●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

悔い改めの祈り

2017年02月09日 | こころの健康



こんにちは〜^_^

雨です!

雪でなくて良かったー




朝から元気に仕入れに向かって走ってた時に、

私が知り合いのある人に対して、優しくないって気づきました。

「あーもっと優しく話した方がいいのにな〜」と思って、

車の中で、お祈りしました。

「〇〇さんに対して、優しくなかった事をごめんなさい。」

ところがお祈りしても、なぜか?スッキリしません。なぜだろう?

何回かお祈りしたら、ハタと違うことに気づきました。



そうだ!ずっ〜と前のことだけど私は、〇〇さんを許してなかったと。

もちろん、憎んでいた訳じゃないし、仲が悪い訳でもないです。

尊敬もしているし、良いところも十分理解しています。

なるほどー心から許してないから、ちょっとした時に優しく出来ないんだな。

と気づいたので、今度は「許します」ってお祈りしました。




神さまと共に歩むと、時にこんなことを教えられる事がありますね。

自分には痛いことですが、少しでも成長したいなら避けられません。

私がその方のことを、いきなり熱く愛したり出来ないですけど、

今度会った時には、神さまの愛が注がれると信じて歩みます。

毎日、イエスさまの十字架の愛が必要です。

この許しの恵みがあるからこそ、私は生きていけます。





過去との対峙

2017年01月23日 | こころの健康





さっき、アメリカのドラマを観て思った事を書いておきます。

ある帰還兵がPTSDを患っていて、一向に良くならないのです。

自分が狙われていると思い込んでいるので、攻撃しようとするのです。

脳波やカウンセリングでも、余計に不安定になるので、

主人公は、その元兵士が戦場であった出来事を、何か隠していると思い、

戦場をCGで再現して、探ろうとしていました。



ですが帰還兵は、ウソをついている訳ではなく、記憶に蓋をしていたんです。

思い出している内に、とても辛くなって何度も投げ出そうとしますが、

それでは、患者として病院に隔離されるだけなので、

主人公は、なるべく彼の真相を知ろうと戦友に聞くなどして努力します。

すると、隠されてた真実に蓋がしてあると分かり、勇気を持って開けてみると、

彼が思っていた事とは違う事実が判明したんです。

上官が、彼の弱さに乗じて嘘を信じ込ませていたのでした。

そしてドラマの中では、彼の病気は良くなるのですが…。




私たちは他者から悪意を持って、あるいは悪意はなくても、

事実を曲げられて、信じ込まされることがあります。

そこに傷があると、見たくないので癒されないまま蓋をしてしまいます。

ところが、蓋の下では傷から血が流れていて傷口が膿み、

どんどん表面にも、その弊害が現れて来ることがあります。(ドラマ程酷くなくても)




そんな時に、しばらくは見ないようにしてそっとして置く場合もありますが、

勇気を持って対峙して、真実を正面から見ることによって、

傷が癒される事もあるようです。

その「時」と、「方法」は人によって違うので一概には言えませんが、

時として、神さまが摂理の中で過去を思い出すきっかけを下さるようです。

「忘れてたけど、あの時とても辛かった!」とか。

「そう言えばあの時、こんな嫌な事があった!」

「今だから言えるけど、意味が分からなくて誤解され悔しかった!」とか。

「あの時は、自分が悪いと言われたから、そう信じたけど、

今思えば、どう考えてもその件は私は悪くなかった!」とかです。




私たちが意図した訳ではないのに、過去と向き合うチャンスが与えられるのは、

本当の意味で「自由」を体験するようにとの、神さまの御配慮だと思います。



「また真理を知るであろう。

そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

(ヨハネによる福音書 8:32 口語訳 '55)




走ろうと…。

2017年01月11日 | こころの健康


信仰の導き手であり、

またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、

走ろうではないか。

(ヘブル人への手紙 12:2)




ある集会に参加する途中、クルマの中で心に届いた御言葉…。

実際は、新改訳聖書の「信仰の創始者であり…」でしたが。

始めて下さった方が、完成して下さるんですね。




日々の生活の中にいると、心が揺らぐ出来事もあります。

心地良くない、嫌な事だって起きます。

それを予感してた訳ではありませんでしたが、

上の御言葉が与えられたので、どんな時にもイエスさまを見上げ、

しっかりと走ろう!と思いました。




ところが、実際には走った矢先にコケた!と言うオチが…(^^;

それでも、また起こして頂き、走り出したいのです。

みんなのように、スピードを出して走れなくてもいい。

カッコ良く走れなくてもいい。

自分の歩幅で、自分に与えられた体力と信仰で。




信仰の歩みをスタートさせて下さったお方が、完走させて下さると信じて。

完走を目指して、今日も走ります!

今日は、ちょっとゆっくりだけど(^^;)

しあわせ

2017年01月03日 | こころの健康



おはようございます。

珍しく連投しています。早速飛ばしてますね〜(笑)

今朝は、不思議な感じで目覚め起きました。

起きたら、4時半〜

フワッとした気持ちで目覚め、「お祈りしたいなぁ〜」と思いました。

これは異例の事です(笑)

なぜなら、普段はいくら祈りの生活を確立して来たとは言え、

「お祈りしなきゃ!」って思って祈り始めるので…。

もちろん、お祈りしている内に段々平安で満たされるのですが。




それで、すぐにお祈りし始めました。

娘のお義母さんも、最近から早朝祈り会に毎朝教会に行かれてるそうなので、

お義母さんのためにもお祈りしました。

イエスさまが、祈りの場に招いて下さっているように思いました。

しあわせな気持ちの中で、イエスさまにいろいろな事を祈り願いました。




私には、何もないけれど私からイエスさまの香りが流れると良いなぁ〜

イエスさまが、いろんなところに現れて下さると良いなぁ〜

などと思っていたら、次の聖書の言葉が浮かびました。




「生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」

(ガラテヤ人への手紙 2:20 口語訳 '55)




もはやわたしが生きているのではない!と言える人生。

神さまの素晴らしさを分かち合う毎日って素敵じゃない!?

そんな日々を、この年は歩んで生きたいなぁ〜





私は、これから幸せになるのではなく、この祈りの歩みが既に幸せなんです。

この瞬間も幸せですし、この力強いお方が一緒にいて下されば、

この後も幸せです!と言えるはず!




ある本に「キリストがわたしの人生」と書いてあったのですが、

まさに、この歩みのひとつひとつがわたしの人生を作っています。

し・あ・わ・せー(*´∀`*)

あけましておめでとうございます。

2017年01月02日 | こころの健康

「由志園」にて…。






「このようにして、キリストの日に、

わたしは自分の走ったことがむだでなく、

労したこともむだではなかったと誇ることができる。」

(ピリピ人への手紙 2:16 口語訳 '55)




あけましておめでとうございます(*´∀`*)

今年もスタートしましたね。

何となく生きていると、何となく終わりそうなので、

ちゃんと目標を立て、御言葉を握りしめて歩みたいと思います。

やはり、御言葉は年末から温めていたピリピですね。

最期の時に価値ある生き方がしたいと望んでいます。

何か新しいことを始めるのではなく、今始まっていることの

延長線上にある祝福を、逃したくないと言う気持ちです。




私の私生活でも、いろんな喜ばしい変化は起きていますが、

信仰生活でも、何かが動き出している気配がします。

新しく出会った、たくさんの友達…。

そして、祈りの生活の確立。

今朝見た初夢も、何か意味あり気な感じでした。



私と友達が、他の2人の友達と4人で遊んでいました。

体は、大人なんですが気持ちは子供みたいにゲームをしていました。

そして、2人の友達のことを気遣いながら遊んでいました。



今のところ私に与えられていることは、「祈り」と「交わり」です。

どんな事を神さまがして下さり、素晴らしい事を見せて下さるのか?

とても期待しています。



そしてもう一つの御言葉は…

「わたしは思う。

今のこの時の苦しみは、

やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、

言うに足りない。

(ローマ人への手紙 8:18 口語訳 '55)



私は今、苦しみに合っている訳ではないのですが、

ずっと、何がしかの苦しみの中を生きていたので、

これもまた、後に来る祝福がどんなに素晴らしい栄光か?

期待でいっぱいになり、今を生きる生き甲斐となります。

イエスさまを信じる道は、エキサイティングでワクワクしますね。




それも、数知れない「普通の毎日」の積み重ねではあります。

この普通の毎日を天を見上げて、歩みたいと思っています。

一歩一歩…恵みによって生きる

2016年09月27日 | こころの健康





昨日は疲れで目覚め、今日は軽い「鬱」で目覚めました。

でも、先日のセミナーを無駄には出来ません。

って言うか?「絶対に無駄にしたくない」と心に願いました。

ですから、私の疲れや鬱の苦しみは事実なのですが、

それを越えたところにある神さまの恵みによって、立ち上がりたいと思うんです。




そして、歩み始めたところで別の御言葉が心に浮かんで来ました。

わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

(ピリピ人への手紙 4:13 口語訳)



私を強くして下さる方!

私を強くして下さる方!

私の力ではなく、その方の力によって何でも出来る!

そのお方に信頼して、一歩一歩を前に踏み出したいと思います。



一歩踏み出せば、次の一歩が踏み出せます。

そして、また次の一歩…。

それはまるで亀のような、ゆるい歩みではありますが、

一歩が出ているからには、前に進む訳で、前に進むからには、

きっと更なる祝福に与れるんですよね。

成長していく…。

生きている限り、成長して行きたいです。

そして、いつか天に帰った時には、

「少ししか力がなかったのに、よくやったね!」

と、神さまに言われたいですから。

「いえいえ全てあなたの力で、恵みでした。」と私は言います。

無条件の愛に触れて

2015年11月17日 | こころの健康
自分自身との和解

この頃、「自己嫌悪に陥らないな~」と、ふと気づきました。私は、極度に自意識過剰な所があり、生きて行くのが、辛くて苦しかったです。誰か他人の声にも、とても敏感でした...



そうそう、「自分と和解」したんですね~

小さい頃から、何が悩みか?って言うと、

自分自身が一番厄介でした(^_^;)



ある日の診察の時に、いろいろ話した後で、

「私・・・自分が嫌いなんです!」と言うと、主治医が、

「それが病気(ウツ)の根源だからね。。。」と。



そうかぁ~原因は分かっても、それを治す方法はないんだな。

と思った事を覚えています。

でも、今こうしてリラックスして生きれるようになってみて、

イエスさまが和解を与えて下さったと分かります。




『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。』

ガラテヤ5:1



この御言葉は、以前は私の苦しみでした。

なぜなら、イエスさまを信じていながら、とっても不自由だったからです。

イエスさまを信じた後も、本当の意味での十字架の愛を知らなかったからです。

理屈では分かっていました。十字架で死ぬほど愛して下さっていると。

でもね、でも自分を見るとダメで許せない・・・(-_-メ)

自由が欲しいのに、考えれば考える程、不自由になって行きました。




ある時ダメな自分のままで、ふと窓の外を眺めた時、

「愛されてる気がする~」と思いました。

「えっ???何で?なぜ、こんな状態の私が愛されているんだろう。」

と不思議でした。

あ~~~イエスさまの愛は、どんなダメな私でも受け入れて下さる本当の愛なんだな~

それが、始めて本当の愛、無条件の愛に触れた始まりでした。




あれから何年も経っていますが、少しづつ少しづつ愛を体験して、

今も、状態はそんなに変わらないのですが、

「幸せだなぁ~」と思う事が多くなりました。

自分に苛立たなくなりました。



あ~~~幸せだなぁ~(*^-^*)♪

打ち身の傷(こころの痛み)

2015年03月02日 | こころの健康
先日、ポッドキャストである牧師先生のメッセージを聞いていたら、

「人には、気付かないで受けた傷から、

後で打ち身のような痛みを受ける事があります。」

と、おっしゃっていました。

そうそう!!!まさにそうだっ!と思いました。

目に見える血が出ている傷や、病いのためにはお祈りしますが、

隠れた所にある、打ち身の傷のためにはお祈りしません。

しかし、その傷を放って置くとズキズキと痛み出す事も。。。

更には、化膿して酷くなる事も。。。



先日の、「盗難事件」は正に後から後から痛む傷でした。

ショックが大きかったので、一瞬どうお祈りして良いのか分かりませんでした。

それから、「草刈り機が帰って来るように」とお祈りしましたが、

何とも確信がありません(^_^;)

その事を考えるだけで、思うだけで、心の見えない傷がズキズキします。

犯人から傷を受けたんです(-_-メ)

憎しみを抱いている訳ではありません。

でも大切な物を盗まれた私たちは、心まで傷つけられてしまったのです。

そのせいで、夫は毎日気付かずに、溜息を何度もついています。

そう、今朝も・・・今も・・・。



この見えない心の傷は、イエスさまの十字架の打ち傷によって、癒されなければ治りません。

頑張って忘れようと思っても、心の奥の事は自分で何とか出来るものではないからです。

この事件の事は、いずれ笑い話になるかも知れませんが、受けた傷は残ります。

ですから、今回の事は「神さまからの癒しが必要」なのです。



まして、小さい頃から受けた数知れない心の痛みは、癒される必要があります。

それが、現在の私の中に陽炎のように写しだされているかも知れません。

癒され、切り離されると自由になって、新しい自分として歩み出せると思います。

これには、過去に戻る事の出来るお方・・・イエスさまの十字架の恵みが必要ですね。


聖書(イザヤ53:5)

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲しめをうけて、

われわれに平安を与え、

その打たれた傷によって、

われわれはいやされたのだ

見捨てられ不安

2014年07月24日 | こころの健康
私の好きな聖書の言葉は???

と聞かれたら一番に答えるのは、



(ヘブル13:5)

主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」

と言われた。


ですね。

私の病気の根元となっているモノに「見捨てられ不安」があります。

理由のない不安や恐れに苦しんできました。

おそらく、その最初の出来事は母との関係にあったと思われます。

私が1、2歳頃、農繁期に私をみてくれる人がいなかったため、

母は仕方なく、私を柱に縛って座らせておいたようです。

当時は仕方なく、また他の農家でもあったようですから、

祖父母の居ない家では仕方がなかったんです。

でも、ずっと泣いていて母が帰って来た時には、

障子の穴から、ずっと見ていたそうです。

ここで最初の恐怖を味わったみたいですね。



その後、4歳頃に母が急病で入院しました。

容態が悪かったので、手術と療養で長期入院しました。

私はその間、親戚を転々としました。

妹は小さかったため、祖父母が面倒をみてくれましたが、

私は、当時とても怖かった従兄弟家族と一緒に暮らしました。

今でも、その寂しさと恐怖は覚えています。

その後、母は退院しましたが、私が幼稚園の頃、また再入院しました。

これは誤診でしたが、半年間入院していました。

この時の事は、ハッキリと覚えています。

幼稚園から帰ると母がいませんでした。

知らないおばさん(母の知り合い)に連れられて、病院へ行きました。



私はとても繊細な性格で、甘えん坊だったので、

母に見捨てられるんじゃないかと不安でした。

不安を通り越して恐怖だった事を覚えています。



今は大人になって、母は仕方がなかった事もよく分かりますし、

誰のせいでもない事もよく分かっていますが、

私の奥底にある「見捨てられ不安」は深い根を下ろしたようです。

その後も、いろんな場面で「人に見捨てられるんじゃないか?」

と言う恐れが来ると、ビックリする程過剰反応します。

そう大したことでなくても、後頭部が痺れて愕然としてしまいます。



時々ある不調な時には、何もないのに「捨てられる~」と思ってしまうんです。

そこで、先ほどの聖書の言葉が、とても力になるのです。

「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」

神さまご自身は、絶対に裏切らないお方なのに、

その確かなお方が、「決して」と言って下さっているんです。

これ以上の安心はありません。

数日前に具合が悪くなった時には、この言葉と、

いくつか他の言葉を口ずさんでいました。

イエスさまは、空手形は出されません。

言われた言葉は、絶対に守って下さいます。





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古いパン種を除きなさい。

2014年05月30日 | こころの健康
新しい粉のかたまりになるために、

古いパン種を取り除きなさい。

(1コリント5:7)



夕べ聖書を読んでいる時に、神さまから教えられた箇所です。

「古いパン種を除きなさい」

は、普通は古い罪の性質の事を言っていると思いますが、

今の私の場合は、古い考え方を捨てなさいと受け取りました。

「古い考え方」と言うのは、私の心の奥深くに巣食っている

否定的で惨めな考え方です。

小さい頃から、悪い事が起きるのではないかと、

いつもビクビクしていたからです。

酒癖の悪い父と、気の強い母との壮絶な争いに怯えていました。

大人になってからも、いろんな事があって、

物事を明るく捉える事が出来なくなっていました。

そこには、もちろん誰のせいでもなく、自分の責任も沢山あります。

そんな周りと自分自身から、痛めつけられて出来た「古い考え」。

それを除くように、イエスさまが教えて下さいました。



では、具体的にはどうすれば良いの?って問うと、

一つの考えが浮かびました。

リラックスして気持ちの良い、肯定的な言葉を告白する事。

その前に、もちろん聖書の箇所の告白もしています。

詩篇91篇は、今週から毎朝告白しています。

それから、肯定的な告白をします。

例えば。。。

「とても気持ちが良い!」とか

「私は神さまに心から愛されている」

「良いことがたくさん起きる」

「神さまが私を楽しませてくれる」

などなど…思いつくままに書いて告白しました。



古い罪の性質は、固執していてこれを喜びませんが、

新しい命に生きるために捨て去りたいと思います。




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