●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

ひとり子を与える父の心

2019年07月04日 | 思うこと
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。

それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネによる福音書 3:16)



かくも有名な聖書の言葉なのですが、

この事を深刻な気持ちで、深く思い巡らす人は少ないかもと思います。

イエスさまが、ご自分で十字架を選び取って、

私たちのために、命をお捨てになった事がインパクトが大きいので、

その陰で(実際は隠れてはいらっしゃらないのですが)、

ご自身の「ひとり子をお与えになった父なる神さま」の気持ちは、

どうしても後回し?になる可能性があるからでしょう。



ただ、賛美「父の涙」などの、

父なる神さまに焦点を当てるような曲を作詞作曲された方は、

ご自分のお子さんを失った人とか、大きな喪失を味わった人が多いと思います。



私が、初孫を抱き寝かしつけながら思ったことは、

「この子を(自分の子どもを)、いくら他者を救うためでも何でも、

誰かに与えることは、絶対に出来ない!絶対に!」と。




父なる神さまの強烈な心の痛みは、誰にも理解することは出来ないと思います。

理解出来ないからこそ、本物の神さまの愛の証拠だと言えないでしょうか?

私たちは誰も本物の愛を見たことはありません。

少しばかりの自己犠牲なら、たまに見るかも知れないですが、

ここまで本気の、本物の愛は理解し難いんです。



ですから、神さまがご自分の子ども(イエスさま)を、

私たちの救いのために与えられたと言う事実が、

どれほどのモノであるかを、信じがたいんですね。

しかし、だから神さまなんです!

もし、その事実を信じるならば、私たち人間は永遠の滅びから救われます。

ここに、人を造られた神さまの本気の愛があります!

神さまは、私たちが理解している以上に(当然ですが)本気なんです!


孫の寝顔を見ながら、父なる神さまの愛を思いました。



信仰の停滞期に

2019年06月09日 | 思うこと



日常の忙しさに埋没されて、信仰的な事、霊的な事柄から離れている感じがします。

実際に、イエスさまとの交わりが薄くなっています。

(これは感覚的なものです。)

本来あるべき焦点が合っていない状態ですが、

がっかりする必要がない唯一の事柄は、

私に与えられた信仰や、今まで教えられた事は、消えてなくなった訳ではなく、

また必要な時に、必要な方に対して分かち合えるだろうと言う事です。

なぜなら、私の受けた恵みと信仰は私から出たモノではなく、

全て神さまの憐れみによるからです。



もちろん、だからといって、

私自分がイエスさまに向かなくて良い訳ではありません。

更に主に向き、真理を求めて行きたいです。





「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、

あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、

ことごとく思い起させるであろう。」

(ヨハネによる福音書 14:26)

湧き上がる泉のように

2018年08月09日 | 思うこと


4月から、ずっと体調が良くて、バタバタ出来るようになりました。

最近では、疲れはあるものの不自由さや、苦しみを感じる事もなく、

意味のない不安や、苦しみ、恐怖などから遠ざかっています。

普通に生きれる事に感謝!



しかし、一つだけ難があるとすれば、朝起きた時の「気持ち悪さ」です。

こんなに調子が良いのですから、これくらい我慢?とも思いましたが、

数日前から、この事については夫には祈ってもらっているものの、

神さまには事情を説明してお願いしてない!と思いました。



それも、「この症状を無くして下さい。」と言う消極的なものではなく、

「どんな自分になりたいか?」と問われているような気がしました。

その時、泉のように湧き上がる喜びが欲しい!と思いました。




朝起きた時から、寝るまで「泉のような喜び」が内側から溢れて来たら、

どんなに素晴らしいでしょうか?

この泉が湧き上がれば、気持ち悪さは当然なくなるはずです。

一昨日から、この祈りと願いを持ちました。



今のところ、本当に嫌な症状は消え去りました。

今の私には、この地上的な意味での欲望はあまりありません。

必要な事や、モノはたくさんありますが、

過剰に、何かが欲しいとは思っていません。



以前、友達に「私ね、多分将来○○○するようになると思うわ。」

と話したら、友達は、

「祈っていたら、そうなるかも知れないね。」と言ってました。

でも、うーん…

祈っているわけではありませんし、絶対にそうならなければならない!

と考えている訳でもありません。

きっと、そんな風に導かれるだろうなぁ~と言う緩い信仰。

「もし、そうならなかったとしても、オッケーです、神さま。」

と思っています。

なのに、その確信は日に日に深まっている。そんな感じです。



先日、聞いたメッセージで、ある牧師先生が、

「ロサンゼルスで集会を持ちたいなぁ~」と何となく思っていたそうです。

なぜ、そう思ったか?絶対そうなる!と思っていた訳ではないのに、

その思いは、段々強くなって、結局実現したそうです。


私の考えている事は、もっと小さいですが、

「あっ、その感覚、なんか似てるなぁ~」と思いました。

今のところ、自分の欲望による願いではないので、

神さまが、そのように導かれるでしょう!

期待しつつ待っています。



しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。

わたしが与える水はその人の内で泉となり、

永遠の命に至る水がわき出る。」

(ヨハネによる福音書 4:14 )

自分を諦めること

2018年07月19日 | 思うこと

最近、クリスチャンが「砕かれること」について語られる事が少ないように思います。

だからといって十字架の恵みによって、

自我から解放されることの効力がなくなった訳ではありません。

そして、語られなくなった訳でもないと思います。




おそらく、「砕かれる」と言う言葉が使われなくなっただけで、

「神さまに自分の全てを信頼する事にした。」とか、

「自分に頼らず、完全にキリストのみに信頼する。」など、

違う言葉で、このメッセージは語られていると思います。




個々の罪を犯した時には、罪の悔い改めは必要ですが、

砕かれる時には、悔い改める必要はありません。

神さまの摂理によって、人それぞれにいろいろな出来事があった末に、

もう少しも自分には頼れないと、やっと気づきます。

それくらい人間は、自分の力に頼るのが「生まれた時から普通」の状態なんです。

その時には「私は罪深い者です!」などと言うことさえ、なんと無駄な事か?と思います。

(私が、知らなかっただけですから)





自分に何の期待も出来ないと分かると、

「これが私(罪そのもの)」と認識して、全てを十字架に委ねるだけです。

しかし「これが私なんだ!」と自分の本心が見えると、

愕然としてとても絶望的な気持ちになりますが、

だからこそ、これはもう自分の手には負えないと知ります。

まともな自分になれるなんて、全く思えなくなります。

(思わないようにすることではなく、思えないんです)



そしてそれは落ち込む事でも、弱る事でもなく、

「あーイエスさま、ありがとう!」と言うしかない事柄です。




落ち込む事や、弱る事には自我の強さが隠れています。

自分を諦めていないからです。

仮に「自分はなんてダメなんだ!」と言ったところで、

イエスさまは、「そんな事はよく知っているよ。

だから、私が十字架についたのだからね。」

とおっしゃるに違いありません。


自分に頼る人は、自分と自分の力に執着しているので、

見つめる先が自分の内面なんです。

(私は何十年も内側ばかり見て、苦しみの日々を送っていました。)



しかし、見るところは十字架以外にはありません。

十字架だけです!

そこに見えるのは、私の罪となって死なれたイエスさまの死。葬り、復活。

イエスさまの内にあり、この復活の命によって、新しく生きるしかないんです。

その新しい復活の命の中に、本来「なりたかった自分」がいます。

キリストから、全ての善きものを頂く事が出来ます。

私自身を全て預け、キリストの命を頂く交換ですね。



他の道はありません!

他の道はないと、心底知るのです。

知らない間は、自分で何とかしようとします。

「もう少し静まって祈ろう。あのミニストリーをしよう。

誰か助けを頂ける人に会おう。」等々いろいろ思いつきます。





しかし、十字架にしか解決がないと知る事は、本当に嬉しい事です。

あんなに悩んだ「自分と言う重荷」を置く場所があるんです。

イエスさまと継ぎ合わされて、その命を頂き、

一緒に生きる事が出来るのですから。






「わたしはキリストと共に十字架につけられた。

生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、

わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた

神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」

(ガラテヤ人への手紙 2:19‭-‬20 )


祈りは聞かれている

2018年07月07日 | 思うこと


ある春の日の事です。

私は、近くの川の土手で賛美していました。

スマホから、何曲か流れる賛美と一緒に歌っていると、

突然、心に込み上げるものがあり、泣きながら祈りました。

私は、普段はどちらかと言うと泣かない方で、

涙が溢れる時は、なぜか「神さま!この地の人々を憐れんで下さい!」

と祈る時だけでした。

10 年ほど前に、教会に帰った時にも礼拝の賛美中に泣いたのは、

♪「神よ~聖なる神よ、この地に光を~」と歌う時でした。




しかし、この土手でのお祈りの時は違っていました。

「私は、本当に本当に!愛されるために生まれたんだ(泣)」

♪「傷ついた~主の愛の手が動き、わたしの心を癒された~(泣)」

次々と流れる賛美の中で、私を愛して憐れんで祝福して、癒し、

忘れないで、満たして下さるイエスさまへの感謝で泣いていました。

イエスさまーあなたは、私を決して忘れてはおられなかったんですね(涙)




そして、後半に流れて来た♪「誰も見たことのない事が」

を歌った時には、今度は日本を愛しておられる神さまの愛に驚き?ました。

♪「祈りは聞かれている~」と。

そうです。もちろん今祈っている私たちの祈りは聞かれています!

しかし、もっと以前に日本のために祈って、もうこの地上にはおられない、

多くの聖徒たちの祈りは聞かれていると!

祈りながら、召された牧師先生。

多くのリバイバル集会を、全身全霊で導かれた先生たち。

その働きを、全力でバックアップされた先生たち。

どんなに変えられた日本を見たかったことでしょう!




その牧師先生たちは、

自分の目では日本のリバイバルを見る事は、許されなかったけれど、

モーセのように遠くから信仰の目で(約束の地を)見て、

満足して、天に帰られたんじゃないかと信じました。



その祈り!その祈り!その祈り!の数々が、聞かれている!

そう分かりました。

ですから、その事の素晴らしさに泣けて来ました。

無駄ではなかった…と。

(今頃、天に於いて先の聖徒たちは、それを見ておられることでしょう)


霊の世界で起きている事と、現実世界にはタイムラグがあると聞いています。

もしかしたら、もう少し時間が必要かも知れません。

でも、神さまの現実に生きたいなぁ~と思っています。


「みこころが天になる如く、地にもなさせたまえ。」主の祈り




たったひとりのために

2018年04月22日 | 思うこと





先日、教会でスペシャルゴスペルカフェがあり、コンサート、

ゴスペル発表会、ウクレレ隊、ゴスペルフラで盛りだくさんでした。

そして、たくさんの方々が来て下さって、最後には椅子が足りなくなるほど。 

私もとても楽しませてもらいました。




フリータイムの時に、ある方といろいろなお話をしていたのですが、

「あのね、私たちってたくさんの人達が来られた!とか、

多くの人が救われたとか、そちらの方に目が行くんだけど、

神さまって、たった一人のためにさえ、大きな集会を開かれる事があるのよね。」と。




そうかも知れない!と納得しました。

今日のこのカフェも、私のために開かれたのかも知れないし、

他のある人のために、開かれたのかも知れない。

その結果である実は、ずっと後にならないと分からないかも知れません。

でも、イエスさまの目は「多くの人々」に向いているのではなく、

一人一人の上に注がれているんですね。

私が若い時にイエスさまを信じた「特別集会」も、

わたしのために用意されていたかも?

(それぞれが、自分のためにと思って下さいね・笑)

すると、下記の御言葉が浮かんで来ました。



「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、

その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、

その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。」

(マタイによる福音書 18:12)



イエスさまの目が、私に注がれているとすれば、

なんて素敵で喜ばしい事でしょう!

みんなで礼拝します!

でも、私とイエスさまの時間でもあるんです。

感謝ですねー( v^-゜)♪

神さまに立ち返る方法

2018年04月19日 | 思うこと



普段から、よく夫に言われることが、

「イエスさまを見上げて、信頼し委ねたらいいよ。」

なのですが、調子が悪くて落ち込んでしまうと、見上げ方を忘れてしまいます。

夫の場合は、毎日の習慣のお祈りを始めると、

段々、この世の事から切り離されて、イエスさまの恵みに入れるらしいです。

ところが、その習慣を持たない私は、(同じようにしても、形式的になってしまう)

なかなか立ち返り、委ねて平安を得る事が難しいのです。

病状が悪くなると尚更、自分に囚われてしまい、穴蔵の中にいるようです。




先日も、この負の連鎖に入りそうになりましたが、

ふと、お風呂に入ろうと思い、湯船に浸かりながら、

神さまを礼拝しました。

その時、私が過去にどのような気持ちで、イエスさまの元に帰ったかを、

ふと思いだしました。

私は、取るに足りない者だから、せめてイエスさまの御衣にでも触れば!

子犬でもテーブルの下のパンくずは頂きます!

この2つの信仰でした。



「それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。」

(マルコによる福音書 5:28 )




人それぞれ、イエスさまに近づき方があるように思います。

大事なことは、いつもその原点に帰る事かな、と思います。

マリアのように、香油を注ぐ人もいるでしょう。

放蕩息子のように、帰る人もいます。




それぞれにどんな方法でもいいと思います。

イエスさまは、温かくその信仰を認めて受け入れて下さいます。

それがどんなに小さな信仰でも、他者には見えないほどのものでも。




そして、きっかけさえ掴めていれば、迷子になってもすぐに帰れます。

私は、主の服の裾をしっかり掴んで着いて行こうと思います。

実際は、神さまの方がちゃんと私を捕まえて下さっているのですが。

感謝ですね~

天と地を結ぶ(追記あり)

2018年02月21日 | 思うこと
今朝方、リアルな夢を見ていました。

昔、教会に来ていた男性が、「イエスさまにもう一度従いたい」

と、祈るために頭を垂れていました。

私は、それを見て「彼を祝福して下さい!」と祈ると共に、

「彼だけではなく、彼の一家全員を祝福して下さい!!」

と、激しくお祈りしていました。




「彼の一家を天の祝福と繋ぎます」と。

私は、今までそのようなお祈りをした事はありませんでした。

でも、夢の中では天の祝福と、彼の一家を一生懸命結びつけてました。


それは、この御言葉があったからです。


「よく言っておく。

あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、

あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」

(マタイによる福音書 18:18)



とは言え、この御言葉は祈っている途中で思い出しました。

きっと、いつかこの祈りの結果を見ると思いますが、

今は、何が起きているのか?分かりません。

神さまの手の中ですね。





ー追記ー

この夢と祈りがあったので、この男性の奥さんにメールしてみました。

敢えてバソコンのアドレス宛にしました。

長い間、音信不通にしていたので、返信は無くてもOKと思いつつ。

次の日の朝に、返信がありました(o゚▽゚)

元気にしているって事と、私の家の出来事についての内容でした。

わぁー元気にしているだけで良かった!と思いましたし、

メールをありがとう!との言葉も嬉しかったです。

今後、このご家族がどのように祝福されるかは知りませんが、

神さまはご存知です。

いつか分かるかも知れませんし、天国で知らされるかも知れませんね。

とりあえず、感謝<(_ _*)>

走るべき行程

2018年01月13日 | 思うこと
走ろうと…。
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。(ヘブル人への手紙 12:2)ある集会に参加する途中、クルマの中で心に届いた......




昨年の今頃の日記ですが、「走ろうと」してました。

で、結果は???(笑)

ほとんど走った記憶はなく、特に秋口からは止まりそうに(^^ゞ

しかし、昨年の大きな行事を思い浮かべると、神さまがそうして下さったかも?

と言う、痕跡を発見します。




先ずは、3月にはソウルに行って、チマチョゴリの採寸やショッピングをしました。

行こうかどうか?考えていたのに、娘のお婿さんが、

「おかあさん。いつ韓国に来ますか?」と言われ、行くことにしました。

そこでは、教会の礼拝にも参加しましたし、

マンションの祝福式もして頂きました。





そして6月には、韓国での結婚式に行きました。

これは、大きなイベントでもあり、体力が持つか心配でした。

実際は、体力の問題ではなく、チマチョゴリが暑くて大変でしたが。

それでも配慮して頂き、午前中は休んで午後から着替え、写真、夕方から式、

バイキングで食事をしている方々への挨拶、それから自分たちの食事。

終わったら、即マンションに帰ってダウン!!!

守られました~~~~(^^♪




8月には、娘が帰って来て、日本での「お披露目会」と韓国人家族の接待。

これは、暑い中での大変な行事でした。

皆さんへの朝食も、接待が苦手な私の大仕事。



10月ごろから、体調がかなり悪くなってきて、毎日が苦しかったです。

秋の「寒さ」を感じたのが引き金になって、不安と恐怖でタジタジに。

って時に、11月には昔お世話になった大阪の牧師先生ご一家を我が家にお迎えしました。

私は何度も夫に「これは無理だから、他で泊まってもらおうよ」と言ったのですが、

珍しく夫は、頑として聞いてくれませんでした。




その11月の接待も、今まで韓国人を何度も泊めた経験が生かされて、

何とかなりました・・。(私はマルタの賜物はありません。どっちかと言うとマリア系)

それよりもご夫妻とのお話しが楽しくて楽しくて、恵みがいっぱいでした。

ずっと先生ご夫妻の隣で、座ってお話ししていたかったくらいです。

「お招きしてよかった~」と思ったのでした・・・。




の翌日また韓国に行きました。

この時は、娘が失業中で時間が空いているので、ぜひ来てくれって言うので、

体調が悪い中でも、気分転換になるかも?と思って行きました。

元気でしたー(と言うか、韓国の方が島根よりも空気が軽い?気がする・笑)




その後も、ずっと体調は悪い日が続いたのですが、

昨年は、悪いながらも守られたなぁ~と言う感想です。

今年は、「走り」ませんが、信仰によって遥か天を見上げながら、

自分の走るべき行程を(やっぱ走るのか?・笑)、止まらない程度に行きます。







旅人、寄留者として

2018年01月06日 | 思うこと



「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。

まだ約束のものは受けていなかったが、

はるかにそれを望み見て喜び、

そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」

(ヘブル人への手紙 11:13 )




年末に、T 先生のメッセージを聞いて、本当にワクワクしました。

それは、モーセの最期の場面の話しからでした。

旧約聖書に出てくる人たちは、まだ完全には約束のモノを得てはいませんでした。

しかし、遥か彼方にある約束を既に得たと信じて死にました。

その事に、不満などなく信仰によって望みを抱いて喜んで逝きました。

私たちクリスチャンは、常に信仰によって生きています。

だとすれば、旧約聖書の人たち以上に喜びを持って生きて行けます。

なぜなら、約束の救い主イエスさまと出会って、共に歩んでいるんですから。




しかし、まだまだこれから更なる祝福が待っています。

そして、この世を去って行く時には、永遠への扉が開くのです。

まだ見ていないけど、私も天を目指して今を生きていきたいです。

この地上には楽園などはなく、この毎日を旅人、寄留者と生きて行ける幸せ。

後は、旅人として如何に旅を楽しめばいい。

旅には、ハプニングも出会いもあります。

必ず予定通りに行くとは限りません。

それが楽しみでもありますね。

この年、旅人として、人生の旅行を楽しみながら歩みます。