●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

究極の愛で

2007年09月30日 | 思うこと
「だから、そんなカッコで歩くからでしょ?
と言う声が、あちこちから聞こえて来そうですが…はいっ!風邪を引きました(-_-;)マタカヨ!

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さて、今日は恒例の夫との「お茶の会」です。いろんな話が出来るので、楽しみにしていますし、今日はオークションが好調だったので、私がおごる事にしていました
しかし、そう言えば夜中に軽い頭痛がしたので、「風邪かな?」とピンっと来たのに、朝にはミニスカートを穿いて、パソコンをしていたら、だんだん、だるくなって来たので、風邪を引いた事を思い出しました
そして、半袖シャツをGジャンに変え、靴下をはき寝ていました。がっ!寒気がして来たのでジーンズをはき…この辺りで諦めろ!
毛布を3枚掛けて寝た(-_-)zzzところで今日は無理だと気付いてやめよう!と思いました・・・シツコイ気がする

今朝は聖書を読んで、ハッ( ̄▽ ̄;)!と気付かされました。神さまは、世界中のみんなを愛しておられるのです
世界中の人達って事は、酔っ払いのおっちゃんや、道にたんをペッって吐く兄ちゃんや、「渡る世間は鬼ばかり」に出てくるような、意地悪なおばさんや、部下をいびったりミスを部下のせいにしたりするような卑怯な、脂ぎった上司も…って事なんですよね???

もっとスゴい事に、テロリストや独裁者ももちろんです。許して下さっています。しかし、それを信じて「ごめんなさい」を言わなければなりません。私たちも許して下さったことを知ったので、「ごめんなさい」をしてクリスチャンになりました

私にとって最悪だと思った過去の生い立ちや、性格や能力のない事も、今では良かったと思っています。なぜなら、それらが無かったら私の屑のようなプライドが「ごめんなさい」を言わせなかったと思うからです。

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「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネ3:16)

誕生日プレゼント

2007年09月25日 | 友達
今日、朝仕事を終えて寝ていたら教会の友達から電話がかかって来ました。

普段はメールなので、不思議な気持ちでしたが、眠いのには勝てず、しばらく寝てから電話してみました。
すると、今度は彼女が寝ていました(笑)。お互いに虚弱体質なので、理解してます。
だって急ぎの用事なら携帯に電話して来るだろうと思ったからです。

彼女の用事は「牧師先生の奥さんの誕生日が明日だったのに、うっかり忘れていたのでプレゼントを用意していなかったけど、どうしよう」って言う内容でした。

毎年の事なので、プレゼントはとっても悩むため、最近は誕生日カードと金封に、何かを添えると言う事にしていたそうです。
明日は斐川礼拝なので、私も悩んでいる時間はないなぁ~と思いつつ、引き受けました。

さてと…寝てから考えよっと(笑)。寝転んで、しばらくしたらアイデアが浮かんで来ました。
金封以外にはあまりお金をかけないで良いからね(割り勘にする人数が少なかったからです)って事だったので、自前可愛いラッピング!にしようと思ったのです。

まず、奥さんが好きな物チェック!シルバニアの人形やセット…これは高い!(笑)あるブランドの可愛い服…これも高い!(笑)
そこで、パソコンからシルバニアの人形たちの画像をいっぱい持って来て、並べて印刷して、封筒を作りました。

それからオークション用の袋に色紙をいっぱい切って入れて、その中に封筒を入れました。ビニール袋は娘の部屋にあったリボン付きの縛る金でまとめて、ゴム付きの紙に「誕生日おめでとうございます」って書いて、引っ掛けました。

なんとかカッコついたかな?って感じ…この間30分くらい?「あ~面白かったぁ~!まぁ、中身が入ってたら、後は気持ちだからね(^_-)-☆」
シルバニアの人形は、この中身で買って下さい!なにせ、マニアックな人の好みってわかりませんから(笑)。

キャンバス

2007年09月21日 | 思うこと
水平線に太陽が沈むとき

ジュワァ~って音がする

オレンジ色の水が広がって

赤く沸騰するんだ。


オレンジが沈んで来たら

空が青くなって辺りを冷やす

空は紺色のキャンパスになって

星たちの楽園と変わっていく


わたしも仲間に入りたい。

敏感な心

2007年09月20日 | こころの健康
やややっ!調子悪い(>_<)
特に悩んでいるわけでもないし、苦しいわけでもないのに…ってな具合でいろんな日がある。(^^ゞ

私は、かつては自分の事について昔は、小さい頃の環境が悪いとか、状況がこうだったとか、いろいろ思っていたのだが、最近は両親は両親なりに、一生懸命育ててくれたんだって思うようになった。
今も、口ではそんなに言わないが、心配してくれてるのが分かる。
私も両親の事は心配してる。

今にして思うのは、両親から見たら、私のような神経質な子供を育てるのは、大変だっただろうってことだ。
今でも人の心に敏感だから、小さい時はもっと敏感で、困っただろうと思う。

イエスさまを信じて、人の心に敏感なのも、役に立つように変えられたが、ただの神経質な人ってだけなら周りが困る。

愛に於いて、心に敏感で有りたいと思う…。みんな心底、愛を求めている時代だから。

あなたを守るガードレール

2007年09月18日 | 思うこと

(ヘブル 4:12)というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。

序.ガードレール
●道路にはガードレールがあります。


ある時、私は関が原と言うところを走っていて、ガードレールにスリップして当たってしまったんです。関が原は雪が多いんですね。しかし、ガードレールが無かったため、2mほど下に突っ込んでしましました。
ガードレールがあればよかったんですが。。。

ガードレールは何のためにあるんでしょうか?
それは、わたしたちの身を守るため。クッションとなるように柔らかく作ってあるんですよね。
それと、道を示すためです。ここは道路が曲がっていると分かるように作られています。ガードレールがなかったら、崖に落ちてしまうかもしれません。

●私達にもガードレールが必要なのではないでしょうか?


1.わたし達の心のガードレール。


●最近、とても悲しいニュースが。なぜ?このような事件が起きてしまうのでしょうか?

子供が親を・・・。逆に親が子供を・・・など。多いですよね。評論家は、TVのせいだとか、ゲームが悪いとか、家庭が悪いとか、いろいろ言っています。部活をしていないといけないとか・・・帰宅部の人でも良い人はいますよね?(笑)

●何が良い事で、何が悪い事なのか?心を守るルール、ガードレールのようなものが、無いのです。

●あなたは、何を心のガードレールとしていますか?知識・両親や先人の言葉・良心。でも・・・

昔、植木等と言う方がいらっしゃいましたね。
「わかっちゃいるけど、止められない♪」と言う歌が流行りました。いけないと分かってはいても止める力が無いのです。

また、価値観もその時代で変わります。戦争が良い例で、戦時中はたくさん殺した人は英雄で、今では大量殺人です。

ローマ7:18~20 なぜなら、善をしょうとする意思は、自分にはあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

2.あなたを守るガードレール

●鏡はあなたの姿を映し出します。聖書にはこのような言葉があります。

友達とご飯を食べていたら、彼が言いました。
「楫君、口にのりがついてるよ。」
「ありがとう。でも君の口に、ケチャップついてるよ(笑)」
と言う具合に自分の事はみんな分からないものなのですね。


ヘブル4:12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。

●神の言葉(聖書)は私達の心が正しいのか、間違っているのか、その深いところまで見分けることが出来ます。そして、その心を正しい方向へ導く力があるのです。

●そのためには罪が許される必要があります。
2000年前イエス様は私たちの罪の身代わりとなってしなれました。


●アメリカのルーズベルト大統領は「聖書を教えない教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものだ」と。

ナポレオンは聖書について言いました。
「すべてのものを支配する、生きた力のある生き物だ」

聖書を知っていれば、「いじめ」「自殺」を留められた?かも知れません。

私の知っているK君(滋賀県在住)と言う人は、大変ないじめに合い(物は引き裂かれるは、無くなるは・・・etc)、で、いたたまれなくなって家を出てしまいました。みんなで一生懸命探しましたがみつかりません。ついに3日後に、静岡で発見されました。

彼はしぬつもりでした。しかし、その直前「しんではいけない」と言う思いがやって来て、思い留まりました。それは聖書を知っていたからです。

※イエス様は、あなたを裁くために聖書を与えられたのではありません。あなたを正しい道へ導くためになのです!

                  (2007/09/12斐川礼拝・牧師 楫 直樹)
 


委ねる心

2007年09月15日 | 思うこと
委ねるって結構、簡単なようで、とらわれてる時にはなかなか難しいんですよね。

例えば、上司が部下に仕事を委ねたとします。
ところが慣れない部下の、あれやこれや…こんな時に限って細かい事まで気になって、心配して見てしまいます。
部下もその無言の視線が気になって、いよいよ緊張して、おろおろします。上司の顔色を伺った仕事しか出来ません。

これは、上司が部下に全てを任せて委ねていないからですね。
上司が全く部下に信頼して委ねたなら、どんなに楽でゆったりした気分になるでしょう。そしてそんな雰囲気の中で仕事をさせてもらった部下は、良い仕事をする可能性が高いはずです。

でも、この場合に委ねる相手を選ばなければなりません。仕事が出来ないと分かっている人では、心配になるのも無理はないからです。

私は役所関係の手続きは、ほとんど夫に任せています。信頼出来るから、心配したりしません。…ただ、先日は一つ忘れていたみたいですが(^^ゞ。私も忘れているかも?とちょっと思ったのですが、大丈夫だと知っていたので、忘れてしまっていました(なら、自分でしろぉ~・笑)。
でも、考えるのも恐ろしいのですが、もしこれを息子に任せていたら…心配で眠れないでしょう(笑)。

今朝、私の勘違いで息子に夫の態度について、悪口を言ってしまいました。息子は私に怒りましたが、内容からして、そんなに重要でもないし、私に怒るなら自分も手伝ったらいいのに…。

だんだんと息子に腹が立って来ました。でも、元々は私の勘違いだし、かと言って夫に叱られるなら分かるけど、何もしない息子に叱られる覚えはありません。以前なら躾のために、ちゃんと息子を叱りました。
でも、その時に「イエスさまにこの事と、この思いを委ねよう!」と思いました。
イエスさまなら信頼出来るお方だから、きっと良いように解決して下さるだろうと。
すると、部屋に閉じこもっていた息子が、私のところに来て、世間話をしていったんです。普段なら感情的になる私が、どう思っているか?気になったのでしょう。以前なら必ず私が息子を叱っていましたから。

イエスさまに委ねながら、言ったり止めたりするのが一番ですね。


「あなたの荷を主にゆだねよ。
主はあなたをささえられる。
主は正しい人(イエスさまを信じる人)の
動かされるのを決してゆるされない。」
(詩篇55:22)

見かけによらず

2007年09月13日 | 家族
先週あたりから親友のレボンに、怪しげな男性が来るようになりました

わたしがいる時にも3回くらい?メンズ物はほとんど置いていないので、ただ怪しい人物に見えました
わたしは始め、Rieちゃん目当てかと思い彼氏の話をしたりしたのですが、違うようで、又来ます(苦笑)
今度はRieちゃんところのバイトの女の子目当てかとも思いましたが、それも違いました。

さすがに、女性の一人暮らしをしているRieちゃんも、わたし達には不審人物にしか見えませんでした

そこで、Rieちゃんがお祈りしました。
「あの男の人が…男の人が…」どう祈ったら良いのでしょう。
私は「祝福されますように…」といいました。


私には、一つの考えが思い浮かんだからです
かつて、ある短気な牧師が暴走族に腹を立てて、乗り込んで行きました。結果…当然の事ながらボコボコにされたそうなんです。
その時、あまりに腹を立てた牧師さんは思わず…。
「しんじまえ!」(たまたまですので許して差し上げてください。)
と言ってしまいました。すると、ナント数ヶ月後に、その青年は交通事故で死んでしまったのです!


地上で与えられた祈りには、権威があります。ましてや牧師には特別な権威が与えられているのです
だから、私はその青年が「二度と来ませんように…」よりも「祝福してください。」と祈った方が、イエスさまが一番良いようにして下さると思ったのです

するとその青年は意外に?(笑)良い人で彼女思いで、優しくて、今日は斐川礼拝にも来てくれました。人を見かけで判断してはいけないって、本を読んでいたら書いてあったので、思わず書きました

わがたましいの羊飼い♪

2007年09月11日 | 思うこと
私の好きな賛美歌のひとつに「♪わがたましいの羊飼い」と言うのがあります。

「我がたましいの羊飼い
あなたに全て委ねます。
主の声に聞き従い どこまでも、ついてゆく
※静かな牧場、流れのそばを 主は私と共に
険しい山も、暗い谷間も 主は私を導く」

この歌はクリスチャンの中では有名な、詩篇23篇を短く歌にしたもので、優しく綺麗な歌です
実は私はクリスチャンにしては、この箇所があまり好きではありませんでした

 「たといわたしは死の影の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」詩23:4
と言う言葉が怖かったからです

しかし、私は最近はここが一番好きです。なぜなら、この何年かの間に病気的にも、環境的にも多くの苦しみに合い、まるで「死の影の谷を歩む」ような体験をしたからです。苦しかったです。本当に苦しみとはこのような事か…と何度も経験しました。その度に「イエスさま!なぜでしょうか?」「あなたは何処におられるのでしょうか?」と思いました。

しかし、私はここがイエスさまの一緒に居て下さるところだったと分かったんです。私は見捨てられた…と思いました。しかし本当はイエスさまが、私の変わりに見捨てられて下さったのだと、気付いたのです


 「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と言う意味である。」(マタイ27:46)

オークション!おーくしょん!

2007年09月08日 | オークション
お~!昨日は久しぶりにオークションに出品したのだ

なんて、「大袈裟な奴だ!」・・・いつもの事だが(-_-;)と思われそうだが、この夏の苦しみをご存知なら、理解してくださるだろう。
苦しい。。。なんて言葉では言い切れない程に、いろいろな日があった。そんな時には発送や、メールのやり取りをするのも至難の業だった

一瞬「一度、オークションをみんな下ろしてしまおうかな???」と思った事もある。
下ろさなかったのは、頑張ったからではなく、下ろす元気も無かったからだ(苦笑)。考える元気もなく、ちょっとづつ落札していく商品を発送して行った
今回トラブルが2回続いたのだが、苦しいので悪あがきは止めて、正直に非を認めえて1点は返品に応じ、1点は値引きした。これについては、クレームがきた訳ではないが、自己申告をして値引きを申し出た。体力がなく、交渉する元気もなかったと言う意味もあったが、スムーズに解決して「非常に良い出品者です」の評価も頂いて恐縮した

ちょうど、以前にも紹介した「本田健」さんの本を読んだのと、「中野雄一郎牧師」の話を総合すると、「大富豪(成功者)になった人の特徴」があるのだそうだが・・・。

離婚をしない。
98%程?の人が離婚していないらしい。奥様、家族を大切にするそうだ。

正直である。
私はちょっと位なら適当な所があったので、粗悪品を故意に売った事はないが、記載しなかったミスはあったので、今回は面倒でも自己申告した。
黙っていても、何も気付かれないかも知れないとも思ったのだ。トラブルは体に疲れるので、いいかな~と思った次第である。
しかし、その間の良心の咎めを思えば、あっさりと落札者様の意見を聞いた方が、かえって手間が省ける上に、信用もして頂けた。

クリスチャンが多い。
50%位がクリスチャンか、クリスチャン関係(親がクリスチャンだったなど・・・)残りがユダヤ人。そして、その他の人達、だそうだ。
日本にもクリスチャンの事業家は多いがお国柄、公表しない方がいいので黙っているらしい。何人か名前を聞いたが、ここは黙っておこう。fufufu!

質素な生活をしている。
必要な物以上の物を買わないし、贅沢はしない。決してケチではない。

私は大富豪になろうと思っている訳ではないが、関心があるので聞き入ってしまった。まだ、いくつか、特徴があったが忘れてしまった。
大富豪になれるか?どうか?は知らないが、聖書の原則に従えば成功への道は開かれている。かく言う私の夫も、教会に来た動機は「事業で成功したい」だった。
本を読んでいて、多くの人たちが聖書の言葉を書いていたので、教会に聖書を読むために来たのだ。

そこで彼は「聖書に書かれている主題・イエスさま」と「かわいい奥様」と出会ったのだ(大笑)

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(Ⅲヨハネ2)

迷子の羊

2007年09月07日 | 思うこと

数日前に寝ようとしたら、なぜか?なかなか寝つけなかった。理由は、その日にいろんな人と話したので、その内容が頭の中をグルグル回っていたからだった

おそらく、普段はほとんど決まった人にしか会わないのと、ちょっと問題を抱えていたので相談したりして、頭がパニックになっていたせいだろう

その事は、それ以上考えても仕方ないので、イエスさまにお任せしようと思っていたのだが、全然関係ないカラオケの話しやら、お菓子の話しまで浮かんで来て、寝ようにも眠れない状態になってしまった(苦笑)

そこで思い付いたのが「羊を数える」と言う原始的な方法だった(笑)。
「こうなったら試して見るしかないな!」っと言った半分ふざけたような動機で…。

「羊が一匹…羊が二匹…(結構、真面目に数えた)…羊が五十匹…羊が九十九匹…そして遂に、百匹目は私!(笑)」
これを3回したところで眠れた…眠れたのだ

凄いなぁ!昔の人の言い伝えは…と感心すると共に、この言い伝えは、羊飼いの身近にいる人たちの言い伝えだろうと思った。
なぜなら日本人なら、羊じゃないはずだ…猫が一匹?変だ。第一猫はきちんとならばない(笑)。犬?犬は何頭も、それも百匹など並ばないだろう。牛?牛だったら「もう~もう~!」煩くて眠れないだろうし、牛を百頭飼っている人って、日本ではなかなか並ばせられないと思う。思っただけで汗が出る。。。。

イスラエルの遊牧民族は羊を飼っていたので、中東かイスラエルの言い伝えではないか?知っている人がいたら教えて欲しい。

では、なぜ?百匹目は私!!(笑)なのか…。私はお行儀が悪くて、飼い主の言う所に着いて行かなかった不良の羊だったので、迷子になってしまったからだ
イエスさま!探しに来て許して下さってありがとう(^O^)


「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは探し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。(ルカ15:4~6)」