●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

全ては無駄ではなかったと。

2015年10月26日 | 日記

友達から切ってもらった多肉を育て中です。





決して無駄ではなかったと
今朝は、とっても平安な気持ちの中で目覚める事が出来ました。これは、不安神経症の私にとっては異例のこと。幸せ~(-^〇^-)起きた時、高校生の試験前と言う、最悪っぽい夢を...




今朝は、まだ暗いうちに目覚めたので、ポッドキャストでメッセージを聞いていました。

まさに、今日の記事にピッタリのお話でした。



私には、昔から持っていた悩みがありました。

「なぜ?私は、こんな性格に産まれてきたんだろう!」

を、突き詰めて、

「なぜ?私はあの家庭に生まれ、あの父と母の間に産まれたんだろう!」

「なぜ?私はこのような容姿に生まれて来たんだろう!」

「なぜ?あの辛くて寂しくて虚しい時に、誰も助けてくれなかったんだろう!」

なので、若い時から私の中には・・・



「産まれて来なければ良かった。。。」

と言う思いがいつもありました。

友達と笑っていた時にも、部活で頑張った時にも、成績が良かった時にも、

クリスチャンとなって何年しても、やはり、

その思いは私から離れる事はありませんでした。




自分が嫌いでした。自分の存在が重荷でした。

神さまが私を作られたとすれば、完全に「不良品」だと思いました。

「私が生きている」それだけで苦しみを感じました。

神さまが私の罪を許してくれても、私は自分を許せませんでした。

何と言う、病んだ心だったでしょうか。

事実、病んでいましたが…。



でも、そんな私を全部引っ括めて背負って、

全てを十字架で負って下さった主が、

十字架で、父なる神さまに完全に見捨てられて下さったと知った時に、

私が捨てられるはずだったのに、身代わりに捨てられて下さったと分かったんです。



もう、私が自分を背負う必要はないんです。

どんなに「不良品」だとしても、神さまの作品です。

そして、その苦しかった過去の全てをひっくるめて、今の私なんです。

「今の幸せな自分」を作っているのは、良かった事だけじゃなくて、

数々の不幸だった事も入っていると言うお話でした。

それらは、もう私の一部となっているんだと・・・。

う~~ん、だから全ては無駄ではなかったんですね。



人が変えられる時(十字架の恵み)

2015年10月24日 | 思うこと
今朝は、夫が朝から仕事で美保関まで行くらしいので、

恒例のモーニングはお休みです。

昨夜も、のんびりしていたらお客様から電話が・・・。

事故でした( ̄○ ̄;)!

即、出かけて行き帰って来たのは9時頃でした。

「夫の仕事は大変だなぁ~」と思う今日この頃です。

営業もさることながら、事故は利害関係が絡むので、人柄がもろに出ます。



あのとっても親切そうで、優しそうな方が、怒るの?って事や、

ネチネチと苦情を重ねて来る人。。。

無理難題を押し通そうとする人などいろいろです。

あ、以前は怪我をでっちあげる人もいたなぁ~(^_^;)コレハロンガイ



5年くらい前まで、夫はそんな案件を抱えると機嫌が悪かったです。

そして、家族に当たる?っぽい事もありました。

また、会社の人にはキツイ口調なども。。。イライラシテル

私は、今誰に電話しているのか良く分かるくらいでした。



ところが、いろんな試練を通して神さまにより信頼するようになったらしいです。

その頃から、夫はどんな案件でも相手が誰でも苛立たなくなりました。

機嫌が悪くなるような事もなくなりました。

「あれ~~~?これって神さま?」と思いました。

それ以来、ちょっとした事でもカッ!となりやすかった夫が、

全く!私たちに当たらなくなりました。

それからもう3年以上経ってますが、いつも平常心なようです。



本人に聞くと、

「いろんな試練を通して、より神さまに対する確信が深められて来たような気がするよ」

「以前は、とても恐れが強かったけど、平安が増し加わったようだよ」

「人は、なかなか変わらないけど、神さまは変えて下さるね~」

と言ってました。そして、

「(変えられるには)何もしなくていいんだよ、ただイエスさまの前に正直に出て信頼すればいいよ」

なるほど。。。神さまに信頼するが「信仰」だよね。

「ただ、謙遜である事だよね。謙遜ならきっとイエスさまの恵みがいっぱい入って来るよ」

そうだね~~~。




ただ、私はその「謙遜」が全くなくて、いつも「高ぶっている」って注意を受けました。

自分でも自分の中に「高ぶり」があるのは分かっていましたが、

全く!それを直す事が出来なくて、苦しみ苦しみ・・・もがき苦しみ。。。

自分で出来る限りの謙遜を頑張りました。何度も何度も。

そして、疲れ果てて最後に諦めました。



その時、ハタとこんな高ぶった私の罪のためにイエスさまは命を捨てて下さったんだ!

と、やっとイエスさまの十字架の本当の意味が分かりました。

イエスさま、ありがとう!ありがとう!




それ以来、高ぶりから自由になって少しづつ謙遜とは何か教えられて来ました。

いえいえ、全く高ぶらなくなったとか、私が謙遜だと言う意味ではないですよ。

究極の謙遜(神さまレベルの)は、イエスさまの十字架で、

私が変えられて行くには、その謙遜を日々頂くしかないと分かっただけです。