●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

和解の本質

2017年09月23日 | 思うこと




前回、他者との和解について書いたのですが、

昨日、友達と話してたので、和解について改めて気づいた事を書いておきます。

ある人(Aさん)が、「前の教会の人と偶然会って和解した。」って話してて、

どこかその発言に違和感を感じていたのですが…。

友達が、「自分から和解しないと、ホントの和解じゃないよね。」

って言ったので、真理に目が開かれました。

言ってみれば、当たり前の事かもしれませんが…。




放蕩息子も自分の方から、お父さんのところに帰って来る必要があったんですね。

お父さんの方は「許す気満々」だったのですが、

弟息子の方から(謙って)帰って来るのを待っておられたのです。



お父さんの財力ならば、使いをやって探すことも出来たはずですが、

息子の方から帰らないと本当の「和解」にはならないと、お父さんは知ってたんですね。

それが父親の愛であり、義なる神さまの厳しさでもあると思いました。

義しさを捨てることが愛じゃなくて、待つ愛…です。




偶然に会って和解することも、時にはあるかもしれませんが、

その時は、相手の方がAさんを受け入れて話しただけで、

Aさんの側から、遜って和解を申し出て許し合うのとは違います。

本当の和解には、「謙遜さ」が必要だと言うことですね。

「わたしはもうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と言うように。



「むすこは父に言った、

『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。

もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。」

‭‭(ルカによる福音書‬ ‭15:21‬ ‭)