●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

罪人のかしら

2017年04月22日 | 思うこと



ここ2、3日・・・なんとなく心にどんよりした雲が。

特に20日は異常な雰囲気で、テンションが下がってました。

前日の19日にちょっと大きな出来事があり、

過去と真正面から向き合わなければなりませんでしたから。

その事自体にショックを受けた訳ではないのですが、

無意識の中で、過去の影響を受けていたのか?

ホント!気持ち悪かったです。腹痛もあったからですが。




そして昨日、同じく嫌な気持ちになってたクリスチャン友達と、

お茶していろいろお話ししました。

ず~~~っと話して、三時間半!!!(笑)

イエスさまの十字架の恵みも改めて分かり、スッキリとしました。

そして帰ろうと車に乗ったら、いつもかけてる韓国語の賛美が。。。

「アボジヨ~♪・・・」(韓国語で父よと言う意味です)



あ~私には、天に父がいるんだ!

私を愛してやまない、頼りがいのある父がいる!

と嬉しくなりました。

父なる神さま、ありがとう!



狭い世界で、自分を見つめて怖くなってしまう私を憐れんでくださっている。

そうだ!私はかつて「自分は神さまが間違えて作った不良品だ」と思ってたけど、

ある人にとっては「ブラックリストNo.1」だったけど、

それでも、それでも、それでも、十字架で死んで下さるほどに愛して下さったんだ!

そう改めて思いました。




私にとっては、その人の「ブラックリスト1位」だった事が、

まだ傷となって残っているけれど、

パウロも、自分を「罪人の頭」と呼んだんですよね。

この事が、傷ではなく「神さまの憐みの象徴」となりますように。。。




1テモテへの手紙 1:15

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、

まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。

私はその罪人のかしらです。

イースター礼拝にて

2017年04月17日 | 家族




今日のイースター礼拝の時に、ふわっとやって来た思い。






「私には、韓国にたくさんの兄弟姉妹がいる。

そして、韓国に愛する親戚、家族がいる。

復活のイエスさまが、守られますように…。」


と言う、熱い思いが与えられ祈りました。サランヘヨ~






昨日までは、ただ娘の事が心配で朝鮮半島情勢を案じていました。

ところが、礼拝の最中にやって来た思いは、上のようなもの。

韓国には、たくさんのクリスチャンの兄弟姉妹がいるのです。

あのリバイバルの時に比べれば、若い人の数は減って来てるとはいえ、

韓国は、今でもクリスチャン国家には違いありません。

3月に韓国に行った時に出会った、娘の教会の方々。。。

30年くらい前から、日本のために祈って下さった人々、

捧げて下さった方や、労して下さった方に感謝します。





そして、次には娘の家族が目に浮かびました。

ノンクリスチャンのお義父さん・・・。

クリスチャンであるお義母さん・・・。

お姉さんご夫妻と息子のセヒョン・・・。

もう私の愛する大切な家族なんです!





イエスさまが、太平洋に立ち上がって下さり、北朝鮮や米国、韓国を、

平和で満たして下さるようにお祈りしていました。

そして、今こそ日本の教会がとりなして祈る時なんだと。

今まで、祈られて来た分、今度は祈りを持って愛する番だと思いました。

サランヘヨ~




命はキリストの内に

2017年04月10日 | 教会





この三日間の間に、いっぱい祈りが聞かれたのでテンションが高かった昨日。

身体はとっても疲れていましたが、気持ちは元気いっぱいでした。

そんな日の礼拝中。




「つかれたなぁ~つかれたなぁ~」と心の中で祈っていたら、

ふと、昔とても高ぶっていた頃の私が一瞬思い浮かびました。

あ、、、高ぶりの誘惑・・・(-_-;)

物事が上手く行っているときの私。。。

娘も幸せそうだし、私も幸せだし・・・いろんな事が恵まれている。

でも、そんな一瞬に、次に御言葉が来ました。

「あなたの命は、キリストの内に隠されている・・・。」と。

うん、そうそう古い私はもう死んでいる。

そして新しい私は、キリストと共に生きている。

私は、自分の力で罪と戦う必要はないし、イエスさまの中で休もう!




「あなたがたはすでに死んだものであって、

あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」

(コロサイ3:3)





それから、礼拝中ずっと平安の中で身体は起きてても、心は休んでいました。

礼拝の中でも、神さまが教えて下さり霊的に満腹しました。

それは、イエスさまが5000人以上の給食をされた奇跡からのお話しでした。

「イエスさま、もういっぱいです!たくさん食べました。満腹です~!(*´▽`*)」

その溢れ出たたくさんのモノを、周りの人たちと分かち合いたいと思います。






真の礼拝者

2017年04月06日 | 思うこと





このところ、ひと月くらい毎日バタバタしていて疲れてしまいました。

それもあってか、今週の日曜には礼拝をお休みしました。

日曜の朝には、嫌な気分が抜けなくて、思い切って休むことにしました。

ただ、以前なら「教会を休む」って事だけで(理由は関係なく)、

良心が咎めて、次の日には更に具合が悪くなるパターンがしばしば。

でも、この良心は私のためにある愛ある良心ではなく、

過去の自分が複雑に絡み合った、所謂押し付けられた良心です。

なぜなら、時々咎めなくていい事までも咎めが来るからです。

例えば、私とは関係ない人の事についてまで咎めたりします。

なので、この良いと思われる「良心」さえ聖められなければならないようです。





しかし、今回お休みした事については、良心は過剰反応しなかったのか?

次の日には、また元気になってバタバタしてました。

そして昨日…久しぶりの友達とお茶して楽しくいろいろ話した後で、

帰ってから買い物に行って、花を植えて、お風呂掃除をしてから横になったら、

「つっつかれたーーー(_ _).。o○…

休ませて下さい…」

と、心の奥底が叫んでいました。

でも次の日にも、私は予定を入れていました。

大切な人と会うんだから絶対に「いい事」だと思って。





しかし、今朝起きたら疲れで頭痛はするし、身体中は痛いし予定はキャンセルしました。

そして心の本心から祈りました。

「イエスさま、疲れました。

ごめんなさい。疲れました。」


すると、神さまはこんな風に言っておられるように感じました。

「わたしは、真の礼拝者を求めているよ。

ヤコブが杖に寄りかかってわたしを礼拝したように、

真の礼拝者を求めている。」と。



「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、

そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。

‭‭(ヘブル人への手紙‬ ‭11:21‬ ‭)




私は、自分の基準で「いい事」と思われることをやってた時に、


(もちろん、その事自体は大事なことだったと思います)


イエスさまは、真の礼拝者を求めておられたのです。


今、主を礼拝します!