●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

「ちゃんとしなきゃ!」の束縛

2018年11月27日 | 日記
いつ頃からか?

「ちゃんとしなくちゃ!」と思い続けるようになりました。

思春期になってから「ちゃんとしてない自分」に目覚めましたが、

そこまで自分を責めていた訳ではありませんでした。




クリスチャンとなり、最初勤めた会社でも、楽しく仕事してましたので、

きちんと仕事してないとは思っていませんでした。




多分、二十歳過ぎて地元に帰った頃からだと思います。

いつも「ちゃんとしなくちゃ!」と言う強迫観念がまとわりついて来たのは。

元々持っていた「劣等感」に拍車をかけるような環境の中で、

「自分は特別に悪い人間だ!」「常識も分からないダメな人間だ!」

だから、みんなのように「ちゃんとしなきゃ!」と思い初めました。




ところが、そう思えば思うほど、空回りしたり失敗したり、

叱られたりで散々でした。

その間に、自分のイライラを周りの人にぶつけたりもしていました。

その間に結婚もして子育てもしていましたが、

「ちゃんとしてない自分」がいつも私を苦しめました。

もう、どうしたらマトモな人間になれるのか分からないので、

更に混乱して、ひたすら苦しむ日々でした。

数十年、この事で苦しんだと告白します。不安神経症にもなりました。

まるで、出口のないトンネルに迷い込んだかのようでした。




ところが、最近ふとその

「ちゃんとしなくちゃ!」をほとんど感じなくなったと気付きました。

漠然とした思い出はありますが、もう追いかけて来ないと感じるんです。



今がちゃんとしたからではありません。

「ちゃんとしておられる」イエスさまに信頼しているからです。

私は、自分の中に「確かさ」を求めていましたが、そこにはなく、

私の内側におられるイエスさまの確かさで生きることを知りました。



私には、究極のちゃんとしたイエスさまがおられるので、

びくびくしなくても生きて行けるようになりました。

全てイエスさまの恵み!

神さまを愛していると知ること

2018年11月12日 | 日記


先日から、神さまを愛することについて考えています。

私たちクリスチャンは、神さまに愛されている事は知っています。

十字架の愛、恵み、祝福などたくさん頂いて、感謝もしています。

だからといって、自動的に神さまを深く愛するようになるとは限りません。

もちろん、そんなイエスさまは好きです。

大好きだと言って賛美もします。奉仕もします。捧げることもするでしょう。

でも、心から愛することとは、もう少し違うような気がします。




たとえば誰でも中学生ぐらいの頃には、好きな人が出来るでしょう。

私は大人になるまでは、いつも片思いでしたが、

人を好きになる事だけでも、もうかなり幸せを感じたものです。

その人の行動を目で追いかけ、少し見られただけで嬉しくなり、

用事があって名前を呼ばれただけなのに、喜びがはち切れそうでした(笑)




そこで思うのですが、人は愛されるだけでは充分な満足はなく、

「愛する」時、「愛し合う時」に、本当の満足感を覚えるものだと思うのです。

イエスさまが私のために死んで下さった事は有難いし、

罪の赦しは嬉しいし、心から感謝してはいるとしても、

まだ心底から愛する気持ちになれない事もあると思います(実感として)。



ちょっと的外れな例えかも知れませんが、

先ほどの中学生の女の子がある日いきなり、

見たこともない、とても素敵な男子に熱烈な告白された時のようです。

頭も良いし、運動も出来るし、とても優しそうで素敵な人だけど、

まだ、その人の事をほとんど知らず、好みの人かどうかもよくわかりません。




そんな風に、神さまは私たちを熱烈に愛して下さるのですが、

私たちには、まだ心の準備が整っていないかも知れません。

人によっては、あまりの愛に感動して、すぐに愛するようになるでしょう。

しかし、気持ちがゆっくりついて行くタイプの人もいます。

毎週礼拝して、大声で賛美して、お祈りしていても、

まだ、深く神さまを愛しているとは限りません。

しかし、そんな私をイエスさまは急かしたりはなさらず、

ゆっくり愛の起きる時を待っていて下さいます。

そして、私の中にある神への愛を見つけて出して下さるのです。

そうです。私が知らなくても神さまの方が、

私の心の奥にある、「神への愛」に気づいて下さるんです。

クリスチャンは、必ず心に神への愛を持っています。

(信じていない場合には、クリスチャンとは呼べないから)

でも、未熟だったり、傷ついた所や恐れがあって、

それに気がつかないこともあるのです。



ですから、復活されたイエスさまがぺテロに尋ねられたように、

「あなたは私を愛するか?」と聞いて、その心に気づかせて下さいます。

クリスチャンは皆、イエスさまを愛しています。

この時点でやっと愛し合う関係が始まります。

神さまは焦ってはおられません。

愛の自ずから起きるまで待っておられるんです。(雅歌参照)

その時から愛されるだけのクリスチャンから、

神さまと、愛し合うクリスチャンの喜びが始まるんだと思います。





「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。

ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。

(ヨハネによる福音書 21:15抜粋)