●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

神さまを愛していると知ること

2018年11月12日 | 日記


先日から、神さまを愛することについて考えています。

私たちクリスチャンは、神さまに愛されている事は知っています。

十字架の愛、恵み、祝福などたくさん頂いて、感謝もしています。

だからといって、自動的に神さまを深く愛するようになるとは限りません。

もちろん、そんなイエスさまは好きです。

大好きだと言って賛美もします。奉仕もします。捧げることもするでしょう。

でも、心から愛することとは、もう少し違うような気がします。




たとえば誰でも中学生ぐらいの頃には、好きな人が出来るでしょう。

私は大人になるまでは、いつも片思いでしたが、

人を好きになる事だけでも、もうかなり幸せを感じたものです。

その人の行動を目で追いかけ、少し見られただけで嬉しくなり、

用事があって名前を呼ばれただけなのに、喜びがはち切れそうでした(笑)




そこで思うのですが、人は愛されるだけでは充分な満足はなく、

「愛する」時、「愛し合う時」に、本当の満足感を覚えるものだと思うのです。

イエスさまが私のために死んで下さった事は有難いし、

罪の赦しは嬉しいし、心から感謝してはいるとしても、

まだ心底から愛する気持ちになれない事もあると思います(実感として)。



ちょっと的外れな例えかも知れませんが、

先ほどの中学生の女の子がある日いきなり、

見たこともない、とても素敵な男子に熱烈な告白された時のようです。

頭も良いし、運動も出来るし、とても優しそうで素敵な人だけど、

まだ、その人の事をほとんど知らず、好みの人かどうかもよくわかりません。




そんな風に、神さまは私たちを熱烈に愛して下さるのですが、

私たちには、まだ心の準備が整っていないかも知れません。

人によっては、あまりの愛に感動して、すぐに愛するようになるでしょう。

しかし、気持ちがゆっくりついて行くタイプの人もいます。

毎週礼拝して、大声で賛美して、お祈りしていても、

まだ、深く神さまを愛しているとは限りません。

しかし、そんな私をイエスさまは急かしたりはなさらず、

ゆっくり愛の起きる時を待っていて下さいます。

そして、私の中にある神への愛を見つけて出して下さるのです。

そうです。私が知らなくても神さまの方が、

私の心の奥にある、「神への愛」に気づいて下さるんです。

クリスチャンは、必ず心に神への愛を持っています。

(信じていない場合には、クリスチャンとは呼べないから)

でも、未熟だったり、傷ついた所や恐れがあって、

それに気がつかないこともあるのです。



ですから、復活されたイエスさまがぺテロに尋ねられたように、

「あなたは私を愛するか?」と聞いて、その心に気づかせて下さいます。

クリスチャンは皆、イエスさまを愛しています。

この時点でやっと愛し合う関係が始まります。

神さまは焦ってはおられません。

愛の自ずから起きるまで待っておられるんです。(雅歌参照)

その時から愛されるだけのクリスチャンから、

神さまと、愛し合うクリスチャンの喜びが始まるんだと思います。





「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。

ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。

(ヨハネによる福音書 21:15抜粋)




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