も良いし、運動も出来るし、とても優しそうで素敵な人だけど、

まだ、その人の事をほとんど知らず、好みの人かどうかもよくわかりません。




そんな風に、神さまは私たちを熱烈に愛して下さるのですが、

私たちには、まだ心の準備が整っていないかも知れません。

人によっては、あまりの愛に感動して、すぐに愛するようになるでしょう。

しかし、気持ちがゆっくりついて行くタイプの人もいます。

毎週礼拝して、大声で賛美して、お祈りしていても、

まだ、深く神さまを愛しているとは限りません。

しかし、そんな私をイエスさまは急かしたりはなさらず、

ゆっくり愛の起きる時を待っていて下さいます。

そして、私の中にある神への愛を見つけて出して下さるのです。

そうです。私が知らなくても神さまの方が、

私の心の奥にある、「神への愛」に気づいて下さるんです。

クリスチャンは、必ず心に神への愛を持っています。

(信じていない場合には、クリスチャンとは呼べないから)

でも、未熟だったり、傷ついた所や恐れがあって、

それに気がつかないこともあるのです。



ですから、復活されたイエスさまがぺテロに尋ねられたように、

「あなたは私を愛するか?」と聞いて、その心に気づかせて下さいます。

クリスチャンは皆、イエスさまを愛しています。

この時点でやっと愛し合う関係が始まります。

神さまは焦ってはおられません。

愛の自ずから起きるまで待っておられるんです。(雅歌参照)

その時から愛されるだけのクリスチャンから、

神さまと、愛し合うクリスチャンの喜びが始まるんだと思います。





「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。

ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。

(ヨハネによる福音書 21:15抜粋)




成長するクリスチャン

2018年10月31日 | 日記


普段から、夫とクリスチャンの成長について話しています。

先ずは、成長する人としない人では、何が違うのか?

元々言われて来た事は、

「謙遜にイエスさまに従って来た人は、変えられて行く」

「常に渇きを持って、イエスさまを求めている人は変えられる」

「忠実に主に仕えて来た人は、変えられる」

などありますが、どれも素晴らしい事なので、正にそうだと思います。




しかし、それは凡人にはなかなかハードルが高くないですか?

フルタイムの献身をして、多くの人に仕え、立派な働きをしていらっしゃるような、

特別な方にしか届かないようにも思えて来ます。




イエスさまは、もっと普通に自分のような凡人にも、

成長する道を用意して下さっていると思います。

先日書いた「砕かれる事」もそうですが、

根底に流れているのは、一方的な神さまの愛です。

どんな人にも、小さな生活の中で神さまが働いておられて、

その中で、成長出来るようにして下さっていると思います。




しかし、その過程で「神さまの御手」を全く認めないとか、

かえって、不平不満でつぶやいてしまい、退けると成長には繋がりません。

自分が間違った事は、イエス様にその通り申し上げて十字架の前で告白します。

自分では、どうしようもない環境の中にいる時には、

そっとそっとイエスさまに信頼して、委ねて淡々と日常をこなして歩みます。

(そう言う辛い時って誰にもありますよね)



そうですね、ポイントは「イエスさまといつも一緒に!」でしょうか?

自分の力では、「謙遜になること」も「間違い(罪など)を認めること」も出来ません。

自分の力では、「日常を淡々と歩む」事も出来ません。

そう!私たちにはどんな「良い事」も自分の力では出来ないんです。

(ここで自分を諦めるって必要ですね)

しかし、そうこうして居る内に、「ちょうど良い時に神さまは私たちを高く上げて下さいます。」




ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。

神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

(ペテロの手紙第一5章6~7節)




前よりも少し「成長したクリスチャン」に変えて下さるんです。

ですから、とても希望があります!

どんなクリスチャンにも成長するチャンスがあるからです。

成長している人と、そうではない人の違いは、

「神さまの御手を認めて、主に信頼して歩む」か?

「環境や状況に不平不満を言い、自分の力に頼る」か?

でしょうか?




クリスチャンの輝き

2018年09月01日 | 日記


先日、後から思えばちょっと素敵な体験をしました。

ある日、友達と待ち合わせをしていて、

先に着いたので、待っていたら彼女の車が到着しました。

もちろん、いつものように手を振りながら挨拶しました。

そして彼女の車に乗り込みながら、

「久しぶり~~(*≧ω≦)」と手を取り合って再会を喜び合いました。

その事があまりにも当たり前だったので、

私たちが会ったのは、ただの1ヶ月ぶりだと言う事を忘れていました(笑)



その時なんですが…

彼女の笑顔と車の中が、何かキラキラと光っていたんです。

ただ、彼女のいつもの笑顔が美しかったと言うのとは違って、

何となく周りが、キラキラしてて。



でも、その事を忘れるぐらいに私たちは、車の中で最近の出来事について話し、

「どんなに神さまが素晴らしい事をなさったか!」と証しし合っていました。

そして、自分の最近の困っている状態についても聞いてもらって、

いろんな良きアドバイスを頂いたりしていました。

ですから、キラキラの事は彼女にも言わず、すっかり忘れて家に帰りました。




ところが帰ってから主人には、

「どんなに素晴らしい交わりだったか」を話す前に、

なぜか?あのキラキラの話しをしていました。

それを聞いた主人は、

「聖霊に満たされている人は、そう言うこともあるわねー」と言ってました。



その時、今度は急に昨年の市民クリスマスの時の事を思いだしました。

私が主人と一緒に行った時に、後日彼女が言いました。

「あのね、ご主人がキラキラ輝いていたよ~」と。

私は、その時には主人が営業スマイルで笑っていたことかな?と軽く聞いてましたし、

主人は、「それは大袈裟なぁ~笑」と笑って済ませました。

(私もそう思いました笑)




でも、今回彼女の周りのキラキラを見て(目で見たのかは分かりません)、

主人のキラキラも、もしかしたら神さまの祝福かも知れないと思いました。

聖書には、キラキラの話しは出て来ないので、調べようがありませんが、

神さまと語り合っていたモーセの顔が輝いていたことはあります。



そして、そのような事があった意味は分かりませんが、

神さまは、確実に「何か」を始めていらっしゃると感じています。

私は、特に不思議な体験を求めてはいませんが、

(仮にあったとしても、体験で救われる訳ではないので)

しかし神さまが、神さまらしく働かれるとすれば、

人間の目には不思議であろうと思います。

そして、きっと神さまは神さまらしく事を行われるでしょうね。



ここに書いたのは、彼女や主人が素晴らしいからとか、

それを見たことが素晴らしいからとかではありません。

(キラキラしてない時の方がほとんどです)

でも「そこに神さまがおられたんだ!」

と言う事実がとても楽しいからなんです。



愛が分かった日

2017年01月09日 | 日記
心の明け渡し
ふと、以前とても苦しんだ事柄について思い出しました。それは、「私は、まともな人間ではなくイエスさまに迷惑ばかりかけている。」「私は、まともに生きていけないし、その自信もない......



おはようございます。

この時、初めて神さまに愛されている・・・と分かった日でした。



ずっと教会に行けずにいたある日…。

西の空を見た時に、ふっと「愛されてる気がする」と思いました。

なぜ、そう思ったのか?分かりません。

神さまのことを考えていた訳でもありません。

ホントに、ふっと何気なく思いました。

その日…私は何も出来ない、何も取り柄のない私が、

このままで愛されてると言う驚愕の事実を知ったんです。



それまでのイエスさまに対する認識とは、全く違うものでした。

祝福されること、愛されること、神さまに喜ばれることには、

何か凄い条件があると思っていたからです。

もちろん、愛されてる事を知った上で喜ばれる生き方をするのは、

とても良い事ですが…。



この時から、少しずつ恵みが分かって来ました。

身にあまる幸せ

2016年12月08日 | 日記
「身に余る光栄」-主を畏れること-

最近聞いたメッセージから、神さまを畏れると言う事は、「慎み深く生きる」と聞きました。そして、慎み深く生きると言うのは、今の状況を自分の努力の結果と思わず、身に余......




一年前の記事を読んで、ホントにそうだと思いました。

今でも、その気持ちは変わっていません。

私には、全く!絶対!1ミリも謙遜など無いと知らされた時から、

やっと私は、自分に平和を持つことが出来ました。

「ちょっと〇〇さん、謙遜になりなさい。」と何度叱られた事でしょう。

わかっています!わかっています!わかってても、どうしようもない。

でも、謙遜にならない私など生きていてはダメだ!



私の半生は、極端な悩みの人生でした。

後で分かったことは、不安神経症だから余計に極端だったのですが、

叱られる度に「こんな私なんて死んでしまえばいいのに」

と、ホントに思っていました。自虐的で自分を腹立たしく思いました。




でも、ある日…諦めたんです。もう無理!私は絶対に謙遜になどなれないと。

(その時には、人生全てに諦めてましたが)

すると、「謙遜とは、なるものではなくイエスさまから頂くものかも?」

と思いました。

私に代わって「義」となられた謙遜なお方は、私の「謙遜」となって下さるのかもと。

その時から、私は高ぶりと謙遜の戦いから自由になりました。

私が謙遜になったとか、全く高ぶらないとかではありません。

その土俵から下りたんです。

もし高ぶったなら、悔い改めますし、謙遜になる必要があるならイエスさまに頂きます。

もちろん、いつも謙遜である必要はありますけど。

だからいつも、どの瞬間もイエスさまが必要なんです。



なので、私は今までの人生で一番幸せです。

それはまさに身にあまる光栄なことで、ただただ感謝なんです。

毎日、恵みによって生かされ楽しく幸せなんです。

あなたが幸せであるために

2016年10月26日 | 日記





昨日の朝起きたとき、とっても疲れていて、

ふわぁ~っと伸びをしたら、ふっと心に声がしました。


「ぴーちが幸せであるために」

(実際は、ぴーちじゃなく実名の呼び捨てでしたが)


わたしは、ぴーちがいつも幸せであることを願っているんだよ。




イエスさまの動機はいつも「わたしの幸せ」・・・。

イエスさまの動機はいつも「あなたの幸せ」です。

-謹賀新年-(*^-^*)

2016年01月01日 | 日記
あけましておめでとうございます。





(第一コリント6:12)

すべてのことは、わたしに許されている。

しかし、すべてのことが益になるわけではない。


すべてのことは、わたしに許されている。

しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。






今年の目標は、「信仰と愛による従順」です。

私の長年の懸案だった「従順」に手をつけようかと思います。