●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

いざと言う時

2015年03月30日 | 思うこと
突然、何か予期せぬ大きな出来事があった時に、

その人が、誰を?何を信じてどう生きて来たか?が分かるんだな。

何もない平凡な日々を如何に生きたか?が、

大きな事が起きた時に現れるんですね。



知り合いのゴスペルシンガーFさんが、突然事故に遭われました。

駐車場で、荷物を下ろしておられた時に、

アクセルとブレーキを踏み間違えた車が突っ込んだんです。



一時は、命の危険もあり、下半身不随の恐れもあり、

今は、感染症にならないように戦っておられるのに、

彼のFacebookには、恨み言の一つもないどころか、

神さまの愛と人々の愛に感謝しておられます。

普段の生活から、突然足の動かない絶望的と思える状況になったのに、

Facebookから流れるひと言ひと言は、希望に満ちているのです。

世界中から多くの人が祈っています。

まだ、足は癒されていませんが、その心が既に輝いていて奇跡そのもの。

奇跡の神さまが、いずれ立ち上がらせて下さると信じています。

再びコンサートで、歌声を聴ける日を楽しみにしています。



そして、この凄まじい悪夢のような出来事の背後に、

どんな素晴らしい神さまの御計画があるか?を、

Fさんと共に私たち祈る者みんなが見るのです。

もう、奇跡は始まっています。



それにしても、何と多くの人々が祈りの応援をしている事でしょう。

もちろん、それは神さまの恵みであり、祝福なのだけど、

ただ、それだけではなくFさんが今まで、

如何に多くの愛を与えて来られたか?の現れでもあると思います。

誰にも知れず、コツコツと与えて来られたものが、

こんな時に、何倍かになって帰って来たとも思います。



と言う事は、日々の小さな歩みが如何に大切か知らされますね。

私が、大怪我をしたとしたら、果たして何人の方が祈って下さるでしょうか。

とっても、心もとないです。

でも、イエスさまが私のために祈って下さっています。

そこに希望があります。

「アバ父よ」と言う祈り

2015年03月17日 | 思うこと
昨日は、母を病院に迎えに行ったので、あちこちお出かけしました。

そして、帰ってから母のためにお祈りしました。

母も、お祈りしてもらうのが嬉しいらしくて、

一緒に「アーメン!」と言ってました。

それから父のためにお祈りしようと思ったら、

グッスリお昼寝していたので、部屋の前でお祈りしました。

今は、ニコニコしている父ですが、

私が小さい頃には、アル中一歩手前だったので、

いつ怒り出すか?不安で恐ろしい思いをしました。

父が暴れると、もう手がつけられませんでしたから、

私は小学生の時には、隣家に逃げ込みました^_^;

と言う、怖い父のイメージでしたので、

教会で「父なる神さま」と言われても、ピンと来ませんでした。

と言うか?父とは、厄介で怖くてなだめる人と言うイメージです。



あれから、数十年経ち今はもう随分癒されて来たらしく、

昨夜は、心の底から「アバ父よ」と言う祈りが出て来ました。

「お父ちゃん、お父ちゃん、お父ちゃん」

世界一良いお方、イエスさま!!!

アバ父よ、と祈る時に神さまに対する思いが溢れます。

我が子よ、と言って下さる神さまに祈ることができる恵み…。

感謝です( ´ ▽ ` )ノ

主は我が牧者

2015年03月11日 | 日記
今朝、一番で思い出した賛美・・・。

とっても古い賛美ですが「主は我が牧者」

♪主は我が牧者、乏しき事なし、緑の野に伏す我ら~♪

辛い日もあります(T_T)毎日「ハレルヤ」とは行かない時も。

でも、イエスさまが私の牧者なんですよね。

どんな時にも最悪の日にも。。。

だって、

「23:4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、

わざわいを恐れません。」ですから。。。



(詩篇第23篇)

ダビデの歌

23:1主はわたしの牧者であって、

わたしには乏しいことがない。

23:2主はわたしを緑の牧場に伏させ、

いこいのみぎわに伴われる。

23:3主はわたしの魂をいきかえらせ、

み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

23:4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、

わざわいを恐れません。

あなたがわたしと共におられるからです。

あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

23:5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、

わたしのこうべに油をそそがれる。

わたしの杯はあふれます。

23:6わたしの生きているかぎりは

必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。

わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

打ち身の傷(こころの痛み)

2015年03月02日 | こころの健康
先日、ポッドキャストである牧師先生のメッセージを聞いていたら、

「人には、気付かないで受けた傷から、

後で打ち身のような痛みを受ける事があります。」

と、おっしゃっていました。

そうそう!!!まさにそうだっ!と思いました。

目に見える血が出ている傷や、病いのためにはお祈りしますが、

隠れた所にある、打ち身の傷のためにはお祈りしません。

しかし、その傷を放って置くとズキズキと痛み出す事も。。。

更には、化膿して酷くなる事も。。。



先日の、「盗難事件」は正に後から後から痛む傷でした。

ショックが大きかったので、一瞬どうお祈りして良いのか分かりませんでした。

それから、「草刈り機が帰って来るように」とお祈りしましたが、

何とも確信がありません(^_^;)

その事を考えるだけで、思うだけで、心の見えない傷がズキズキします。

犯人から傷を受けたんです(-_-メ)

憎しみを抱いている訳ではありません。

でも大切な物を盗まれた私たちは、心まで傷つけられてしまったのです。

そのせいで、夫は毎日気付かずに、溜息を何度もついています。

そう、今朝も・・・今も・・・。



この見えない心の傷は、イエスさまの十字架の打ち傷によって、癒されなければ治りません。

頑張って忘れようと思っても、心の奥の事は自分で何とか出来るものではないからです。

この事件の事は、いずれ笑い話になるかも知れませんが、受けた傷は残ります。

ですから、今回の事は「神さまからの癒しが必要」なのです。



まして、小さい頃から受けた数知れない心の痛みは、癒される必要があります。

それが、現在の私の中に陽炎のように写しだされているかも知れません。

癒され、切り離されると自由になって、新しい自分として歩み出せると思います。

これには、過去に戻る事の出来るお方・・・イエスさまの十字架の恵みが必要ですね。


聖書(イザヤ53:5)

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲しめをうけて、

われわれに平安を与え、

その打たれた傷によって、

われわれはいやされたのだ