●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

松江市民クリスマスでの出来事

2016年12月26日 | 思うこと





もう、クリスマスは全て終わりましたが、

12月3日の松江市民クリスマスの恵みを思い返しています。

以前にも行った事はありますが、今年は講師が福澤満雄牧師と言うことで、

特別に期待して、友達と一緒に行きました。(噂を聞いていたので)




先生のメッセージ…

の前に〜凄い事?がありました。

ハンドベルやコーラスがあり、とても素敵でした。

それから、ゴスペルフラが!!Σ(゚д゚lll)

いえいえゴスペルフラに驚いた訳ではありませんよ。

松江の教会の人たちと、私たちの教会の人たちの合同チームでした。

メンバーのほとんどの人は、個人的にも友達です。

そのゴスペルフラを見ていたら、心が熱くなって、涙でウルっとしてしまいました。

フラで泣くはずないから「何だか私、変だわ。」と思いました。

でも愛する友達の踊りを見て、心の中が愛でいっぱいになったのです。

「わぁ〜私の愛する友達!!なんて素敵な友達!

イエスさま!私に、なんて素敵な友達を与えて下さったの?!」と感動しました。




それから、私たちの教会の牧師の賛美!

いつもより、心のそば近くにそっと届く歌声でした。

え?何かいつもと音響が違うの?(笑)と思ったりして。

(先生に失礼でしょう?笑笑)




その後で、福澤先生のメッセージでした。

最初から、一回も目を離すことなく語られる言葉のひとつひとつを聞いていました。

吸い込まれるように、聖書の言葉に聞き入ってしまい、

ラスト前には、涙が溢れました。

イエスさまの十字架のリアルな恵みと、天国への希望!

「私も天国で、価値のある生き方がしたい!」と強く思いました。

私は、新しい使命をもらったように思います。





そこには、確かに神さまの臨在がありました。

神さまの臨在…そこにおられるお方。

神さまの臨在って「愛」だったんだと分かりました。

当たり前の事でしょうが、私には自分の事として分かっていませんでした。

神さまの臨在は、自分が幸せな気分になり、温かな気持ちになり、高揚感がある?

としか思っていませんでしたが、

周りの人たちみんなに対して愛おしいと思う、

気の合わない人をも、知らない人たちも、大好きな友達も、

みんなみんな全員を包んで、「私の愛する人たち〜!」と思える愛でした。

そう言う意味での「神さまの臨在って愛なんだ!」と理解しました。

なので、終わったらゴスペルフラの友達を捕まえて、

「すっごく!すっごく!良かったよ〜」とハグしました。

(多分みんな引いたと思う・笑)

完全に私ひとり、変な人になっていました(^^;

しかしそれは、とても言葉では言い尽くせない素晴らしい体験でした。

与えられた自由

2016年12月25日 | 思うこと



ある時、クリスチャン生活の長い人と話していたのですが、

「わたし、先週いろいろな事があって『♪主は良いお方』って歌えないんです。」

と言われました。

その時には、そんなに親しい方ではなかったので、

事情までは聞きませんでしたが、気持ちは分かるように思いました。

いつもいつも、喜ばしい事ばかりがある訳ではなく、

生きていれば、いろいろなトラブルや病、ストレスもあるでしょう。

ですから、本心でもないのに「主は良いお方〜」と歌わなくていいと思います。




そのままの事情を神さまに素直にお話して、

「イエスさま!あんな事やこんな事があって嫌なんですよ!」

「あの人に、酷い事言われました!酷いと思いません?」

「今、とっても辛いんです。なのに誰も分かってくれないんです!」

などなど…。

好きなようにお祈りして良いと思います。

あなたが、どんなに酷い事を言う人でも、神さまはびっくりされません。

ちょっとカッコ良いかも知れないけど、ウソっぽいお祈りの方が嫌いなんです。

神さまは真理だから、私の真理(本心)と出会って下さいます。

その本心が、例えカッコ悪くて、見栄えが悪くても…。

(もちろん、人前では普通にお祈りした方がいいです)




私は人生に追い込まれていて、本当の意味で神さまに信頼した時に、

そのような本心のお祈りをしました。

その時、ふと心が楽になった気がしました。

え?全然信仰的な「良いお祈り」じゃなかったのに良いの?

と、自分が一番びっくりしました。



イエスさまは、私の本心が聞きたかったんです。

そして、そこからの解決を導きたかったんですね。

いろいろ苦情を申し立てている間に、少しずつ傷ついた心が癒されていきました。

いつの間にか、嫌いだった人の事も気にならなくなっていました。

もちろん、一瞬にではなく時間はかかりました。

そして、段々とその事柄から切り離されて自由にされていました。



私は自由です!イエスさまが自由にして下さったからです。

社会一般で言われている自由は守るものですが、

私の自由は、イエスさまから与えられた自由です。



「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。」

(ガラテヤ人への手紙 5:1 口語訳 '55)

悔い改めの祈りからのスタート

2016年12月09日 | 思うこと



「天国で価値ある生き方をしたい!」と思いましたので、

早速、とりあえずは祈りの生活を立て直しています。

でも、棚ぼた式に「無駄ではない生き方」が出来る訳ではありませんから。

しかし、まずスタートしないと始まりませんからね。

4日前から祈りのノートを適当につけて祈り始めました。

祈りの課題と、途中に聖書の言葉を入れて・・・。





で、昨夜、いつものように課題をあげてお祈りしている時に、

ある人(Aちゃん)のために祈っていたら、心にこみ上げるものがありました。

「あーー私はAちゃんを愛していなかった。

私は、自分のことばかりに生きて来て、浮かれて、

Aちゃんのことを愛して来なかった。

そればかりか、私は教会の人々を愛していなかった(T_T)」

と、神さまが私の姿を教えて下さったのです。



「言い訳なら沢山ある。でも、寝ていてもお祈りなら出来たのに…。

お祈りしていたら、愛がない事に気づいて優しく出来たのに…。

教会のみなさんのためにも、お祈り出来たのに。

もっと親切に出来たのに、気づかずに自分だけのために生きていた。」




なんて言う悲しい事でしょう。なんなんだ私って。

愛のない私の自己中の罪。神さまが悲しまれる事だらけ。

悔い改めて、祈りました。「ごめんなさい。ごめんなさい。」

Aちゃんにも、飛んで行って謝りたいくらいです・・・。

Aちゃんがビックリすると思うので今はしないけど。



しかし、こんな私の罪のためにイエスさまは死なれたのです。

イエスさまの血潮を仰いで、またゆっくりでも歩み始めます。

走ってきたことが無駄ではない生き方って、簡単じゃないですね。

自分では無理なので、神さまに頼りながら、

目標に向かってイエスさまと一緒に走りたいです。





あなたがたは知らないのか。

競技場で走る者は、みな走りはするが、

賞を得る者はひとりだけである。

あなたがたも、賞を得るように走りなさい。

しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。

彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、

わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。

そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、

空を打つような拳闘はしない。


(コリント人への第一の手紙 9:24–26)

身にあまる幸せ

2016年12月08日 | 日記
「身に余る光栄」-主を畏れること-

最近聞いたメッセージから、神さまを畏れると言う事は、「慎み深く生きる」と聞きました。そして、慎み深く生きると言うのは、今の状況を自分の努力の結果と思わず、身に余......




一年前の記事を読んで、ホントにそうだと思いました。

今でも、その気持ちは変わっていません。

私には、全く!絶対!1ミリも謙遜など無いと知らされた時から、

やっと私は、自分に平和を持つことが出来ました。

「ちょっと〇〇さん、謙遜になりなさい。」と何度叱られた事でしょう。

わかっています!わかっています!わかってても、どうしようもない。

でも、謙遜にならない私など生きていてはダメだ!



私の半生は、極端な悩みの人生でした。

後で分かったことは、不安神経症だから余計に極端だったのですが、

叱られる度に「こんな私なんて死んでしまえばいいのに」

と、ホントに思っていました。自虐的で自分を腹立たしく思いました。




でも、ある日…諦めたんです。もう無理!私は絶対に謙遜になどなれないと。

(その時には、人生全てに諦めてましたが)

すると、「謙遜とは、なるものではなくイエスさまから頂くものかも?」

と思いました。

私に代わって「義」となられた謙遜なお方は、私の「謙遜」となって下さるのかもと。

その時から、私は高ぶりと謙遜の戦いから自由になりました。

私が謙遜になったとか、全く高ぶらないとかではありません。

その土俵から下りたんです。

もし高ぶったなら、悔い改めますし、謙遜になる必要があるならイエスさまに頂きます。

もちろん、いつも謙遜である必要はありますけど。

だからいつも、どの瞬間もイエスさまが必要なんです。



なので、私は今までの人生で一番幸せです。

それはまさに身にあまる光栄なことで、ただただ感謝なんです。

毎日、恵みによって生かされ楽しく幸せなんです。

与えられた使命に生きる

2016年12月08日 | 思うこと


友達から借りたDVD「祈りのちから」を観ました。

日曜日には酷く疲れていたので何気なく、

「DVDなら観れるかもしれない」と思って。

普段、アメリカのドラマを観ているので映像のクオリティとか気にしながら(笑)

でも、どんどん引き込まれていき、見終わった時には、

「わたしも祈りたい!」と思っていました。




先日の土曜日に行った、松江市民クリスマスでは、とても感動して、

「(イエスさまにお会いする)最期の時に、価値ある生き方がしたい。」と思いました。

天国で価値ある生き方です。私に与えられた使命に生きることです。

それが何かは、少しずつ分かって来ていましたが、

この映画を観て、更に確信しました。




「そう私も、祈ります!」

と思って、家の階段を登ったところで、神さまが、

「祈りが聞かれたか?分からないような祈り方をしてはいけないよ」


と言われたような気がしました。

ですから、なるべく具体的にお祈りすることにして、

「祈りのノート」を作りました。

使ってみて今後、更に進化させていきますね。

私は熱しやすくて、冷めやすいので(多くの人もそうかもしれませんね)

継続可能な、祈りの生活をしてみたいと思います。

幸い、我が家にはその見本がいますので(笑)助かります。





このようにして、キリストの日に、

わたしは自分の走ったことがむだでなく、

労したこともむだではなかったと誇ることができる。

(ピリピ人への手紙 2:16 )