●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

もう逃げない!

2008年03月31日 | 思うこと
私の、今までの生き方はいつも「逃げ」の人生でした。

現実的な事柄にしても、病気的な事でも、私は「怖い」と思うと逃げていました。
関わらないように、そっと逃げて気付かなかった事にしました。
もちろん、悪い事にはそうやって賢く逃げるのは、良い方法だと思います。

しかし、先日来「私は逃げない!」と思うようになりました。
なぜなら、不安や恐れ(それが具体的であろうと、病気的であっても)は、イエスさまから見たら小さい事だと分かったからです。
どんな状況だろうと、どんな私であろうと「私はイエスさまに本気で愛されているのです!」
この事実さえあれば、私には怖がる物などないと、気付かされたのです。

いつも自分を見て、ダメだって恐れていました。
いつも状況を見て恐れていました。
しかし、この1年間に苦しいながらも、イエスさまは私に一番良い事をして下さいましたし、励ましのメッセージを語って下さいました。
不思議に「逃げない!」と思うと、穏やかな心が与えられて静かに過ごす事が出来ました。

ペテロもイエスさまが捕まった時に、逃げました。でも、復活のイエスさまに出会い聖霊に満たされてからは、別人のように「立ち向かう人」に変えられましたよね!

私は、そんなスゴいもんじゃないですが…また、そんなに危機的でもないですが、日々に変えられていると信じています。

イエスさまが共にいて下さるのですから…そして絶対の愛で愛して下さっているのですから、私はもう逃げる必要がなくなったのです。
はい。「逃げない」の根拠は「愛されているから」です。

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失われた羊

2008年03月27日 | 家族
不思議な事だと思います。
夕べはなぜか?とても息子のために祈りたいと思って、お祈りしていました。

普段でも息子のためには、お祈りしていますが、夕べはたまたま聖書にはさんである写真を見ていたら、特別にお祈りしたいと思いました。

そして私の心に「息子を愛しているよ!」と言う思いが溢れて来たので泣きながら祈りました。
今までも、親として愛していなかった訳じゃありません。いっぱい心配したり、叱ったり、励ましたり、誇りに思ったりしました。
でも、今思うとそれは親として与えられた、情的な愛だったのかも知れません。

夕べの祈りは、神さまから与えられた愛による、祈りだったと思うんです。
一人の失われた、さまよっている人間に対して、イエスさまが命をかけて愛して下さっている事が、ひしひしと私に伝わりました。

今週の日曜日には、彼は久しぶりに教会に来ました。でも、いつものように、そっけなくしていました。
彼は、小さい頃から教会に来ているけれど、今はお酒も結構飲むしタバコも吸うし、パチンコにも行くので、教会の人たちと自分は違うと思っているのかも知れませんね。
でも、周りのみんなはいろんな事を体験して来た人たちだから、特別に偏見を持ってはいないんです。ただ、彼の良心が自然に自分の心を閉ざしているんです。

内緒ですけど・・・息子には、今彼女がいないんです。友達もみんな知っているので、親の勘違いではありませんよ。「玉木宏」に似ていると言われ続けて、3年…。
息子は、すましてカッコつけているように見えるのですが、どこかに劣等感と要領の悪さがあります。
彼には、積極的な意味の夢もありません。
仕事は真面目にして、あとはたくさんの仲のいい友達と遊んでいるのに「楽しそう」だけど「幸せそう!」ではないんですよね。

良くも悪くも、彼の中身は本当に理解していないと、分かり難い性格だと思います。
全てを…全てを…知って、尚且つ愛して下さっている、イエスさまの真実に触れて、本当の自信を持って、使命に生かされて欲しいと、心から願っています。

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「命のメッセージ展」

2008年03月25日 | 交通事故
以前、ブログに書いた事のある友達と、3週間ほど前に会って話しをしました。

きっかけは、福岡の子供達3人が、飲酒運転の車に追突されて死亡した事故の判決が出た事から、思い出して電話してみたんです。
彼女も、私に会いたいと思っていたようでした。理由は「命のメッセージ展」が島根県で初めて、出雲市で開催される事になったそうで、身近なお手伝いをする人を探しておられたからでした。

ボランティアの方は、町などから要請してお願いできるらしいのですが、気持ちとして「きちんと趣旨を知って理解してくれる人に手伝って欲しい」と思っておられたからでした。

確かに私は、最近の彼女の事は分からないけれど、当時(事故から数ヶ月後に会い、1年くらい共に生きていました。)は、一緒に泣きながらお墓に行ったり…他の問題で叫びながら話したり、悩んだり考えたり。。。
一緒に、お花を買いに行ったり、一緒に歯医者に行ったり?…。
彼女の亡くされた娘さんへの思いと、残された家族に対する思いなどで、戦っておられた姿を見ていました。

「あの頃が一番苦しかったわぁ~」と話しておられました。
私は当時は教会に行っていなかったので、祈る事も出来ず、励ます言葉もなく、ただ一緒にいただけでした。

今回、こうして再び出会えて「違う彼女」と「違う私」で付き合っていけたらイイナー!と思っています。
でも、活動自体は素晴らしいですが、自分の体力と気力を思うとちょっと不安な面もありますから、よく祈ってみますね。

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教えられて…

2008年03月15日 | 家族
今、ブログに「あの事は、どう理解すればいいんだろう?」と思って、詳しい内容を書いていた時にフッ!と、「あれはあれでいいんだ!」と言う思いが来ました。

物事には「良いこと」「悪いこと」とは判断出来ない事が多く存在しますね。
でも、それを悩むのが人間です。時間が経っても、なかなか良かったか?悪かったか?気持ちの整理がつかない事もあります。

それをイエスさまは、善し悪しで判断されずに、「いいんだ」…「その事は全て私に任せなさい。(委ねなさい)」と言って下さったのです。

私の心は、急に軽くなりました。そして明るい気分に変えられました。
勿論、ずっと悩んでいた訳ではないですよ。時々思い出して、う~ん?どうかな?っと、立ち止まって考えてしまっていた事でした。

イエスさまを信じて、よく知るようになってから(もちろん、もっと知りたいですが)、一番幸せに思う事はコミュニケーションがあると言う事です。
祈っても、何の答えも意味も分からない???と、寂しいと思いませんか?
でも、イエスさまは不思議な方法で…または、自然な方法で、祈りの答えを与えて下さいます。

世界を造られた神さまは、隠れていらっしゃるけれど、見つけて欲しいと願っておられる、お茶目なお方ですよ。求める者に、ご自分を現して下さるんです。
イエスさまと出会って下さい(^_-)-☆
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求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、探す者は見いだし、
門をたたく者はあけてもらえるからである。
(マタイ7:7~8)

高価で尊いの意味

2008年03月11日 | 思うこと
私には「人生の目標」や「使命を感じる程にやりたい事」がないとずっと思っていました。

今まで、いろいろ試行錯誤していましたが、思い付いても体力的に無理だったり、精神的に気持ちが付いていかなかったりと、結局何も前には進んでいませんでした。

でも先日来、元気だった事を通してとても大切な事を教えられました。
元気だったから、いろいろなことを思い付いた訳ですが、結局は誰のお役にも立てずガッカリ~!
って言う気持ちでした。そして、その後でウツ状態になったことで「人の事どころではないよ~(>_<)」となった訳です。

そんな暗い場所で私が考えていたことは、前にも書いた事があるかも知れませんが「きっと意味があるはずだよね」と「こんな私でも愛されているんだ!」と言う事でした。

元気な時や、自分に石ころ程でも価値があると思える時には「愛されている」と、信じる事は出来るかも知れないですが、ウツ状態の谷間の中で信じる事は、イエスさまの助けがなければ全く!出来ないんです。
ウツ状態の自分は、普段以上に惨めな気持ちですから、「愛されてるとは思えない!」要素で満ち溢れています。

「全く!なってない!全く!役に立たない!ただ、怠けて、寝ているだけの無能者…ぴーち」
でも…。
でも…。
「あなたはわたしの目には高価で尊い」

この言葉の偉大さは、惨めな谷底でこそ、光輝くんです。
イエスさまにしか言えない言葉ですね。

それともうひとつ…。
もし、私に力があったとしても、私が出来る事はイエスさまから見たら、些細な事なんだとわかりました。
イエスさまは、私の小さな思いつきよりも、イエスさまを愛する心や、信じる心を大切にして下さっているのですね。

ですから、イエスさまから与えられた思いを大切にして、何をするにしても、しないにしても、イエスさまに信頼して行きようと思いました。

いつも一緒に…

2008年03月08日 | 家族
今こうして、イエスさまとお話していると、イエスさまがどんなに私を愛して下さっいるか?が分かる。

そして、私もイエスさまを愛している。
そんな事はないが「もし世界中の人達が私を理解してくれなくても、もし世界中の人達が私をののしっても、イエスさまにさえ理解してもらえたら私は幸せだ」と思う。

今日、会ったクリスチャンの友達が言っていた。
「目に見えない神さまに、委ねて信じるって難しいね」って。
私もその気持ちはよく分かる。

私も長い間、クリスチャンでありながらイエスさまの愛や恵みが、なかなかわからなかったから。
それでも、勿論イエスさまが神さまだって事や、聖書は信じていた。ただ、まだ現実的なお方としては知らなかったのだ。

私の場合は、落ちる所まで落ちて、全てのこの世的な楽しみや慰めでは満たされないと、とことん知らされてから、イエスさまがどんなに素晴らしいお方か?が分かって来た。イエスさまを知り、信じる事さえも恵みなのだ。

だから、友達にもその事については、多くは語らなかった。ただ、祈っている。本人が分からなければ、本当に分かったとは言えないからだ。 イエスさまがきっと、ある時彼女に教えて下さるだろうと思う。

イエスさまとの祈り=お話しは、とても幸せな時間だ。独り言ではない。なぜなら、ちゃんと答えや返事が与えられるからだ。
今すぐって日もあれば、数日後の場合もあるし、牧師先生の礼拝メッセージで語られる事もある。

どんな場合にしても、イエスさまのお声の聞こえる所に、いつも居たいと思う。
聞こえない場所があるかって?…告白していない罪の中にいる時には、声が聞こえない。そんな場所は、とても寂しい。だから、私はイエスさまといつも一緒に、そば近くを歩みたいと願っている。

フウケイ

2008年03月01日 | 思うこと
ムゾウサニ キリトラレタ フウケイガ スキ!

シゼンノナカノ デタラメナ ハイチガ スキ!

ケイサンサレタ コウズガ ニガテ!

ナンデカ コワイト オモウカラ。

デタラメニミエル チミツサガ スキ!

カミサマハ ジマンシナイカラ…。