●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

聞かれていた祈り

2014年12月25日 | 思うこと
強くなりたい!
そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。 (2テモテ2:1)そうそう、強くなりたいです。強さと言うのは、自分の...



強くなれるようにお祈りしていたんですね~

今年は昨年よりも、健康が回復されているように思います。

祈りと叫びは、神さまにちゃんと届いたようです。

毎日、何気ないお祈りをしていて、自分は忘れてしまっても、

神さまは忘れずに、ちゃんと答えて下さるんですね~

あらためて、イエスさまの真実さ誠実さに触れて感謝!!!



ああ、そう言えば…そう言えばで思い出すのもなんですが、

私は、クリスマスに洗礼を受けたので今年で満35年になります。

わあ~~~35年にもなるのに、私の成長ときたら、ヨチヨチ歩きで情けない(U_U;)

もう少し、信仰的な成長が見えても良いと思うのですが、

まだまだ、自分の事で精一杯なので凹みます。



途中下車して、10年間教会に行かない時期がありました。

でも今にして思えば、それも私には必要な時間でした。

その10年間に、ありとあらゆる悪事を働いてしまいました。

それで、神さまにも捨てられたと思ったんですよね。(前記事参照)



それでも私を見捨てずに、愛し続けて下さったイエスさまの愛は、

本当にクレージーな愛です!

もう一度、神さまの家族の一員として受け入れて下さいました。

これが十字架の愛ですね。。。

この愛によって、これからも生かされていきます。

天に帰る日まで、自分に与えられた道をゆるりと歩みます。

私にとっての十字架の意味

2014年12月22日 | 思うこと



そうですね~もう十数年前の事でしょうか?

私は、捨てられたと思いました。

人にも捨てられたけど、神さまにも捨てられたと。

それも仕方のない事だと、すっかり諦めていました。

私は、捨てられても当然の人間だと思いました。

それ程、私は救い難い悪に満ちた人間だと思い知りました。

救われるはずもない、捨てられて当然の私。

突きつけられた現実は、厳しく無情でした。

私は、やっと神さまに対しても人に対しても黙りました。

弁解する言葉も全くなくなり、神さまにも顔を上げられません。

ただ、悲惨な現状を認め静かに黙るしかなかったのです。

もう私は自分を救おうとはしませんでした。

捨てられて当然だと悟ったからです。




その時がいつだったのか分かりませんが、

ある瞬間、ふと「愛されてる…」と分かったんです。

静かに思いました。

「なぜ愛されているんだろう?」

私は愛されるはずないのに。

この静かな気持ちは何だろうか?

それから、ある聖書の言葉が心に浮かびました。


「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

(マルコ15:34)


あ~私が捨てられる代わりにイエスさまが捨てられたんだ!

本当は、私が捨てられるはずだったのに、

イエスさまが捨てられて下さったんだ!

と、頭では知っていた事実を初めて本当に知りました。

多分、それが私が最初に本当に十字架を知った時だったと思います。

クリスチャンになって随分と経ってからの十字架体験でした。

その後も、ゆっくりした歩みですが、あの日があったから、

今のクリスチャン生活があるのだと感謝しています。

リリーフの務め

2014年12月17日 | 思うこと
あるセラピストの方のブログにこんな記事がありました。

このアリ私です。納得です!感謝です!




「働かないアリの意義」・・・


一般的に、アリは働き者の代名詞と見なされていますが、

巣の中にいる働きアリのなんと7割は、「働かないアリ」であることが実証されました。

しかも、これはアリの種類を問わず同様の結果が見られたのです。

これは一体どういうことなのでしょうか?
 

厳密に言いますと、「働かないアリ」とは、「反応閾値(はんのういきち)」と呼ばれる、

言わば、仕事に対する反応に個体差があることから生じる現象で、

反応閾値が低い個体は、小さな刺激でもすぐに仕事にかかれますが、反応閾値が高い個体は、

じっとしているということなのです。

しかも、この仕事に対する個体差があることがアリのコロニー(組織)の存続に

非常に重要な役目を果たしているのです。

働かないアリというのは、野球で例えるなら、言わばリリーフ要員で、

他のメンバーが疲れて動けなくなった時にはヘルプに入り、

アリの組織の危機を救うと考えられています。


刻々と変わる状況に対応して組織を動かすためには、

様々な状況に対応可能な一種の「余力」が必要になります。

その余力として存在するのが「働かないアリ」なのです。
 

どんなアリにも、その存在意義があるように、私たち一人一人も、

世界に一人しかいないかけがえのない大切な存在なのです。

赦されたと言う事

2014年12月15日 | 思うこと
クリスチャンは、すぐに赦されたと言う傾向があります。

でも、他者に対しては許されない罪や過ちもあると知っていた方がいいんです。

もし友達に失礼な事をして、謝っても赦してくれなかったとしても、

仕方のない程の傷を与える事だってあるんです。

「謝れば赦してもらえる・・・」は、当然の事ではないのです。

罪は、それほど汚くてトゲが生えているもの。



十数年前、私は当時の親友に対してとても酷い態度をしてしまいました。

その前にもいろいろあったので、彼女はもう許してくれませんでした。

姉妹よりも親しくしていた親友なのに、

私は、思い上がっていたので軽率な態度をとってしまいました。

自分の過ちを悟ったので、彼女に何度も何度も謝りました。

それでも、決して彼女は許してくれませんでした。

そして、私はやっと悟ったんです。

どんなに誠実に謝っても、許してもらえない事もあるんだと。



私は、大切な友達を完全に失いました。

その痛みを私はず~~~っと負う事になりました。

でも、それを負う事は仕方のないことだったんです。

十年間、しょっちゅう彼女と和解した夢を見ました。

それでも、私の犯した過ちが無くなってしまう事はありませんでした。



もちろん、神さまの前には許されない程の罪はありません。

だからと言って、人に与えた傷は消える事はない事もあります。

長い年月をかけて、相手の傷が癒されるのを祈るばかりです。

それほど小さくて汚い自分を知った時に、やっと十字架の本当の意味が分かります。

十字架を軽々しくネックレスや、言葉で簡単に言えなくなります。

私は、許されなくて当然の者なのです。

簡単に「許された!ハレルヤ!感謝!」とは言えません。



彼女とは数年前にバッタリ会い、普通に話す事が出来ました。

でも、もう親友になる事は絶対にないと思います。

失ったモノは、失ったままです。

イエスさまの十字架で許されても、傷の痛みは簡単には癒されません。

長い年月、それを負う事になるんです。

・・・そう、それが事実です。



ですが、許されないから落ち込みなさいと言ってるのではありません。

ただこの痛みがあるから、もう他の人を傷つけたくないと本気で思えます。