●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

キリストと共に十字架につけられた

2016年03月08日 | 思うこと
私の人生の大半は、苦しみだったように感じます。

それは、多分生まれながらの性格や家庭環境、

自分の自我の強さや、罪のせいでした。

自分の責任の部分もあるし、自分ではどうしようもない事もありました。

その自分の責任でさえ、自分ではどうしようもなかったので、

私は、ただただ苦しみました。

そして、周りの人たちをも苦しめました。

とにかく、私と私の人生は壊滅的だったのです。

立て直す事が出来ないくらいに壊れていました。

それは、クリスチャンになってからも続きました。



しかしある日…それがいつかは分からないのですが、

私は、イエスさまと共に十字架につけられたと知りました。

私と私の人生は、キリストと共に十字架につけられたのです。

それは、以前なかなか信じられない事でしたが、

今は、聖書に書いてある事が事実だと信じています。

やっと、長年の重荷から自由にされて、祝福を受ける事が出来たのです。

神さまは、ずっと祝福して下さっていたのですが、

私の側に受け取る謙遜な信仰がなかったのです。

もちろん、その信仰さえも、神さまからの賜物です。

この幸せを頂き、ただただ感謝です。

私は祝福されているんです!





私は、十字架の悲惨さを知りません。

私が知っているのは、十字架が神さまの愛の完全な現れだと言う事です。

十字架の贖いは、完全なのです。

何か足りないところなどないと知っています。

その十字架の恵みによって、私は古い自分から切り離され、

全き自由と、新しい命、新しい人生とを頂きました。

イエスさまの前に跪くことは、なんと幸せな事でしょう。

イエスさまを礼拝する事は、人間に与えられた本分なのです。




わたしはキリストと共に十字架につけられた。

生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

(ガラテヤ人への手紙 2:19~20 )

子犬でもパンくずはいただきます。

2016年03月01日 | 思うこと







(マルコ7:28)

すると女は答えて言った、

「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる

小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。






以前、私が教会にも行けず、一人で孤独になっていた時に、

私が、イエスさまの前に出る拠り所は、このみ言葉でした。



私は、クリスチャンとも言えない、相応しくない人間だ。。。

私は、特別にダメな人間で、神さまだって救いようがない。。。

私には、もうさすがの神さまも救いの手は下さらない。。。



そう本気で思っていましたが、何としても憐みが欲しかったんです。

それでも尚、神さまの憐みなくして生きていけないと思いました。

そんな時に、心に浮かんだみ言葉は、

「子犬でも、パンくずはいただきます」と言う、この女の信仰の言葉でした。




「そうです、イエスさま。私は相応しくないけど、憐れんでください!」

「食卓から落ちたパンくずで結構ですので、私に憐みをかけて下さい!」

と叫びにも似た、祈りをしていました。




その時が、いつだったか?どんな場面だったか?覚えていませんが、

そののちに、神さまは本当に憐れんで下さり、教会に帰る道を備えて下さいました。

それは、いくつもの偶然?必然?があった不思議な導きでした。

「あ~~イエスさまは、本当にこの祈りに答えて下さったんだ!」

と、今もこのみ言葉を見る度に感謝が沸き上がります。

そして、このへりくだった信仰こそ、

神さまが私に求めていらっしゃったものだと知りました。