●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

わたしの幸せと「感謝」

2017年06月29日 | 思うこと





先日、M先生のセミナーを受けて、

今、「感謝が習慣になる21日」ジョン・クゥアン著を読んでいます。

その中で、ジョン・ミラーからの引用文で、

「人がどれほど幸福であるかは、その人の感謝の深さにかかっている」とありました。

そこで、私自身がこの頃感じている幸福感に思い当たるフシがありました。




私は、長い間精神的な病の中で、

日々、やって来る「極度の意味なき不安」と「足が竦む程の恐怖」や「動悸」

などに苦しまされていました。

それは、決して誰にも頼れず、意味も分からず、ただただ苦しい日々でした。

あまりの苦しみの中で、私はどうする術もなくて、

ある日、他に出来る事は全く無いので、

苦しい時に「感謝します!」と言うようになりました。

それは苦しければ苦しいほど「感謝します!感謝します!」と言うものでした。

なので、私が「感謝します!」と言うと、娘が、

「しんどい?」と聞くくらいでした(^^;)




今思えば、それはギリギリでの神さまからの知恵だったかも知れません。

「感謝します!」と言うと、少し楽になったような気がしました。

でも、全てよくなるような即効性のある薬ではありません。

しかし、私には他に選択肢が無かったので続けていました。

今、感謝の実践の本を読むにつれ、

「それが私の幸せと繋がっていたんだ」と、そう思いました。





先日、ある集会の後でお茶を飲みながらワイワイしている時に、友達が、

「ぴーちゃん、幸せそうだね!」と言いました。

私は、即答で「うん、幸せだよ!」と答えました。

そんな時の朝にも、苦しみがなかった訳ではありません。

なのに幸福感は確かにあり、嘘ではありませんでした。

心からの言葉が出て来たのです。

それが、日々の感謝と密接に関わったいたんだ!と気づきました。





感謝は、感情でも気質でも、性格でもないそうです。

日々の積み重ね、訓練だそうです。

私は、そんな訳も知らずに実践していたのです。

イエスさまは、そんなドン底でも私を幸せに導いて下さっていたのです。

ただただ、感謝のみです(*゚∀゚*)





心の傷の癒しについて

2017年06月07日 | 思うこと





いつ頃からでしょうか?

「傷ついた」って言うのが、あまり好きではなくなったのは。

「傷ついた」のは事実で、心に傷跡もあるのですが、

私は、一生被害者として生きていくのは嫌だし、

実際、私が傷つけた人もたくさんいるので、

自分が「傷ついた」って言うのは嫌になりました。

「私は傷ついた。」と言って自己アピールしている惨めな自分の姿が見えました。





でも長い間、心が「誰か私を分かって下さい!」と叫び続けてきたので、

「傷ついた」と言って、誰かにすがりつきたい気持ちは痛い程分かります。

でもです!誰も誰も!私を理解出来る人はいないと知りました。

ただ、おひとり。イエスさまを除いては…。




誤解しないで頂きたいのですが、「心の傷が癒される」ことはとても大切な事です。

傷がなかったことにする必要もありません。むしろ告白すべきです。

その傷は身体の傷同様に、放置しておけば膿をもち、どんどん大きくなるかもしれません。

人生のどこかで、その傷に向き合い、膿を出し尽くして癒される必要があります。

でないと、自分もずっと痛みを抱えて苦しむことになりますし、

またちょっとでも、その傷に触れた人がいると、攻撃してしまうかも知れないからです。






しかしです。その傷の膿を出す場所が大切です。

結局のところ、私を真に(心の深みまで)理解出来るのは神さましかいないのです。

それも、深い傷を受けた経験のあるイエスさましか。

人に尽くしながらも、人にあっさり裏切られたイエスさま。

理不尽な裁判で、ムチ打たれ十字架に張り付けられたイエスさま。

そのお方が、私の小さな傷や悩みを理解して下さり、癒して下さったのです。




その過程では、多くの人の助けを頂きました。

同じ病気の人たちとの出会いや、教会の先生や友達、家族。

戦いながら、いろいろな気持ちを吐露する内に、

私の問題の根本的解決は、十字架の元にあると知りました。

血が流されなければならなかったのです。

私には、十字架の血潮が必要でした。ドクドクと流れるイエスさまの血。

私には、イエスさまの十字架の死が必要でした。

私の代わりに、父なる神に完全に見捨てられたイエスさま。

そして葬り、希望の復活が今の私を生かしています。





今、イエスさまが生きておられることが、私が生きて行く力です。

もし、イエスさまの命が私から流れ出て、周りの人たちを生かすなら、

それが私にとって一番の幸せです。

イエスさまの愛や、恵み、慈しみ、許し…それらが私から流れたら…。

私は、今そっとイエスさまに信頼します。