●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

神さまの手作りの「和解」

2017年03月25日 | 思うこと


神さまに従っているなら、必ずどこかで誰かと「和解」する必要を感じると思います。

誰かとだったり、自分とだったり、過去の出来事とだったりします。

しかし、その時に真面目なクリスチャンであればあるほど、

「和解しなくちゃ!」モードになると思います。

あの出来事では、あの人を傷つけたし自分も傷ついたし、

これを放って置いてはいけないと、迫られてしまいます。

でも、放って置いてもいい期間があります。

(誤解を与える言葉かもしれませんが)

自分が、本心から(心の奥底から)傷が癒されている訳ではないのに、

「和解」を優先させようとすると、かえって相手を更に傷つけることにもなりかねません。

敢えて相手に何も言わない…と言う和解もあります。

(いつの日か?その時が来るかもしれません)

「和解」自体が、神さまからのプレゼントであり、恵みだからです。




ヤコブがお兄さんエサウと和解しようとした時が、正にそうです。

自分の力と策略で、和解を押し進めようとして、多くの贈り物を先に持って行き、

部隊を分けて、自分は最後に行こうと考えました。

しかし、これはヤコブの考えた「和解」でした。

神さまの方法は、全く違いました。

ヤコブと戦い、足の付け根を打ち、弱くして自我(ここでは自分の方法)を、

打ち砕き、全面的に神さまに頼るしかないように導かれました。

そう!神さまにだけしか頼れない!

この状況こそが、神さまの手作りの和解の始まりです。

そして、足を引きずりながらエサウに会いに行きました。

もう、自分を守るものは何もありません。

裸です!(まな板の鯉のような感じ)



すると、エサウの方から駆け寄って来て抱き合うことが出来ました。

これこそ、神さまの方法です!

神さまの手作りの「和解」なんです。

この兄弟が抱き合う姿は、とても美しい情景です。

神さまがセッティングされたからです。

神さまの方法は、卒がなく流れるように美しい!

そして、この和解は神さまの栄光になりました。

「なんて神さまって素晴らしい!」と思いますね。



ですから、私たちが自分の方法や計画で和解を作り上げる必要はありません。

神さまに信頼して、その一番いい時を待ち、へりくだって委ねる。

もちろん、その待つ信仰やへりくだりも神さまが下さいます。

人間の汚れた手で、神さまの和解の御業を汚してはならないのです。

侵してはならない領域が、この和解の御業でもあります。



それだけに「和解」の恵みを頂くことが出来た時には、私たちは更に自由になり、

幸せな歩みが出来ると思います。

覆うように愛しなさい!

2017年03月13日 | 思うこと





(伝道者の書7:16)

あなたは義に過ぎてはならない。





先日、あるクリスチャンの友達が、

ノンクリスチャンのAさんについて言いました。

「Aさんは、因習の深い地域に住んでおられるからイエスさまを信じるのは難しいと思ったけど、

はっきりモノを言う人みたいだから大丈夫かもしれない。」と。

私は、その言葉を聞いて「義憤」を持ちました。

いやいや、因習の深いところに住んでいる人でも、神さまは救うことが出来るよ!

それどころか、イスラムからでも仏教のお寺の息子さんでも、ヤクザでも、

神さまは救うことが出来るんだから!

それに、はっきりモノを言う人が救われる訳ではなく、言えない人でも救われるよ!

イエスさまを信じれば良いんだから。。。




と、なぜ私が敏感に反応したかと言うと、以前にも同じような言葉を聞いたからです。


数年前にBさんが洗礼を受けられたのですが、その後しばらくして教会に来られなくなりました。

そのBさんについて、彼女は言ったんです。

「Bさんは、最初から教会には好意的じゃなかったからダメだと思っていたよ。」と。

いやいや、私たちの大先輩であるパウロは、教会が大嫌いで迫害してたじゃん!

あなたは「神」ですか!!!

と、凄い腹が立ちました。



とは言っても、彼女は悪い人ではなく、どちらかと言うと良い人なので、

私も、いくら腹が立っても、「義憤」だと思っても怒った訳ではありません。

「あの人は、救われるとか救われないとかは、言わない方がいいよ。」と言っただけです。




人間的に良い人でも、心のうちに「自分が神」になる性質(罪の性質)を持っているんですね。

私は、「我」が強くて、自分勝手なタイプだったので、その性質は分かりやすかったのですが、

人間的に優しい人や穏やかな人は、それに気づきにくいかもしれません。




次の日の朝。

お祈りしようと座った時、神さまが私にちょっと教えられたっぽい。

「たとえ、あなたが正しくても、『義』をもって人に接してはいけないよ。

ただ覆うように愛しなさい」・・・と。




その友達の言葉には同意しないけど、覆うように祈り、愛そうと決心しました。