●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

弱さの中にある恵み

2017年02月23日 | 思うこと



ある時、友達が言いました。

「わたしは、とっても心が弱いので強くして下さいと祈っているよ。」と。

私はその時、ただ聞いてただけでしたが、心の中で思っていました。

「神さまは、その祈り通りには応えて下さらないだろうな・・・」と。



いえいえ、神さまを信じていない訳ではありませんよ。

イエスさまは、私たちのどんな心の病いや病気も癒す力があります。

ただ、心を強くすることによって私たちを祝福される訳ではないんです。

逆です!

私たちが「もう自分では何も出来ないし、全く弱い者だ。」

と分かるまでは「弱さ」の中に閉じ込めておられることがあります。

弱い弱い!と言っている時でも、私たちはとても強いからです。

自分の力で何とかしようとしていて、いろんな策略?を考えています。

「こうしたら上手く行くかもしれない。」

「この方法が良いかもしれない。」などです。

一つ一つは悪い事ではないですし、時にはむしろ良い事に見えますが、

神さまが目指しておられる事は、そのような何かではなく、

「ただ、全面的に全て神さまにだけ!頼るように」と言うところです。




私は、かつてイエスさまを信じていても安らぎや喜びがなくなっていました。

信仰が何かも分からなくて、完全に迷い出て来てました。

もちろん、イエスさまが救い主だって事は信じてました。

ただ、「全てを神さまに委ねる」と言う事が分からなくて、

ひたすら頑張って祈ったり、聖書を読んだり、信仰書を読んでみました。

ところが何をしても満たされない所か、どんどん混乱してしまいました。

よく夫が、「そんな複雑な事じゃないよ、イエスさまに信頼してたらいいよ」

と言っていたものでしたが、どうすれば信頼した事になるのかが分からないのです。




その後、神さまは私の人生をいろいろな意味でドン底に落とされました。

もう私には何の希望もなく、生きる意欲もありませんでした。

私はクリスチャンとしても最低だし、人間としても最悪だと思いました。

そんなある日…ふと窓越しに西の空の夕焼けを見ていたら、

「わたし…愛されているような気がする…。」と思ったのです。

その時には、わたしは自分の人生の全てを、神さまに委ねていました。

委ねようと思った訳ではありませんし、信頼していますと祈った訳でもありません。

そうするしか他になかったのです。

私は、いろんな出来事を通して打たれ「弱くされた」のです。

弱さの中にいたら、不思議と信仰が湧いて来たようなのです。




それまでは、物事が上手く行くと高ぶり、失敗すると落ち込み、

謙遜になることなど絶対に出来ませんでした。

でも、謙遜でいることが普通になったのです。

努力して得たのではなく、打たれて弱くなって謙遜を頂きました。

そしてそこから少しずつ神さまの恵みが分かるようになりました。

私が弱くされた事は、私にとって幸せでした。

それによって、私は自分(自我)から自由にされたのですから。

もう、「弱い弱い!」とか「ダメだ!」などとは言いません。

そんなのは当然だからです。だから神さまに頼るのですから。




何と言っても、私にとって(神さまにとってもでしょうが)、

一番厄介だったのは、「わたしの固い自我」でした。

私の問題は、自分が「弱い」ことではなく、とてつもなく「強い」ことでした。

ですから神さまは長い時間をかけて、私を弱くして下さったんです。

それは、本当に感謝なことでした。

今もまだ少しずつ砕こうとして下さっていますので、

ゆっくりと神さまに着いて行こうと思います。

あなたの罪は赦された

2017年02月11日 | 思うこと





ふと、私がクリスチャンになった頃のことを思い出しました。

初めて教会に行ってから、一月ほど経った時に「特別集会」がありました。

宣教師の先生をお招きしての集会でした。

私は、聖書のお話しを「とても信じられない!」と思いつつも「信じたい!」

と、心から思っていました。

その時に語られた「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネによる福音書20:27)

との聖書の言葉で「信じてみよう!」と決心しました。




さて、次の日の朝…

私は、自分はクリスチャンになったのかな?と思っていました。

そして、いつものように朝ごはんを食べていて、

振り返ってお醤油を取ろうとした時、心の声がしました。

「あなたの罪は赦された…」

ん?何だろ?さっきのは何だろ?

すると急に溢れんばかりの喜びがドバーッと来て、

嬉しくて嬉しくてたまらなくなり、急いで教会に行きました。

平日だったので、伝道師の先生しかおられなかったのですが、

とても喜んで下さいました。




ですが、最近まで「あなたの罪は赦された」にはあまり気を留めていませんでした。

ふと考えてみると、その時私は罪に苦しんでいたつもりはなく、

赦されたい!と思っていた訳でもありませんでした。

ただ、自分も他人も人間は汚い者だと思ってはいましたし、

それと同時に理想主義者でもあったので、本物の愛とか清さに憧れていました。



本当の私の問題は、私の内にある罪だとは知りませんでした。

しかし神さまはご存じだったので、私に「あなたの罪は赦された」

と声をかけて下さったんだと思います。

罪が赦されることの大きな恵みは、後になってみると、

とても幸せなことで、身に余る光栄なことだと分かります。

そして、私の罪が赦されるためには、

イエスさまがどんなに大きな犠牲を払って下さったか?

ってことが、本当の意味で有り難くて有り難くて!たまりません。

十字架で見捨てられて下さったイエスさまの愛によって、私は引き上げられたんです。




イエスさまの十字架の上での、

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書15:34)

と言う言葉を、敗北宣言だと言う人たちがいますが、

イエスさまが私を救うためには、父なる神さまに見捨てられなければならなかったんです。

本来ならは、罪深い私が捨てられて当然でした。

ここに身代わりの死があります。身代わりの愛があります。



そして、3日目に蘇られました。私が「義」とされるためです。

赦されただけでもありがたいのに、「義」を頂きました。

今の幸せの全ては、イエスさまの十字架の愛の故です。

感謝です(^-^)

悔い改めの祈り

2017年02月09日 | こころの健康



こんにちは〜^_^

雨です!

雪でなくて良かったー




朝から元気に仕入れに向かって走ってた時に、

私が知り合いのある人に対して、優しくないって気づきました。

「あーもっと優しく話した方がいいのにな〜」と思って、

車の中で、お祈りしました。

「〇〇さんに対して、優しくなかった事をごめんなさい。」

ところがお祈りしても、なぜか?スッキリしません。なぜだろう?

何回かお祈りしたら、ハタと違うことに気づきました。



そうだ!ずっ〜と前のことだけど私は、〇〇さんを許してなかったと。

もちろん、憎んでいた訳じゃないし、仲が悪い訳でもないです。

尊敬もしているし、良いところも十分理解しています。

なるほどー心から許してないから、ちょっとした時に優しく出来ないんだな。

と気づいたので、今度は「許します」ってお祈りしました。




神さまと共に歩むと、時にこんなことを教えられる事がありますね。

自分には痛いことですが、少しでも成長したいなら避けられません。

私がその方のことを、いきなり熱く愛したり出来ないですけど、

今度会った時には、神さまの愛が注がれると信じて歩みます。

毎日、イエスさまの十字架の愛が必要です。

この許しの恵みがあるからこそ、私は生きていけます。