●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

Merry Christmas!

2018年12月24日 | 日記
巷でもクリスマスムードでいっぱいですから、

私もクリスチャンとして、ちゃんとクリスマスの記事を書こうと思います。

よく聞くクリスマスソングに、「きよしこの夜」ってありますね。

途中…「救いの御子は~まぶねの中に~」とあります。

神さまであるイエスさまが、馬小屋で産まれたシーンです。

でも、イスラエルの馬小屋とは私たちにとっては実感が湧かなくて、

どんなに素晴らしい事が起きたのか分かり難いですよね?




ですから、現代に例えてみると、

スラム街の日々殺人事件が起きているビルの路地裏に…

「産まれて下さった!」

民族紛争が日常的に起きて、憎しみ合っている乾いた土地に…

「産まれて下さった!」

戦争とその難民で溢れかえっているテントの中に…

「産まれて下さった!」

毎日、怒鳴り合いの絶えない田舎の仲の悪い家族のいる家に…

「産まれて下さった!」

災害で、家や家族やすべてを失い放心状態でいる人々の中に…

「産まれて下さった!」



そもそも、このままでは何の希望もなかった人類の中に、

本当の希望となるため、生きて!死ぬために産まれて下さったんです。

私たちは、本来本当の神さまに出会うことも出来ないぐらいに離れ、

「神なく望みもない者でした。」




なのに、キリストは私たちのこの荒れた世界に赤ちゃんとして来て下さったんです。

イエスさまには、私たち人間を助ける義務はありませんでした。

しかし、ただただ愛したいだけのために、この世に産まれて下さいました。



そして私たちに希望が与えられました。

イエスさまの十字架の死と復活を信じる者に、新しい命を与えられたからです。

今、この荒れ廃れた世界に希望があるとすれば、それはキリストです。



よく世界を見て下さい。いつかは良くなると思いますか?

人類は、戦争や紛争をやめると思いますか?

幸いに今の日本は平和ですが、人々の心はどうでしょう?

生きやすい世の中ですか?



だから、イエスさまはご自分を犠牲にして下さいました。

これがクリスマスが素晴らしい理由です。

メリークリスマス!
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「ちゃんとしなきゃ!」の束縛

2018年11月27日 | 日記
いつ頃からか?

「ちゃんとしなくちゃ!」と思い続けるようになりました。

思春期になってから「ちゃんとしてない自分」に目覚めましたが、

そこまで自分を責めていた訳ではありませんでした。




クリスチャンとなり、最初勤めた会社でも、楽しく仕事してましたので、

きちんと仕事してないとは思っていませんでした。




多分、二十歳過ぎて地元に帰った頃からだと思います。

いつも「ちゃんとしなくちゃ!」と言う強迫観念がまとわりついて来たのは。

元々持っていた「劣等感」に拍車をかけるような環境の中で、

「自分は特別に悪い人間だ!」「常識も分からないダメな人間だ!」

だから、みんなのように「ちゃんとしなきゃ!」と思い初めました。




ところが、そう思えば思うほど、空回りしたり失敗したり、

叱られたりで散々でした。

その間に、自分のイライラを周りの人にぶつけたりもしていました。

その間に結婚もして子育てもしていましたが、

「ちゃんとしてない自分」がいつも私を苦しめました。

もう、どうしたらマトモな人間になれるのか分からないので、

更に混乱して、ひたすら苦しむ日々でした。

数十年、この事で苦しんだと告白します。不安神経症にもなりました。

まるで、出口のないトンネルに迷い込んだかのようでした。




ところが、最近ふとその

「ちゃんとしなくちゃ!」をほとんど感じなくなったと気付きました。

漠然とした思い出はありますが、もう追いかけて来ないと感じるんです。



今がちゃんとしたからではありません。

「ちゃんとしておられる」イエスさまに信頼しているからです。

私は、自分の中に「確かさ」を求めていましたが、そこにはなく、

私の内側におられるイエスさまの確かさで生きることを知りました。



私には、究極のちゃんとしたイエスさまがおられるので、

びくびくしなくても生きて行けるようになりました。

全てイエスさまの恵み!
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神さまを愛していると知ること

2018年11月12日 | 日記


先日から、神さまを愛することについて考えています。

私たちクリスチャンは、神さまに愛されている事は知っています。

十字架の愛、恵み、祝福などたくさん頂いて、感謝もしています。

だからといって、自動的に神さまを深く愛するようになるとは限りません。

もちろん、そんなイエスさまは好きです。

大好きだと言って賛美もします。奉仕もします。捧げることもするでしょう。

でも、心から愛することとは、もう少し違うような気がします。




たとえば誰でも中学生ぐらいの頃には、好きな人が出来るでしょう。

私は大人になるまでは、いつも片思いでしたが、

人を好きになる事だけでも、もうかなり幸せを感じたものです。

その人の行動を目で追いかけ、少し見られただけで嬉しくなり、

用事があって名前を呼ばれただけなのに、喜びがはち切れそうでした(笑)




そこで思うのですが、人は愛されるだけでは充分な満足はなく、

「愛する」時、「愛し合う時」に、本当の満足感を覚えるものだと思うのです。

イエスさまが私のために死んで下さった事は有難いし、

罪の赦しは嬉しいし、心から感謝してはいるとしても、

まだ心底から愛する気持ちになれない事もあると思います(実感として)。



ちょっと的外れな例えかも知れませんが、

先ほどの中学生の女の子がある日いきなり、

見たこともない、とても素敵な男子に熱烈な告白された時のようです。

頭も良いし、運動も出来るし、とても優しそうで素敵な人だけど、

まだ、その人の事をほとんど知らず、好みの人かどうかもよくわかりません。




そんな風に、神さまは私たちを熱烈に愛して下さるのですが、

私たちには、まだ心の準備が整っていないかも知れません。

人によっては、あまりの愛に感動して、すぐに愛するようになるでしょう。

しかし、気持ちがゆっくりついて行くタイプの人もいます。

毎週礼拝して、大声で賛美して、お祈りしていても、

まだ、深く神さまを愛しているとは限りません。

しかし、そんな私をイエスさまは急かしたりはなさらず、

ゆっくり愛の起きる時を待っていて下さいます。

そして、私の中にある神への愛を見つけて出して下さるのです。

そうです。私が知らなくても神さまの方が、

私の心の奥にある、「神への愛」に気づいて下さるんです。

クリスチャンは、必ず心に神への愛を持っています。

(信じていない場合には、クリスチャンとは呼べないから)

でも、未熟だったり、傷ついた所や恐れがあって、

それに気がつかないこともあるのです。



ですから、復活されたイエスさまがぺテロに尋ねられたように、

「あなたは私を愛するか?」と聞いて、その心に気づかせて下さいます。

クリスチャンは皆、イエスさまを愛しています。

この時点でやっと愛し合う関係が始まります。

神さまは焦ってはおられません。

愛の自ずから起きるまで待っておられるんです。(雅歌参照)

その時から愛されるだけのクリスチャンから、

神さまと、愛し合うクリスチャンの喜びが始まるんだと思います。





「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。

ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。

(ヨハネによる福音書 21:15抜粋)



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成長するクリスチャン

2018年10月31日 | 日記


普段から、夫とクリスチャンの成長について話しています。

先ずは、成長する人としない人では、何が違うのか?

元々言われて来た事は、

「謙遜にイエスさまに従って来た人は、変えられて行く」

「常に渇きを持って、イエスさまを求めている人は変えられる」

「忠実に主に仕えて来た人は、変えられる」

などありますが、どれも素晴らしい事なので、正にそうだと思います。




しかし、それは凡人にはなかなかハードルが高くないですか?

フルタイムの献身をして、多くの人に仕え、立派な働きをしていらっしゃるような、

特別な方にしか届かないようにも思えて来ます。




イエスさまは、もっと普通に自分のような凡人にも、

成長する道を用意して下さっていると思います。

先日書いた「砕かれる事」もそうですが、

根底に流れているのは、一方的な神さまの愛です。

どんな人にも、小さな生活の中で神さまが働いておられて、

その中で、成長出来るようにして下さっていると思います。




しかし、その過程で「神さまの御手」を全く認めないとか、

かえって、不平不満でつぶやいてしまい、退けると成長には繋がりません。

自分が間違った事は、イエス様にその通り申し上げて十字架の前で告白します。

自分では、どうしようもない環境の中にいる時には、

そっとそっとイエスさまに信頼して、委ねて淡々と日常をこなして歩みます。

(そう言う辛い時って誰にもありますよね)



そうですね、ポイントは「イエスさまといつも一緒に!」でしょうか?

自分の力では、「謙遜になること」も「間違い(罪など)を認めること」も出来ません。

自分の力では、「日常を淡々と歩む」事も出来ません。

そう!私たちにはどんな「良い事」も自分の力では出来ないんです。

(ここで自分を諦めるって必要ですね)

しかし、そうこうして居る内に、「ちょうど良い時に神さまは私たちを高く上げて下さいます。」




ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。

神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

(ペテロの手紙第一5章6~7節)




前よりも少し「成長したクリスチャン」に変えて下さるんです。

ですから、とても希望があります!

どんなクリスチャンにも成長するチャンスがあるからです。

成長している人と、そうではない人の違いは、

「神さまの御手を認めて、主に信頼して歩む」か?

「環境や状況に不平不満を言い、自分の力に頼る」か?

でしょうか?



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クリスチャンの輝き

2018年09月01日 | 日記


先日、後から思えばちょっと素敵な体験をしました。

ある日、友達と待ち合わせをしていて、

先に着いたので、待っていたら彼女の車が到着しました。

もちろん、いつものように手を振りながら挨拶しました。

そして彼女の車に乗り込みながら、

「久しぶり~~(*≧ω≦)」と手を取り合って再会を喜び合いました。

その事があまりにも当たり前だったので、

私たちが会ったのは、ただの1ヶ月ぶりだと言う事を忘れていました(笑)



その時なんですが…

彼女の笑顔と車の中が、何かキラキラと光っていたんです。

ただ、彼女のいつもの笑顔が美しかったと言うのとは違って、

何となく周りが、キラキラしてて。



でも、その事を忘れるぐらいに私たちは、車の中で最近の出来事について話し、

「どんなに神さまが素晴らしい事をなさったか!」と証しし合っていました。

そして、自分の最近の困っている状態についても聞いてもらって、

いろんな良きアドバイスを頂いたりしていました。

ですから、キラキラの事は彼女にも言わず、すっかり忘れて家に帰りました。




ところが帰ってから主人には、

「どんなに素晴らしい交わりだったか」を話す前に、

なぜか?あのキラキラの話しをしていました。

それを聞いた主人は、

「聖霊に満たされている人は、そう言うこともあるわねー」と言ってました。



その時、今度は急に昨年の市民クリスマスの時の事を思いだしました。

私が主人と一緒に行った時に、後日彼女が言いました。

「あのね、ご主人がキラキラ輝いていたよ~」と。

私は、その時には主人が営業スマイルで笑っていたことかな?と軽く聞いてましたし、

主人は、「それは大袈裟なぁ~笑」と笑って済ませました。

(私もそう思いました笑)




でも、今回彼女の周りのキラキラを見て(目で見たのかは分かりません)、

主人のキラキラも、もしかしたら神さまの祝福かも知れないと思いました。

聖書には、キラキラの話しは出て来ないので、調べようがありませんが、

神さまと語り合っていたモーセの顔が輝いていたことはあります。



そして、そのような事があった意味は分かりませんが、

神さまは、確実に「何か」を始めていらっしゃると感じています。

私は、特に不思議な体験を求めてはいませんが、

(仮にあったとしても、体験で救われる訳ではないので)

しかし神さまが、神さまらしく働かれるとすれば、

人間の目には不思議であろうと思います。

そして、きっと神さまは神さまらしく事を行われるでしょうね。



ここに書いたのは、彼女や主人が素晴らしいからとか、

それを見たことが素晴らしいからとかではありません。

(キラキラしてない時の方がほとんどです)

でも「そこに神さまがおられたんだ!」

と言う事実がとても楽しいからなんです。


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湧き上がる泉のように

2018年08月09日 | 思うこと


4月から、ずっと体調が良くて、バタバタ出来るようになりました。

最近では、疲れはあるものの不自由さや、苦しみを感じる事もなく、

意味のない不安や、苦しみ、恐怖などから遠ざかっています。

普通に生きれる事に感謝!



しかし、一つだけ難があるとすれば、朝起きた時の「気持ち悪さ」です。

こんなに調子が良いのですから、これくらい我慢?とも思いましたが、

数日前から、この事については夫には祈ってもらっているものの、

神さまには事情を説明してお願いしてない!と思いました。



それも、「この症状を無くして下さい。」と言う消極的なものではなく、

「どんな自分になりたいか?」と問われているような気がしました。

その時、泉のように湧き上がる喜びが欲しい!と思いました。




朝起きた時から、寝るまで「泉のような喜び」が内側から溢れて来たら、

どんなに素晴らしいでしょうか?

この泉が湧き上がれば、気持ち悪さは当然なくなるはずです。

一昨日から、この祈りと願いを持ちました。



今のところ、本当に嫌な症状は消え去りました。

今の私には、この地上的な意味での欲望はあまりありません。

必要な事や、モノはたくさんありますが、

過剰に、何かが欲しいとは思っていません。



以前、友達に「私ね、多分将来○○○するようになると思うわ。」

と話したら、友達は、

「祈っていたら、そうなるかも知れないね。」と言ってました。

でも、うーん…

祈っているわけではありませんし、絶対にそうならなければならない!

と考えている訳でもありません。

きっと、そんな風に導かれるだろうなぁ~と言う緩い信仰。

「もし、そうならなかったとしても、オッケーです、神さま。」

と思っています。

なのに、その確信は日に日に深まっている。そんな感じです。



先日、聞いたメッセージで、ある牧師先生が、

「ロサンゼルスで集会を持ちたいなぁ~」と何となく思っていたそうです。

なぜ、そう思ったか?絶対そうなる!と思っていた訳ではないのに、

その思いは、段々強くなって、結局実現したそうです。


私の考えている事は、もっと小さいですが、

「あっ、その感覚、なんか似てるなぁ~」と思いました。

今のところ、自分の欲望による願いではないので、

神さまが、そのように導かれるでしょう!

期待しつつ待っています。



しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。

わたしが与える水はその人の内で泉となり、

永遠の命に至る水がわき出る。」

(ヨハネによる福音書 4:14 )
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自分を諦めること

2018年07月19日 | 思うこと

最近、クリスチャンが「砕かれること」について語られる事が少ないように思います。

だからといって十字架の恵みによって、

自我から解放されることの効力がなくなった訳ではありません。

そして、語られなくなった訳でもないと思います。




おそらく、「砕かれる」と言う言葉が使われなくなっただけで、

「神さまに自分の全てを信頼する事にした。」とか、

「自分に頼らず、完全にキリストのみに信頼する。」など、

違う言葉で、このメッセージは語られていると思います。




個々の罪を犯した時には、罪の悔い改めは必要ですが、

砕かれる時には、悔い改める必要はありません。

神さまの摂理によって、人それぞれにいろいろな出来事があった末に、

もう少しも自分には頼れないと、やっと気づきます。

それくらい人間は、自分の力に頼るのが「生まれた時から普通」の状態なんです。

その時には「私は罪深い者です!」などと言うことさえ、なんと無駄な事か?と思います。

(私が、知らなかっただけですから)





自分に何の期待も出来ないと分かると、

「これが私(罪そのもの)」と認識して、全てを十字架に委ねるだけです。

しかし「これが私なんだ!」と自分の本心が見えると、

愕然としてとても絶望的な気持ちになりますが、

だからこそ、これはもう自分の手には負えないと知ります。

まともな自分になれるなんて、全く思えなくなります。

(思わないようにすることではなく、思えないんです)



そしてそれは落ち込む事でも、弱る事でもなく、

「あーイエスさま、ありがとう!」と言うしかない事柄です。




落ち込む事や、弱る事には自我の強さが隠れています。

自分を諦めていないからです。

仮に「自分はなんてダメなんだ!」と言ったところで、

イエスさまは、「そんな事はよく知っているよ。

だから、私が十字架についたのだからね。」

とおっしゃるに違いありません。


自分に頼る人は、自分と自分の力に執着しているので、

見つめる先が自分の内面なんです。

(私は何十年も内側ばかり見て、苦しみの日々を送っていました。)



しかし、見るところは十字架以外にはありません。

十字架だけです!

そこに見えるのは、私の罪となって死なれたイエスさまの死。葬り、復活。

イエスさまの内にあり、この復活の命によって、新しく生きるしかないんです。

その新しい復活の命の中に、本来「なりたかった自分」がいます。

キリストから、全ての善きものを頂く事が出来ます。

私自身を全て預け、キリストの命を頂く交換ですね。



他の道はありません!

他の道はないと、心底知るのです。

知らない間は、自分で何とかしようとします。

「もう少し静まって祈ろう。あのミニストリーをしよう。

誰か助けを頂ける人に会おう。」等々いろいろ思いつきます。





しかし、十字架にしか解決がないと知る事は、本当に嬉しい事です。

あんなに悩んだ「自分と言う重荷」を置く場所があるんです。

イエスさまと継ぎ合わされて、その命を頂き、

一緒に生きる事が出来るのですから。






「わたしはキリストと共に十字架につけられた。

生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、

わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた

神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」

(ガラテヤ人への手紙 2:19‭-‬20 )

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祈りは聞かれている

2018年07月07日 | 思うこと


ある春の日の事です。

私は、近くの川の土手で賛美していました。

スマホから、何曲か流れる賛美と一緒に歌っていると、

突然、心に込み上げるものがあり、泣きながら祈りました。

私は、普段はどちらかと言うと泣かない方で、

涙が溢れる時は、なぜか「神さま!この地の人々を憐れんで下さい!」

と祈る時だけでした。

10 年ほど前に、教会に帰った時にも礼拝の賛美中に泣いたのは、

♪「神よ~聖なる神よ、この地に光を~」と歌う時でした。




しかし、この土手でのお祈りの時は違っていました。

「私は、本当に本当に!愛されるために生まれたんだ(泣)」

♪「傷ついた~主の愛の手が動き、わたしの心を癒された~(泣)」

次々と流れる賛美の中で、私を愛して憐れんで祝福して、癒し、

忘れないで、満たして下さるイエスさまへの感謝で泣いていました。

イエスさまーあなたは、私を決して忘れてはおられなかったんですね(涙)




そして、後半に流れて来た♪「誰も見たことのない事が」

を歌った時には、今度は日本を愛しておられる神さまの愛に驚き?ました。

♪「祈りは聞かれている~」と。

そうです。もちろん今祈っている私たちの祈りは聞かれています!

しかし、もっと以前に日本のために祈って、もうこの地上にはおられない、

多くの聖徒たちの祈りは聞かれていると!

祈りながら、召された牧師先生。

多くのリバイバル集会を、全身全霊で導かれた先生たち。

その働きを、全力でバックアップされた先生たち。

どんなに変えられた日本を見たかったことでしょう!




その牧師先生たちは、

自分の目では日本のリバイバルを見る事は、許されなかったけれど、

モーセのように遠くから信仰の目で(約束の地を)見て、

満足して、天に帰られたんじゃないかと信じました。



その祈り!その祈り!その祈り!の数々が、聞かれている!

そう分かりました。

ですから、その事の素晴らしさに泣けて来ました。

無駄ではなかった…と。

(今頃、天に於いて先の聖徒たちは、それを見ておられることでしょう)


霊の世界で起きている事と、現実世界にはタイムラグがあると聞いています。

もしかしたら、もう少し時間が必要かも知れません。

でも、神さまの現実に生きたいなぁ~と思っています。


「みこころが天になる如く、地にもなさせたまえ。」主の祈り



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私が教会に行った訳

2018年05月16日 | 教会
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。

神は真実である。

あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、

試錬と同時に、それに耐えられるように、

のがれる道も備えて下さるのである。

(コリント人への第一の手紙 10:13)



これは、私が一番最初に覚えた聖書の箇所だ。

それは、高校時代に朝の支度をしている時に、

何気なく聞いていたラジオから聞こえて来たものだった。

この言葉と共に、凄い大変な試練にあった年配の男性が、

益に変えられたと、喜んで話しておられたのが印象的だった。

「正しさ」とか「生きる意味」に悩んでいた当時の私には、

それは、とても新鮮に心に入って来たのだ。

宗教は嫌いだったが、聖書とかキリスト教には興味があったので。



当時の私の一番の悩みは、「自分が嫌いだ」と言う事と、

こんな自分の「生きる意味が分からない」

と言うことだった。

「何のために生きているんだろう…」と密かに思っていて、

答えを見つけたいと求めていたのだ。



高校一年の時に、ついに嫌気がさして教室の机に伏してした所、

担任の先生が不審に思い、教員室に呼び出された。

「先生は、何のために生きているんですか?」ときくと、

「生きてるから、生きてるんだよ。」との答え。

そんな空気のような答えに、気が抜けてしまい、誰かに尋ねるのは諦めた。



それからしばらくは、端から見たら華々しい高校生活だったので、

その疑問は棚上げにして、部活に勤しんだ。

自分では、暗い青春時代だと思っていたが、周りからは明るくて、

それなりに成功して、楽しそうに見えたようだった。



地元に就職したものの、まるで学校のような制服で、

人々が時間通りに動き、一緒にお弁当を食べ、

午後は部活と言う生活が絶望的に見えたので、

私は、すぐに辞めて京都に行く決心をした。



両親は、当然跡取りをすると思っていたのでびっくりしたと思うが、

私の思い通りにさせてくれた。

両親にとっても、あの就職口は納得行かなかったのではないかと思う。

高校を選ぶ時に、部活の監督と就職口への約束をもらっていたからだ。

結局、私が選んだのだから、先生のせいではないが。




京都に行ってからしばらくして、下宿の人間関係で悩んだ。

ちょっとだけ悪っぽい人達だったので、私の道徳心とは合わなかった。

でも、みんな外側の行動とは別に内面には純真な心を持っていたと思う。

そんな孤独の中で、私は再び聖書を読みたいと思うようになった。

京都には、クリスチャン文書センターがあり、大きな看板がついていた。

バスで通る度に、「あそこには聖書があるだろう。」と思い、

いつか覗いてみたいと思っていた。いつか、いつか。




そして、ある秋の日。ついに私は勇気を奮ってそこに行き、入っていろいろ見てみた。

「聖書以外にも、いろんな本があるんだな。」

何を手に取って見て良いのか分からない。全て初めて見る言葉だ。

店員さんは、そんな私に声をかける事はせず、安心してしばらく眺めていれた。

しかし、あまり長いこと眺めているものだから、ついに店長さんが声をかけてくれた。

その方に誘われて、私は初めて教会と言うところに行くことが出来たのだ。




つづく…かも知れない(笑)
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たったひとりのために

2018年04月22日 | 思うこと





先日、教会でスペシャルゴスペルカフェがあり、コンサート、

ゴスペル発表会、ウクレレ隊、ゴスペルフラで盛りだくさんでした。

そして、たくさんの方々が来て下さって、最後には椅子が足りなくなるほど。 

私もとても楽しませてもらいました。




フリータイムの時に、ある方といろいろなお話をしていたのですが、

「あのね、私たちってたくさんの人達が来られた!とか、

多くの人が救われたとか、そちらの方に目が行くんだけど、

神さまって、たった一人のためにさえ、大きな集会を開かれる事があるのよね。」と。




そうかも知れない!と納得しました。

今日のこのカフェも、私のために開かれたのかも知れないし、

他のある人のために、開かれたのかも知れない。

その結果である実は、ずっと後にならないと分からないかも知れません。

でも、イエスさまの目は「多くの人々」に向いているのではなく、

一人一人の上に注がれているんですね。

私が若い時にイエスさまを信じた「特別集会」も、

わたしのために用意されていたかも?

(それぞれが、自分のためにと思って下さいね・笑)

すると、下記の御言葉が浮かんで来ました。



「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、

その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、

その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。」

(マタイによる福音書 18:12)



イエスさまの目が、私に注がれているとすれば、

なんて素敵で喜ばしい事でしょう!

みんなで礼拝します!

でも、私とイエスさまの時間でもあるんです。

感謝ですねー( v^-゜)♪
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